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執筆者の写真明裕 橘内

2024年5月26日 三位一体主日


聖書交読 イザヤ6章1~8節(旧約p1069)

司)6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。

会) 6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。

司) 6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」

会) 6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。

司) 6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

会) 6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。

司) 6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

全) 6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」


聖書朗読 ヨハネ3章1~17節(新約p167)

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。

 3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

 3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

 3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

 3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

 3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。

 3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

 3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

 3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

 3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。

 3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

 3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。

 3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。

 3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。


説教 「三位一体の神の愛」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

5月も第四の日曜日、26日となりました。5月は合同婦人会、春の特別礼拝と、たくさんの恵みを受けた月でした。特に9日の合同婦人会は、テーマの御言葉がヨハネによる福音書3章16節でしたので、本日の福音書の箇所と共通しています。


たいへん有名な3章16節の御言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ですが、これはイエス様とニコデモの会話が前提となっています。なので、まずはその会話の部分から、読み解いていきたいと思います。会話と言いましても、ニコデモは9節の問いを発してからは登場せず、そのあとはイエス様の教えが続き、それに対してニコデモがどう反応したのか、どう発言したのかは知られておりません。


まずはニコデモがどのような人物であったかが1節で示され、2節にその言葉が記されています。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」とありますが、これは何かを問おうとしたのか、それとも単にニコデモの感想を伝えようとしたのか、少々わかりにくいところです。


それに対して、イエス様は「はっきり言っておく」と確信を持って、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」というように、人が新たに生まれること、そしてそれによって神の国を見ることについて、即座にお答えになっているようです。ニコデモの、質問とも感想ともつかない言葉の中に、「神の国を見るにはどうしたらよいのでしょうか」といった問いかけを見出した、ということだったのかもしれません。だから、それに対して、「新たに生まれなければならない」とお答えになられたのです。


この、「新たに生まれなければならない」というイエス様の教えに、ニコデモは敏感に反応しています。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と重ねて問うことで、イエス様の言葉にたいへん関心を寄せていることを示しています。この時、ニコデモは本当に、「新しく生まれる」ということについて、知りたかったのです。なぜなら、それを通してこそ、彼のイエス様への質問の目的、「どうやって神の国を見るか」あるいはどうやってそこに入るか、といいう疑問に対する答えを知ることができたからです。


ニコデモの問いに対するイエス様の答えは、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」というものであって、ひとつ前の「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と実質変わりません。本当に神の国に入りたかったのであろうニコデモに対しては、そこにはいる手立てを教えるにはまことに不親切な答えであって、イエス様は本当に、ニコデモに神の国への入り方を教えようとしておられたのか、いぶかしく思ったりもするものです。あるいは、問題はニコデモの方にあって、実はそれほど神の国に対して真剣ではなかった、だから「神の国に入りたいのです。どうしたらいいのですか」と直接的に尋ねなかった、イエス様はそれを見抜いて、わざとニコデモを煙に巻くような答えをなさっている、ということも考えられなくもありません。いずれにしても、謎が謎を呼び、ニコデモにはわからない世界になっていた、ということも考えられます。イエス様は続いて「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」とお教えになり、「風は思いのままに吹く」と、霊によって生まれた者の性質を述べられますが、もはや訳が分からなくなっているニコデモには、そのように教えるイエス様の声は届いていたのでしょうか。


9節を見ると、ニコデモはようやく「どうして、そんなことがありえましょうか」と答えています。それが精一杯の答えだったのでしょう。しかし、イエス様は更に続けます。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」。現にイスラエルの教師と呼ばれてもおかしくないような存在のニコデモが、理解できなくて四苦八苦しているわけですから、イエス様のこの言葉は少々手厳しいようにも思えます。しかし、また別の側面から考えると、ルカの24章によるならば、御自分のことはすでに旧約聖書に書いてあり、それはすべて実現する、とイエス様は教えておられたわけですから、本来ならば、イスラエルの教師であるなら、旧約聖書から新しく生まれるということの意味を読み解くことができてもおかしくなかったのかもしれません。


14節で突如としてイエス様が「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と、「荒れ野の蛇」のことに言及しておられますが、これはイスラエルの辿った歴史を知っているはずの人に向けて語ったイエス様ならではの言葉です。旧約聖書の民数記21章に記されている神罰について振り返った言葉で、荒れ野で水も食糧もないことに不満をもらしたイスラエルの民を炎の蛇が襲い、それから逃れるためにモーセが青銅で作った蛇を高く掲げ、それを仰ぎ見た者が救われた故事を引き合いに出して、のちに十字架に高く掲げられる御自分こそ人を救うものである、ということを事前に表明した発言ということになります。その辺りのことを、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(15節)とお話しになっておられますが、それに対してニコデモがどう思ったか、どう反応したかについては、聖書には記されていません。


今までの部分を振り返ると、そこに、御子イエス様を遣わされた父なる神様、遣わされた御子(2節)、人を新しく生まれさせる霊(聖霊、5節)というように、三位一体が暗示されていることがわかります。そして、15節で「信じる者が『皆』、永遠の命を得る」という救いについて語られたのを受けて、16節にはたいへん有名な「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみことばが述べられるわけです。冒頭で、合同婦人会のテーマの御言葉だった、とご紹介したみことばです。


ただ、新共同訳だけがこれをイエス様が語られた言葉として訳し、口語訳、新改訳、最新の聖書協会共同訳は語り(ナレーター)の文として訳しています。17節では「独り子」が「御子」と言い換えられていますが、そもそも福音書の中で「独り子」「御子」という語が珍しく、ヨハネの福音書のみで用いられており、しかもイエス様がご自分を「独り子」「御子」と称されるのも考えにくいので、実際は16,17節はナレーターの文であると捉えた方がふさわしいように思います。いずれにせよ、世を愛されたのは三位一体の神様であり、御子を世に遣わし、人が新しく生まれるために聖霊を送ってくださいました。この三位一体の神様の愛があるからこそ、私たちは心強いのです。


さて、5月には様々な集会があって恵みを受けたと申しましたが、また、5月18日は、3月に天に召された鍋谷先生の記念会もありました。私たちの教会の初期に、たいへんお世話になった先生です。記念会は礼拝形式で行われましたが、選ばれていた賛美はすべて鍋谷先生の愛唱歌で、意外にもすべて聖歌から選ばれていました。その中には聖歌392番「神はひとり子を」もありました。1節の歌詞をご紹介します。


「神はひとり子をたもうほどに よびとを愛したもう 神は愛なり ああ 神は愛なり 汚れ果てし われさえ愛したもう 神は愛なり」


すでに皆さんお気づきのように、今取り上げておりますヨハネ3章16節が基になっている賛美です。神様が深く深く、まさにイエス様をお与えくださったほどに私たちを愛していてくださることを、伸びやかな麗しいメロディーに乗せて歌う感動的な賛美で、私も好きな聖歌ですが、ひとつのみことばに対する感動が、人をして口を開いて歌を歌わしめるものであることを深く思わせます。人はみことばに対して感動するあまり、こうして歌を歌うのだ、ということです。


「神は愛なり」という歌詞で思い出しましたが、本日は礼拝後、午後1時から三浦綾子読書会がありますけれども、前回まで読んでいた『道ありき』の中には、三浦綾子さんを導いた大事な御言葉として、「神は愛なり」が登場します。そのように、神様の愛は非常に印象深く、私たちの心に迫ってくるものです。


その神様の愛、今日は「三位一体の神様の愛」と定義したいと思いますが、それを伝える3章16節を改めて読んでみたいと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ここで言われている「世」が、そこに住む人々のことを指していることは、先ほど紹介した聖歌の歌詞で「神はひとり子をたもうほどに <よびと>を愛したもう」と言い換えられていることからも明らかです。その愛は、イエス様を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ることを望み、その実現のためにはイエス様を死に渡すことも辞さないほどのものでした。人間とは、そこまで三位一体の神様に愛される何か資格を持っているのでしょうか。何か人間の側で神様に貢献したので、そのご褒美として、この愛を勝ち取ったのでしょうか。そうではありませんでした。その意味では、世界をつくり、それを保持しておられる三位一体の神様は、何の理由もなく、ただ何にもとらわれない心で、人間を愛することになさったのです。


それほどの三位一体の神様の愛、ひとりとして滅ぼすまいとするその愛を受ける当の私たち人間はと言えば、簡単に不安になるし、恩を仇で返す様なことは珍しくもなく、信じていなさいと言われてもなおそれを貫くことができないような者です。簡単に周囲の状況に左右されて一喜一憂するような面も否定できず、果たしてそのような人間を救ったところで神様のためになるのか、却って神様の栄光に傷をつけるようなものではないのか、そのように考えるのは悲観的過ぎるでしょうか。人間の心の負の部分、暗闇の部分を描き出すのは、人間の「原罪」の問題を正面から取り上げた三浦綾子文学の特徴の一つでした。


それでも、決して割に合わないのに、私たちを覆い包む三位一体の神様は私たちを救おうと、父なる神様は御子を遣わし、御子は十字架に向かい、聖霊は新しく生まれさせようとなさった。これが三位一体の神様の愛です。たとえ振り向かれなくても、この愛を神様は示してくださったのです。


続く17節にも、三位一体の神様の救いの御心は明確に示されています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。父なる神様は御子を遣わし、御子は十字架の上で世人が救われるように命を差し出し、聖霊はその光で真理を照らし出し、私たち一人一人にイエス様の命を適用して永遠の救いを実現される。誰一人として失いたくないという、熱烈なる神様のご愛で、それは、患者を救おうと懸命に治療する尊敬すべき医師たちの姿を描くどんな医療ドラマをも遥かに凌駕する熱い思いであると、私は思っています。


16,17節がナレーターの文ではなく、イエス様の言葉の引用であったとしたら、ニコデモはイエス様から直接、神様の深い愛の言葉を聞いたことになります。ニコデモの反応は記されていないと申し上げましたが、その後の彼の姿を見るならば、彼は確実に変わった、ということもできるかと思います。イエス様を信じた、とははっきり書いてありません。しかし、のちに彼は、ユダヤ人たちの中にイエス様を捕えようとする動きが出てきたとき、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(7章51節)とイエス様を弁護しました。その上で、イエス様が十字架での死を遂げられた後、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」( 19章39節) とあるように、イエス様を尊重して、埋葬のために大きな犠牲を払ったのです。


私たちも、ニコデモのようになりましょう。イエス様について弁護し、イエス様のために犠牲を払う姿を目指すのです。いや、すでに神様は、私たちをそのように変えておられるはずですから、感謝をしたいと思います。イエス様について弁護し、イエス様のために犠牲を払う。逆に言えば、これは三位一体の神様が私たちを深く愛するあまりに、私たちに対してしてくださっていることです。今なお古い人が残っているがゆえに罪を犯さざるを得ない私たちを弁護し、私たち人間のために犠牲を払う。三位一体の神様の中でも、特にイエス様のうちにそのような姿を見ます。日々聖霊の働きによって、私たちは主イエス様の姿に似せられていっているのですから、そこには希望があります。私の努力で私を変えられなくても、聖霊が私たちを変えていってくださるからです。神は愛なり。私たちに対する三位一体の神様の愛は絶大です。それは不安の中を生きる私たちを支えます。この愛に頼っていこうではありませんか。


お祈り

天の父なる神様、あなたの尊いお名前を賛美します。

今年も無事三位一体主日を迎えました。ここまで導いてくださり、感謝します。

三位一体の神様が、私たちに限りない慈しみを示してくださり、

御子イエス様をお与えになるほどにこの世界に生きる人々を愛してくださっています。

聖霊は私たちが新しく生まれて神の国に入ることを実現してくださいます。

この深い三位一体の神様の愛を受けて、感謝して、この愛に信頼してこの不安定な世界を生きていくことができますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・先週は春の特別礼拝でした。ゲストに吉田隆先生が来られ、賛美と説教をしてくださいました。




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