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執筆者の写真明裕 橘内

2024年4月28日 復活節第五主日


聖書交読 イザヤ52章7~12節 (旧約p1148)

司)52:7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。

会) 52:8 その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。

司) 52:9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。

会) 52:10 主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。

司) 52:11 立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ/汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ/主の祭具を担う者よ。

全) 52:12 しかし、急いで出る必要はない/逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの神だから。


聖書朗読 ヨハネ15章1~8節(新約p198)

15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

 15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

 15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

 15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。


説教 「つながっていること」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


いよいよゴールデンウィークに突入する日本で、今短歌ブームが来ているとも言われています。何でも、インターネットのSNSとの相性がいいとのこと、どんどん広がっているようですが、その中で、コロナ時代に希薄になってしまった「つながり」が、この短歌によって回復している、とも言われます。SNSで観単に「いいね」をすることができ、それで短歌愛好の輪が広がっていく、また、上の句だけはそのまま、下の句を自由に変えてSNSに投稿するなどを通して、「つながり」を実感しているとのことです。


人間に「つながり」が必要なことは、イエス様も当然知っておられました。そこで、「つながり」ということを前面に打ち出したみことばを語っておられます。私自身、教会の働きにおいて「つながりづくり」が大事だと実感しております。このように「つながり」がテーマになっている本日の箇所にはたいへん関心を寄せております。少しずつ見てまいりましょう。


まず前提として、 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(15:1)と、イエス様と父なる神様のつながりについて、定義されています。ここで言われている「わたし」がイエス様、「わたしの父」が父なる神様のことになります。ここから、イエス様と父なる神様の密接な、深い関係がわかります。


2節では、まだぶどうの木の枝が何を意味しているかは明らかにされていません。あくまで一般論として、実を結ばない枝は農夫である父なる神様が取り除かれるし、実を結ぶ枝は手入れされる、ということが述べられています。


イエス様がぶどうの木である、というこの流れにおいて、「あなたがた」、すなわち、このイエス様の教えを聞いていた弟子たちが既に清くなっている、というのは、どういう意味なのでしょうか。やや唐突な気もして、理解の難しい箇所でもあります。


ただ、4節で「わたしにつながっていなさい」と言われる文脈からすると、やっぱり清くなっている者がイエス様につながっていく、という真理がここに示されているのではないか、とも思います。イエス様のみことばによって清くされた者が、イエス様につながることができる、ということです。


ここで、あくまで人間は受け身である、ということを確認しておきたいと思います。このみことばが語られた時には弟子たちを指し、後には私たち聖書のみことばに触れる者すべてを指すようになったと思われるこの「あなたがた」は、自分から修行などによって清くなったのではなく、あくまでイエス様によって、その語られたみことばによって、清くされたのです。そのように、あくまで受け身の存在である私たちが、先週のミニ神学校の講演でも学びましたように、神様によって礼拝に招かれ、神様からの恵みを受けるのです。


そのような、イエス様と私たちの関係が、5節でよく表されています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)。これこそ、イエス様と私たちのつながり、ということです。イエス様がぶどうの木、私たちはぶどうの木の枝、ということです。ぶどうの木の枝がしっかりとぶどうの木につながっているのと同じように、私たちも枝として、ぶどうの木であるイエス様にしっかりとつながっているのです。ここに、現代人が求めている「つながり」への思いが満たされる道が示されています。私たちは今、どこでつながりを求めるのか。もちろん短歌で仲間とつながりを実感するのも素晴らしいことですが、イエス様が私たちとつながっていてくださる、しかもそれは枝に木がしっかりとつながっているぐらい、密接なつながりなのだ、ということを実感していく時に、私たちの「つながり」欲求は満たされていくのです。


少し戻って4節、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とありますが、ここでイエス様は「わたしにつながっていなさい」(4節)とお求めになります。それは、否定的な側面からは、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節)からであり、また、肯定的な側面からすると、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)からでもあります。


驚くべきことは、イエス様につながっていることの結果であり、「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(7節)とまで言われています。まず、イエス様につながっていると、イエス様の言葉が私たちの内にいつもある状態になる、ということが示されます。これは幸いな状態ではないでしょうか。私たちは、加速する円安とそれによる物価高や、いつどこであるかわからない地震、絶えない戦火によって不安がいつも内にある状態になるのではありません。むしろ、イエス様とつながっているときに、イエス様のみことばが、私たちの内側に「いつも」あるようになるというのです。これはある意味で理想的な状況で、信仰者であるなら、このようにありたい、と願うことなのではないでしょうか。そのために、イエス様のことをずっと黙想していよう、絶えず聖書の言葉に触れていよう、とこちら側の、すなわち人間の側での努力というものがなされることもあるわけですが、実際は、そのようなものを越えて、イエス様が私たちとつながっていてくださるときに、ごく自然に、ぶどうの枝には木の幹から自然に養分が届くように、私たちぶどうの木の枝にも、イエス様という木の幹につながっているときに、イエス様の言葉がうちに流れてくるわけです。


そのように、イエス様につながっているときに内にイエス様のことばがいつもあるのであれば、望むものを願う時にそれが何でもかなえられるというのもうなずけます。更に、5節には「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあり、イエス様につながっていれば豊かに実を結ぶのですから、願いがかなうのも当然のことであると言うこともできるでしょう。


このことに胸が躍らないはずはありません。私たちの心の中には様々な望みがあります。かなったらいいなと思う願いごとがあります。健康、平和、安定。イエス様とつながっているときに、それらを願い求めるなら、かなえられるというのが聖書のみことばの約束です。


その願いを神様にお届けするのが祈りです。祈りに関して、冒頭に触れた短歌との関りでこんなことを聞きました。今なぜこんな風に短歌がブームになっているのか。それは、短歌とは祈りであり、人の心に祈りがある限り、短歌はなくならない、という言葉です。それなら、イエス様から直接お祈りを教えていただいている私たちは、もっと祈れるはずです。そして、イエス様とつながって、多くのことをかなえていただけるはずです。


私たちがイエス様とつながって、実を結び、イエス様の弟子になることは、父なる神様にも影響を与えます。そのことによって、父なる神様も栄光を受ける、とあります。神様の栄光はその名声であるとも言い換えられます。ですから、私たちがどんどんと豊かに実を結んでいくなら、神様の名声は高まるのです。そして、ますます多くの人が、神様を尊敬するようになるでしょう。そのような壮大な夢を、共に抱きたいと思います。


イエス様とのつながり。どんなに孤独を感じる時も、人から顧みられないことがあっても、イエス様がぶどうの木であり、私たちは枝である。そこまで密接に結びついていますから、孤独感はイエス様によって解消されます。また、イエス様とつながっているときに、イエス様の言葉は私たちの内に流れ込み、私たちを満たします。どんなに空虚な歩みをしているように思うことがあっても、私たちは満たされるのです。その点では、イエス様は私たちの供給源である、と言っても差し支えないでしょう。私たちには欠けているところがたくさんあるし、何の良い物も生み出せない時がありますが、イエス様とつながっていたら、足りないものは何でも供給していただいて、私たちは何の足りないものもない、豊かな生活を送ることができます。それは、豊かに実を結ぶことにもつながります。実を結ぶ人生。決して無駄にならない人生。それをイエス様が実現してくださるのです。


お祈り

天の父なる神様。あなたが恵みを注いでくださるこの礼拝の場に導かれ、このようにその場に身を置くことができ感謝いたします。御言葉をもって語りかけてくださり感謝します。イエス様はぶどうの木、私たちはその枝。そのように見なしていただく何の価値もない者ですが、このようにイエス様とつながっていられるのは喜びです。それで、イエス様の言葉がうちにいつもあるようになり、望むものは何でも願うならかなうようになり、豊かに実を結べば神様の栄光となるとは、何という大きな恵みでしょうか。感謝いたします。このようにイエス様とつながって歩むことができることに感謝して、毎日を送ることができますように。体調を崩している方が多いですから、いやしのために祈ります。また、各地で地震が相次いでいます。不安になっている方々には、平安をお与えください。また、能登の地震の被災地に、また、戦火の絶えない過酷な状況下にある人々に、慰めをお与えください。私たちのぶどうの木であるイエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


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・引き続きイースター献金をおささげしましょう。












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