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執筆者の写真明裕 橘内

2024年5月12日 昇天主日


聖書交読 使徒1章1~11節(新約p213) 

司)1:1 -2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

会) 1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

司) 1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。

会) 1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 司) 1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

会) 1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。

司) 1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

会) 1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

司) 1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、

全) 1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」



聖書朗読 ルカ24章44~53節(新約p161)

24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

 24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

 24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

 24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

 24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

 24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。

 24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

 24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、

 24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。


説教 「祝福しながら」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


昨年12月3日の待降節第一主日からずっと、私たちの救い主であり主であるイエス様に焦点を当てて、教会の暦を過ごしてまいりましたが、いよいよイエス様が天に帰られたことを記念する昇天主日となりました。この5か月半ほどの間、この教会の暦に従ってイエス様のご生涯を追体験してきたわけですが、どのような印象をお持ちになられたでしょうか。このような教会の歩みを、私たちは毎年毎年繰り返しております。そのことを通して、イエス様のご生涯とご人格、そしてその福音が私たちのうちに染みわたるように、と意図されてのことです。というわけで、今日は昇天主日を迎えております。イエス様の昇天について記す福音書の箇所を、共に開いております。44節から48節に関しては、実は4月14日、復活節第3主日にすでに開いておりますが、確認の意味も込めまして、改めて一緒に見てまいりましょう。


復活のイエス様は、天に上げられる前、弟子たちと再会なさいました。そして、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」(44節)とあるように、聖書にご自身のことが書いてあること、そしてそれが必ず実現することを改めてお告げになりました。それだけでなく、「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」とあるように、十字架と復活の前、イエス様がまだ弟子たちと共に過ごしておられたころ、イエス様は弟子たちに、あらかじめそれらのことを語っておられたのです。


それらのことをよく理解することができるように、イエス様は弟子たちの心の目をお開きになり、最後の教えをなさいます。46節から、49節にそのことが記されています。改めてその部分を読んでみます。


「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。

わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」


その中で、まず述べられているのは、メシアであるイエス様が苦しみを受ける、ということです。これが冒頭に来るということは、単に順序の問題だけではなく、それが重要である、ということも意味しています。何よりもイエス様は、ご自身の御受難を最重要のことと捉えておられたのです。その上で、復活が語られ、罪の赦し、そしてそれを得させるという悔い改めについて、お話しになられます。この罪の赦しを得させる悔い改めは実にスケールが大きく、全世界に宣べ伝えられるのではありますが、そのスタートはエルサレムである、と言われます。それは小さなスタートではあったかもしれませんが、ご存知のように、今は全世界への広がりを見せています。


そして最後に、「父が約束されたもの」、すなわち聖霊を送る約束をなさり、ペンテコステに備え、聖霊による「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)とお命じになります。「とどまる」については、最近ヨハネの福音書において学んでいた、「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)というイエス様の教えと共通点はありますが、使われている言葉に違いがあります。ヨハネの福音書の方の「とどまりなさい」が「住むかのようにとどまる」のに対し、こちらは「座ってとどまる」といった意味合いがあるようです。いずれにしても、イエス様の福音の証人になる役目が与えられたからといって、自分の力でどんどん出て行く、というのではなく、まずはとどまる、ということが大事であるのです。はやる気持ちで自分で出て行ってしまっては、何の力もありません。父なる神様が約束してくださった聖霊をイエス様が送ってくださり、それによって私たちが高い所からの力に覆われるということが、何よりもまず必要であるのです。


これらの教えの後、「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された」(50節)とあります。手を上げるのが、当時、祝福をする姿勢だったのでしょう。ということは、「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(51節)とは、手を上げながら、あるいは手を上げたまま、イエス様は天に上げられた、ということを表していることになります。


このことは、先ほども皆さんで一緒に唱和した使徒信条の、「天にのぼり、父なる全能の神の右に座し給えり」の部分が実現したことを意味しています。約束のメシアであるイエス様がこの世に来てくださり、私たちの救いの実現のために十字架と復活の救いの業を果たされたので、今や父なる神様が正しく救いのご計画を成し遂げられたイエス様を地上に留めておくことはできません。そこで父なる神様はイエス様を天へと引き上げ、ご自身の右の座に就かせられたのです。この「右」とは、場所というよりも、父なる神様の権威ある場所、ということです。そうすると、時代としては今、イエス様の条項では、最後の「生ける人と死にたる人とをさばかんがため、かしこより再び来り給わん」の部分が残っているだけ、ということになります。別の言葉を使えば、それはイエス様の「再臨」です。今はその実現を待っている状態である、ということになります。


イエス様は天において、その後も手を上げて私たちを祝福したまま、いつも私たちを見守っていてくださいます。そして、天におけるイエス様の私たちに対するたいせつな働きは、私たちを、訴える者から弁護してくださることです。祝福しながら、イエス様は私たちを弁護していてくださるのです。それは、第一ヨハネ2章1節に「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」と書かれている通りです。


ここで少し、手を上げる、と言う時の「手」について、その意味を考えてみたいと思います。手は「力」を表すと言われます。そしてその力は、単に強いというだけでなく、「主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである」(出エジプト13:16)とあるように、出エジプトのあの偉大なる救いの奇跡をも暗示するものです。イエス様が高々とその手を掲げてくださる時、それは奴隷のイスラエルの民を束縛のエジプトの地から見事に導き出された、その偉大なる救いの力が私たちに与えられることを意味するのです。

 

その手を上げて、イエス様は私たちを祝福なさいます。「祝福は必ず変化をもたらす」と言われることがあります。ということは、「手」は力を表すということでしたから、イエス様の力によって、私たちに変化がもたらされる、ということを期待することができます。牧師が祝祷の時に手を上げることが多いのは、手を上げて祝福されたイエス様の行動をなぞっているわけです。ですから、祝祷とは、礼拝の終わりにおいて、イエス様の力によって、自分たちでは変わり映えのしない毎日が続く一週間に過ぎないのに、そこに変化が与えられるのだ、ということを信仰を持って受け止める時でもあるのです。


では、最後に、イエス様が天に帰られたのを見た弟子たちの姿を見て、それを今週を生きる私たちの模範としたいと思います。


52節、53節を読んでいきますと、次の3つのことが言われていることがわかります。


第一に、弟子たちは「イエスを伏し拝んだ」とあります。彼らは十字架と復活を経たイエス様が天に昇られるのを目の当たりにして、イエス様が神様であることを認めて、礼拝したのです。私たちも迷わず、神様であるイエス様を礼拝するのです。


第二に、彼らは「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいた」と言われています。弟子たちの心には、イエス様との別れの寂しさよりも、喜びが満ち溢れていました。私たちもイエス様から喜びをいただいて、喜びの信仰生活を送ります。そして、「絶えず神殿の境内にいた」とありますから、現代的に言えば、常に教会にいた、ということにもなるでしょう。コロナ以降、毎週の昼食会はなくなり、ようやく復活しても月に一度か二度、という昨今です。教会にいるのは礼拝の時間だけ、ということも多くなりました。もちろん、そのようにして礼拝を中心にし、礼拝に集中する、ということの大切さを再認識する時にもなったわけですが、主の日に限らずことあるごとに教会に集い、教会にいる、ということもまた大事であることがわかります。土曜日の祈祷会は午後4時からですが、もっと皆さんに教会に来ていただくのに良い機会になるかと思います。また、19日は春の特別礼拝ですから、ご友人やお知り合いをお誘いいただいて、多くの方々と一緒に教会にいる、ということを図る良い機会でもあります。ぜひお誘いいたしましょう。


第三に、彼らは「神をほめたたえていた」ということで、まさにこの2024年、「主の慈しみとまことをほめたたえよう」という目標を掲げて信仰生活を送る私たちにも大いに参考になる姿です。手を上げて私たちを祝福しながら、いつもイエス様が見守っていてくださると信じて、大いに喜んでイエス様を礼拝し、常に教会にとどまり、神様をほめたたえて毎日を過ごしてまいりましょう。


お祈り

天の父なる神様、あなたの尊いお名前を賛美します。

救いの業を終えられたイエス様を、あなたが天に戻され、

ご自身の右の座に就かせられたことを御言葉で読みました。

今私たちは、そのイエス様が私たちに会うために再び来られることを待ち望んでいます。

イエス様は手を上げて祝福しながら、天に帰って行かれました。

今もなお手を上げて祝福しながら、私たちを見守っていてくださること、感謝いたします。

どうか悪い敵が、私たちをいろいろと訴え出る時、どうか天の所において、

私たちを祝福しながら、弁護してください。

困難な道を過ぎゆく時にも、どうかイエス様によって喜びに満たされ、

教会に集い、神様をほめたたえながら歩めますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・来週は春の特別礼拝です。ゲストに吉田隆先生が来られ、賛美と説教をしてくださいます。お誘いあわせの上お越しください。






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