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執筆者の写真明裕 橘内

2024年4月7日 復活節第二主日


聖書交読 詩133編 (旧約p975)

司)133:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

会) 133:2 かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

全) 133:3 ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

 

聖書朗読 ヨハネ20章19~29節(新約p210)

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

 20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

 20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

 20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

説教 「見ないで信じる信仰」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

水曜日の朝、沖縄地方で地震があり、引き続きすぐに津波警報が出て緊張が高まりました。固唾を飲んで見ていると、台湾の方が大地震だったことがわかりました。その前後には、東北地方で地震が観測されました。その他、各地での地震が続いています。そのような中で、不安を感じておられる方も多いことでしょう。このような時、私たちの信仰はどうあるべきなのでしょうか。

 

手がかりとして、本日の福音書の箇所を見てみたいと思います。イエス様の復活が確かであったことを示すエピソードのひとつです。

 

「週の初めの日」とは、今で言う日曜日のことです。イエス様は、この「週の初めの日」にお姿を現されていました。イエス様の近くにいてその言動に親しく触れていたはずの弟子なのに、イエス様の復活があったものの、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」というような有様でした。まさにそのような時に、イエス様は、弟子たちの「真ん中に立」つ方であることがわかります。そして、恐れがあるところに、「平和があるように」と言われました。これは、当時の単なるあいさつを越えた、大きな慰めです。「手とわき腹とをお見せになった」ことで、弟子たちには確かに、その方が十字架にかかられたイエス様であることが分かりました。それで、恐れは喜びに変わったのです。気持ちの持ちようや、発想の転換ではなく、恐れの中でイエス様に出会うときに、喜びが生まれるのです。

 

このところから、大事なメッセージとして、今週も、イエス様は私たちの真ん中におられる、という真理が明らかになります。いつ起こるかわからない自然災害に恐れ、不安になる私たちに、「平和があるように」と言ってくださる。もちろん、それは「心の中に平安があるように」との慰めのメッセージなのです。

 

続いてイエス様は、弟子たちに罪の赦しに関する大事な教えを残されます。しかし、なぜかその時、トマスはそこに居合わせなかったのでした。罪の赦しに関しては、「聖霊を受けなさい」とのことばにあるように、聖霊が深く関係しています。イエス様の十字架によってなされた罪の赦しのわざの偉大な結果が、聖霊によって個々人に適用されるのです。

 

この出来事の後、弟子たちは、喜び勇んで「わたしたちは主を見た」と言います。そこに居合わせなかったトマスとも、喜びを分かち合いたかったのでしょう。しかし、トマスとしてはイエス様の復活を信じられなかったし、もし復活が事実であったとしても、自分がいなかったときにイエス様がお姿を現されたことを赦しがたく思っていたかもしれません。その辺りの複雑な思いもあって、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)とまで言ってしまいます。この時、トマスはまさかこの言葉を、イエス様が聞いておられるなどとは思っていませんでした。復活すら信じていなかったのですから。

しかし、このトマスの言葉をイエス様は知っておられました。復活のイエス様は、その不思議なお体によって、鍵のかかった部屋にも入ることができましたし、その場にいなくても、トマスのことばを聞くことができたようです。そこで、トマスもいる時に弟子たちに姿を現された時、イエス様はトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)と声をかけてくださったのです。十字架の傷跡に触れてもいい、というメッセージです。それを聞いて、トマスはイエス様が確かに復活なさり、自分が発した失礼な言葉まで聞いておられたことを悟ったのではないでしょうか。

 

トマスの「わたしの主、わたしの神よ」という言葉は、勿論彼の信仰告白です。それは、実際にイエス様が彼の前に現れ、その復活が確かだとわかったからだけではなかったでしょう。その場におられなくても、イエス様が自分の発した言葉を知っておられたことに、超自然的な神であるイエス様の姿を見ました。また、疑い深い自分のために、優しく十字架の傷跡を見、それに触れることを許可してくださったその人格に触れ、大いに感じ入ったことも、「わたしの主」と告白するに至る大きな要因だったと思われます。

 

また、この時のイエス様の言葉によると、「信じる者になりなさい」という教えが、「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)という教えへと発展していることがわかります。まず第一段階として、信じる者になるように、との勧めがある。更に、「では、どう信じるのか」ということで、「見ないのに信じる」ということが打ち出されているのです。

 

イエス様は優しく、トマスに十字架の傷跡を見せ、それに触れることを認めておられながらも、だからと言って何でもいい、と言うのではなく、トマスに何が大事であるかということをはっきりと諭しておられます。それが、「見ないで信じること」だったのです。

 

私たちも、不安の中で何か確かなものが欲しい、と思うものです。どちらかと言うと「見て、安心材料を得てから信じたい」と思いがちですが、あくまでもイエス様が願っておられるのは、「見ないで信じる信仰」なのです。この信仰は、旧約聖書においても、イザヤ6:10 で「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために」と言われる中で暗示されており、のちにパウロもまた、ローマ書8章で「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」と発展させています。ペトロも、恐らくこのトマスの出来事の目撃者として、「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」(第一ペトロ1章)と、同じように見ないで信じる信仰について述べています。

 

ただ、ここで確認しておきたいことは、見ないで信じる信仰が神様によって私たちに強引に要求され、私たちはその新たな束縛の中にがんじがらめにされる、ということではない、ということです。少し否定的な言い方になってしまいましたが、それでは新たな律法が課せられている、ということになってしまいます。今みことばを通して、神様は「見ないで信じる信仰の『幸い』」を伝えようとしておられるのです。改めてみことばを確認しますと、イエス様はあくまで、「見ないのに信じる人は、幸いである」と、幸せの道を示しておられるのです。無理やり人間を従わせようというのではなく、いにしえの時代から聖書が示してきた、「見ないで信じる信仰」がいかに幸いであるか、それを知ってほしい、と願っておられるのです。それがどれだけ人間を恐れや不安から解放し、イエス様のおっしゃる「平和」を心に抱いて安心して過ごせるようにすることか。そのことを神様はご存知で、何とか私たちに知らせようとなさったのです。

 

人間が神様に背を向けたことにより、自分たちでは生み出すことのできないこの「見ないで信じる信仰」を私たちに与えるために、イエス様は来られ、命がけで私たちを神様と和解させてくださいました。今私たちは安心して、この大事な「見ないで信じる信仰」は、イエス様からいただける、と信じることができます。たとえそれがにわかには信じられなくても、見ないで信じるのです。

 

イエス様は私たちの真ん中におられます。そのことを表すために、福音書朗読は会衆の中で行われる場合もあります。また、これから聖餐式が行われますが、イエス様はこの礼典の中においでになる方です。イエス様のまことのからだであるパンと、イエス様のまことの血であるぶどう酒があるところに、イエス様も確かに存在されるのです。そのことに安心感を抱き、突発的な災害が多い時も、変化の波の激しい時代も、見えることに左右されず、「見ないで信じる信仰」をいただいた幸いをかみしめ、主をほめたたえながら毎日を過ごしてまいりましょう。

 

お祈り

天の父なる神様。

今朝の礼拝のひと時をありがとうございます。

今私たちの真ん中に、イエス様がいてくださることに感謝します。続く聖餐式においても、この場所にイエス様がご臨在くださいますことに感謝します。

何かと不安を抱きやすい時に生きておりますが、その中でもイエス様から頂く「見ないで信じる信仰」によって、平安のうちに毎日を送ることができますように。いつもその御手によって、確かに私たちを導いてください。具体的に困難の中にある方々には、いつもあなたの助けがありますように。各地の被災地と、戦火の絶えない地域に、あなたの慈しみが注がれますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

 

報告

・先週は喜びのイースターで、イースター礼拝には、神戸中央合唱団の皆さまがゲストとしてお越しになりました。感謝します。昼食会の後、午後1時半からが墓前礼拝でした。引き続きイースター献金をおささげしましょう。



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