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執筆者の写真明裕 橘内

2024年4月14日 復活節第三主日


聖書交読 詩4編 (旧約p836)

司) 4:1 【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】

会) 4:2 呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。

司) 4:3 人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ

会) 4:4 主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。

司) 4:5 おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ

会) 4:6 ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。

司) 4:7 恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。

会) 4:8 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。

全) 4:9 平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。

 

聖書朗読 ルカ24章36~48節(新約p161)

24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

 24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。

 24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」

 24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

 24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

 24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、

 24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

 24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

 24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

 24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

 24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

 24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

 

説教 「聖書が伝えていること」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

本日も一緒に、このように聖書のみことばを開いております。それにしても、それはこの膨大なページ数を誇る聖書のごくわずかな部分です。一体聖書は何を伝えているのか、と迷われたこともおありかと思います。本日の聖書箇所から、聖書が何を伝えているのか、と言うことを、改めて確認していきたいと思います。

 

今回も、イエス様が現れ、復活が確かであったことを伝えるエピソードとなっています。その後半で、イエス様が現れた目的が明確に示されています。それは、聖書が何を伝えているかを教える、ということです。まずは、イエス様が弟子たちのもとに現れた次第から見ていきましょう。

 

復活のイエス様は「彼ら」、すなわち弟子たちに姿を現わされます。前回のヨハネによる福音書のエピソード同様、イエス様は弟子たちの真ん中に立たれています。そこで告げられるのもまた同様に、「あなたがたに平和があるように」という「平和」のあいさつです。これがもはや単なるあいさつの言葉でないことは明らかです。イエス様は大事なメッセージとして、私たちにイエス様のお与えになる「平和」を告げたいのです。

 

復活のイエス様と出会った時の弟子たちの反応ですが、それは「恐れおののく」というものでした。それどころか、亡霊を見ているとさえ思ってしまいます。なぜ弟子たちがそのような反応を、とも思いますが、それが正直な反応だったのかもしれません。イエス様の復活のことをすでに知っていてこの福音書の箇所を読んでいる私たちと弟子たちは状況が全く異なります。復活のことを耳では聞いていても、確信となって心にまで降りてきていなかった頃でしょう。まさか、と思って信じていなかったとしても無理はありません。

 

38~39節は、恐れを抱いている弟子たちへのイエス様のメッセージです。まず、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と語りかけられますが、「なぜ」「どうして」という言葉をお使いでも、うろたえている理由を本当に尋ねているわけではありません。むしろこれは、「うろたえるのではない。心に疑いを起こさないように」というメッセージなのです。聖書でしばしば聞く言葉に言い換えれば、「恐れるな」、ということになります。

 

私たちは外側で起こっていること、内側に生じる様々な悩み事などによってとかく不安や恐れを抱きがちな者ですが、いつもイエス様は弟子たちに声をかけてくださったのと同じように、私たちにも「恐れるな」と優しく声をかけてくださいます。しかも、私たちの真ん中に立って、声をかけてくださることを、私たちは聖書のみことばから知るのです。

 

続く40節で、イエス様が手と足をお見せになったのは、もちろん十字架の傷跡をお見せになるためでした。そのようにして、現れたのが十字架にかかられたイエス様と同一であることを示し、弟子たちを安心させようとなさったわけです。

 

41~43節によると、弟子たちはそれでもイエス様の復活を信じられず、不思議がっていたとありますが、それでも彼らは喜んでいました。変わらぬイエス様の温かさに触れ、イエス様がおられることの安心感を覚えたのでしょう。イエス様はここで、弟子たちが信じるために、焼いた魚をお食べになります。これは、理解のレベルを弟子たちの方にまで引き下げられたことを表わしています。イエス様は決して、私たち人間に無理にイエス様の方まで上ってくることを求めることはなさいません。むしろ、私たちのところまで降りて来てくださり、私たちにわかるようにしてくださるのです。その意味では、イエス様はまさに降りて来られた神様、と言うことができるでしょう。そして、この降りて来てくださった神様であるイエス様こそが、まさに私たちの真ん中に立ってくださる方なのです。

 

さて、このように復活のイエス様が弟子たちの前に姿を現わされたのには理由がありました。イエス様はこの時、弟子たちに彼らが親しんできた聖書について教えたかったのです。

その次第を見ていきましょう。まずは44節です。

 

 24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

 

今で言う旧約聖書は、イエス様によって「モーセの律法と預言者の書と詩編」とも呼ばれ、「わたしについて・・・書いてある」というように、イエス様について書いてあると告げられています。それが「必ずすべて実現する」と言われているということは、書いてあったことは、何かしら「実現」が期待される事柄だったことがわかります。それは例えば、メシア、すなわち救い主であるイエス様についての預言などであったと考えられます。

 

イエス様の預言と言うと、例えばイザヤ書53章にある苦難の主のしもべ像などがすぐに思い浮かべられますが、イエス様はモーセの律法にもご自分のことが書いてあるとおっしゃっています。確かに、たとえば創世記3章には、すでに救い主のことが予告されているとも言われていますし、詩編に関しては、詩編22編は、かなり明確に救い主であるメシアについて歌っています。イエス様の十字架での言葉となった「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(2節)が記されているのです。それらが、あらかじめ書かれていた通りに実現していく。あらかじめ書かれていることによって、それに触れた人々はその実現を期待していた。その期待通りに、イエス様の預言はイエス様の登場によって実現したのです。そのことを、イエス様は十字架前にあらかじめ弟子たちに伝えておられた。ここでは、それでも弟子たちが信じていなかったことよりも、書かれていた通りに実現する神様の言葉の確かさと、大事なことを隠さずに弟子たちに明らかにされるイエス様の温かさの方を強調しておきたいと思います。

 

続いて45節においては「モーセの律法と預言者の書と詩編」は単に「聖書」と言い換えられ、「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて・・・」と記されています。聖書は人間の自分の力では理解できません。イエス様が、聖書を悟らせるために私たちの心の目を開いてくださるのです。「悟る」と言うとちょっと仏教的な響きもしないことはないのですが、要するに「理解する」、ということです。ここでは、「何かを一緒にする」というような意味合いもあって、ばらばらになっていた知識が統合されてより深い理解に達する、というようなニュアンスがあるようです。ここで大事なことは、イエス様が聖書を理解させてくださる、ということです。このことを、大事な御言葉からのメッセージとして、受け取っておきたいと思います。

 

続いて、46節以降には具体的に、聖書が伝える内容が示されています。それは『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』ということで、これこそが聖書が伝えていることなのです。「罪の赦しを得させる悔い改め」とあるように、ここでは「悔い改め」によって罪の赦しが得られるとされています。私たちがイエス様によって父なる神様の方に向き直る時に、神様との関係は完全に回復され、実際に罪の赦しは私たちのもとに、大いなる慰めとしてやってくるのです。

 

本日はこのように、イエス様がお姿を現わされ、聖書が伝えることを教えてくださった次第を見てまいりました。改めて、大事なメッセージを確認していきましょう。

 

第一に、先週に引き続き、復活のイエス様が姿を現され、弟子たちの真ん中に立たれたことが語られていました。先週の福音書の箇所を振り返りますと、ヨハネによる福音書に次のような御言葉がありました。 

 

ヨハネ20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 

聖書の中で繰り返し書かれていることはそれだけ大事である、と考えられます。ですから、このようにイエス様が弟子たちの真ん中に立たれる、そしてもちろん、今を生きる私たちの真ん中に立ってくださるということは、私たちへの大きな慰めと励ましのメッセージであると言うことができます。是非今週、どんなに孤独を感じる時でも、イエス様が私たちの真ん中に立ってくださるぐらい、すぐ近くに親しく存在してくださることを心に留めて過ごしたいものです。

 

第二に、その、私たちのすぐ近くにおられるイエス様が、私たちに聖書を理解させてくださる、というのも本日の福音書からの頼もしいメッセージです。ですから、自分の力で聖書を理解するのだ、と頑張るところから解放されて、イエス様が悟らせてくださることに信頼すると良いでしょう。

 

そして、第三に、本日の最も大事な点として、聖書が伝えるのは、メシアとして現れたイエス様である、ということをしっかり受け取っておきたいと思います。それでなくても膨大なページ数と内容の聖書です。手掛かりなしに読むのは海図も持たずに大海に漕ぎ出すようなものです。聖書が新旧約一貫して伝えているのは私たちの救い主であり人生の主でもあるイエス様のことです。この点で焦点をしっかり合わせて聖書に向き合っていきましょう。もしろん、先ほどお伝えしましたように、聖書を理解させてくださるのもイエス様です。

 

その聖書が伝えるメッセージ、『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』の中心には、「罪の赦し」があることがわかります。しかも、単にそれを述べるだけでなく、聖書は私たちに、その罪の赦しを実際に得させようとしている。そのことが大事です。イエス様は私たちに、聖書を悟り、イエス様が十字架で達成された罪の赦しを受け取るように願っておられます。罪が赦されて、私たちには神様との関係が良好になり、永遠の神の国への約束と希望が与えられるのです。

 

お祈り

天の父なる神様。

私たちに新しい一日、新しい一週間を与えてくださり、感謝します。いつもみことばを示し、導いていてくださること、ありがとうございます。

聖書を手にしながら、その伝えていることを見失ったり、様々な困難によって、聖書自体、手にすることが難しい時もありますが、聖書がイエス様のことを伝えていること、そしてその中心メッセージには、罪の赦しという私たちのためになくてはならない神様の恵みがあることを教えられ、感謝いたします。

罪の赦しによって神様との関係が回復し、永遠の御国への希望が与えられていることを喜び、主をほめたたえながら歩む私たちでありますように。

悩みと困難の中で生きる人々に、勇気と知恵、そして力、慰めが与えられますように。

各地の被災地と、戦火の絶えない地域に、あなたの慈しみが注がれますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

 

報告

・引き続きイースター献金をおささげしましょう。来週は神学校デーです。



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