聖書交読 詩編98編(旧約p935)
司)98:1 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。
会) 98:2 主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し
司) 98:3 イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。
会) 98:4 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。
司) 98:5 琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。
会) 98:6 ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
司) 98:7 とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。
会) 98:8 潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え
全) 98:9 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。
聖書朗読 ヨハネ15章9~17節(新約p198)
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
説教 「命を捨てるほどの愛」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
日本では今ゴールデンウイークを過ごしておりますが、連休のリラックスモードからすると、本日の福音書の箇所は、愛がテーマになっているのはうれしいものの、「互いに愛し合いなさい」という迫りはややプレッシャーとなるような気もします。よく知られている箇所ではありますが、どういう箇所なのか、改めて見てまいりましょう。
イエス様は弟子たちに「あなたがたを愛してきた」と告げ、「わたしの愛にとどまりなさい」とお勧めになります(9節)。そのように、イエス様はこの箇所でご自身の愛について話しておられます。「父がわたしを愛されたように」(9節)とあるように、その土台には父なる神様からの愛がありました。
ここでわかることは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」とありますように、父なる神様とイエス様の愛の関係が、イエス様と「あなたがた」、すなわち弟子たちの関係にそのまま反映される、ということです。イエス様が父なる神様とたいへん親密な関係であったように、弟子たちもイエス様とたいへん親密な関係にあった、ということを表しています。
10節には掟のことが言われていますが、まずイエス様は父なる神様の掟を守られたとあり、イエス様が父なる神様に従順であったことがわかります。これは、ヨハネによる福音書の中心テーマであるとも言われます。弟子たちをはじめとする人間の側の従順よりも先に、まずイエス様の従順が語られている、というのが、この箇所の重要な点であることを、忘れないでおきましょう。イエス様は父なる神様に従順であり、その掟を守り、父なる神様の愛にとどまっていました。これがいちばん大事なことなのです。そしてそこから派生するあくまで二番目のこととして、弟子たちも同じように、イエス様の掟を守るなら、イエス様の愛にとどまることになる、と言われているのです。
ちなみにここで言われている「とどまる」、ということですが、本日の福音書の箇所の中で重要な言葉のひとつで、「住む」とも訳されますし、「とどまる」ということは、「そこから出て行かない」ということも表わす言葉です。
11節で、イエス様がこの話題の関連で「喜び」という言葉を使っておられることからすると、イエス様の掟を守ってイエス様の愛にとどまることは重荷ではなく、喜びであるはずだ、という言い方もできます。その喜びは、世が与える一時的なものではありません。イエス様のみことばを聞く者の内にとどまり、永続する、神様からの喜びです。
そして、12節で、「互いに愛し合いなさい」という掟が語られるのです。10節で、イエス様の掟を守ればイエス様の愛にとどまると言われていた、その掟です。しかも、「イエス様が愛したように」互いに愛し合いなさい、と言われています。
これができたら悩みはない、というのが、私たちの反応かもしれません。互いに愛し合うことが大切なのはよくわかっているのです。一生懸命人を愛そうとするのですが、それでも、自分には愛が足りないのではないか、と思うこともしばしばです。しかも、互いに、と言われたら、相手が愛してくれないと成立しないのでは、ということで、なかなか難しいようにも思われます。それに加え、少し前の「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(10節)という条件も、イエス様の愛はそんな条件付きだったのか、ということで、何となくしっくりこない。どう考えても良い知らせではない、とまで思えてきます。みことばを語る牧師は、聞く人々に重荷を負わせたくない、という思いが根底にあります。でも、イエス様は掟を守れ、そして互いに愛し合いなさい、とお命じになる。これはどういうことなのか、ということです。
そもそも考えてみると、弟子たちに「愛し合いなさい」と教えないような教師を尊敬できるか、ということです。最初から「掟など守らなくてよい」と言うような教師は信じられるのでしょうか。
しかも、イエス様は神様なのですから、人間に重荷を与える権威もあるし、それを与えるのも与えないのも誰にも左右されず、ご自由になさるのです。
そのように、イエス様が「互いに愛し合いなさい」「掟を守りなさい」と命じられる権威を持ったお方であることを認めた上で、更に当時の状況を考えなければなりません。これらの命令はまず、弟子たちに語られた、ということです。何年も福音書を読み、イエス様を信じて、曲がりなりにも愛すること、イエス様の掟を守ることに努めてきた者たちに、更に重荷を負わせようと語られているのではないのです。
当時の弟子たちの状況を考えてみましょう。旧約聖書で勿論「愛」が語られていても、マタイ5章にある『隣人を愛し、敵を憎め』(43節)という言い伝えのように、普遍的な愛は語られていなかったような時代です。それに、出身も生業も異なる弟子たちの中にはライバル関係もあったようで、もとから互いに愛し合う土壌があったとは言い難かったのではないでしょうか。そもそも「互いに愛し合っていなかった」からこそ、そのように命じられているわけで、そのような「当時の弟子たちの状況」を見て、一般論ではなく特定のグループに対する具体的な指示として、「互いに愛し合いなさい」が命じられた、と理解しなければなりません。しかも、「わたしの掟を守るなら~」などの条件付けをして枠を作らない限り、弟子たちはどこへ行ってしまうかわからない、というような状況もあったのではないでしょうか。
そういった特定の状況があって、「互いに愛し合いなさい」と他人に教えるだけでなく、いかに愛するかということをご自分で示されたのがイエス様です。命じるばかりの主ではありませんでした。そしてイエス様はその愛について具体的に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)と教えておられるのです。
これは単に自己犠牲を勧めているというだけでなく、ご自身の十字架のことをも指しておられます。友のために十字架にかかること、これ以上に大きな愛はない、ということです。この時、イエス様は弟子たちを「友」と呼んでおられます。イエス様は共に過ごす弟子たちを愛して、どんなに不完全な弟子たちであっても、彼らのために十字架にかかる、ということを暗に示しておられるのです。
このことに関しては、イエス様当時の弟子たちだけでなく、この福音書のみことばを読む現代の私たちのことも「友」と見なして、私たちのためにも命を捨ててくださった、すなわち十字架にかかってくださったことをも表しています。その愛を受けたからこそ、私たちはイエス様を、そして他者を愛するのです。
最後には、この箇所でのもう一つ有名なみことば、「わたしがあなたがたを選んだ」というイエス様のみことばがあります。最初は互いに愛し合っていなかったような弟子たちをも、選んだのはイエス様だったのであり、ここに福音があるのです。この不完全な私たちのことをも、イエス様は選んでくださった、ということです。しかも、実を結ぶ人生を送ることができるように、イエス様の名によって父なる神様に願うものは何でも与えられるようにしてくださったのです。
改めて「互いに愛し合いなさい」と命じられて終わるのが本日の福音書ですが、すでに私たちは、「互いに愛し合いなさい」と命じておられるイエス様が、命じるだけの方でないことを知っています。十字架で、弟子たちのために、そして私のために命を捨ててくださった方だと知っています。そして、命じられても完全に愛しきれない私であっても選んでくださったことを知っているのです。だからこそ、そのイエス様の愛を胸に、互いに愛し合うことに向かっていくのです。そして、やはり愛が足りず、愛することができなかったら、またイエス様のもとに戻ってきて、赦しと愛を受けるのです。
互いに愛し合うことは今なお必要です。使い古された言い方ではありますが、愛を必要としている人はこの世界に必ずいるのです。必要なことだからこそ、重荷になろうと何だろうと、イエス様は命令されたのです。私たちは今試されています。コロナで一度つながりが希薄になったこの世界で、それでもなお人を愛するのか、見られているのです。人間は楽な方に流れるので、何も命じられず、何をしてもしなくても「いいよいいよ」の神様を夢想してしまう。しかし、現に「互いに愛し合いなさい」とイエス様は命じておられるのです。ただ、自分の力で愛するのではありません。私たちがイエス様の命を捨てるほどの愛に感動して互いに愛し合っていく時に、神様の栄光となるのです。
お祈り
天の父なる神様、あなたのお名前を賛美します。
ゴールデンウイークの期間も守ってくださり、
このように礼拝に集わせてくださって、
あなたの恵みを受けられるようにしてくださってありがとうございます。
人を愛そうと思えば思うほど自らの愛のなさを実感する者ですが、
それでもイエス様の私に対する命を捨てるほどの愛を示してくださり、
十字架で救い出してくださり、そればかりか、まことに不完全な者を選んでくださり、
改めて感謝いたします。
イエス様の、命を捨てるほどの愛を胸に、
この時代に必要な、互いに愛することに向かわせてください。
困難の中に生きる人々を慰め、被災地や戦火の絶えない地に生きる人々に希望をお与えください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
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