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執筆者の写真明裕 橘内

2024年3月3日 四旬節第三主日


聖書交読  詩編19編 (旧約p850)

司) 19:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】

会) 19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。

司) 19:3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。

会) 19:4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても

司) 19:5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。

会) 19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように

司) 19:7 天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。

会) 19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。

司) 19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。

会) 19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。

司) 19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。

会) 19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。

司) 19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。

会) 19:14 あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。

全) 19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。



聖書朗読 ヨハネ2章13~22節(新約p166)

 2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。

 2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。

 2:15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、

 2:16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

 2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

 2:18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。

 2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

 2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。

 2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

 2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。


説教 「受難に向かうイエス様のお体」 


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


四旬節第三主日となりました。先ほど皆さんで、聖歌157番を賛美しました。「われいのちを なれにあたえ・・・」と賛美しました。私たちのためにいのちを与えてくださったイエス様のことを賛美しました。讃美歌312番「いつくしみ深き」を引き合いに出すまでもなく、イエス様のいつくしみ深い姿がよく表れています。しかし、さきほどおよみいただきました今日の福音書の箇所に示されているイエス様の姿はどうでしょうか。意外な姿だったかもしれません。


 まず、前提となる13節から見てまいりましょう。「ユダヤ人の過越祭が近づいたので」とありますが、ここで言われている「ユダヤ人」には深い意味はなく、民族としてのユダヤ人のことです。その「過越祭」ですが、これは少し説明を要します。「過越祭」は、そのユダヤ人の大切なお祭りで、紀元は出エジプトの時代にさかのぼります。エジプトにおいて強制労働に苦しんでいたイスラエルの民が、主なる神様によって奇跡的にエジプトから脱出できたことを祝う祭りです。その当時エジプトにおけるイスラエル人たちは、なかなかエジプトから脱出できずに苦しんでいたのですが、主がエジプトの初子を打つ、という悲惨な出来事がきっかけとなって、イスラエルの民はエジプトから出られるようになります。その時、主がイスラエルの民の上を「過ぎ越す」ことで、イスラエルは打たれずに済んだのですが、その時しるしになったのは何と小羊の血でした。家の入口にその血を塗っておくことで、主はそこをイスラエルの民の家だと認識し、その上を「過ぎ越し」ていった、というわけです。これは、イエス様の受難と身代わりの血を暗示するものでした。


その大事なお祭りのために、イエス様はエルサレムに向かわれます。「上って行く」という表現にあるように、エルサレムは高いところにあったことがわかります。多くのユダヤ人がこの時、エルサレム巡礼をしました。彼らはエルサレムの神殿目指して、山を登って行ったのです。


ところが、そこでイエス様が目にしたのは、理想の神殿像とはかけはなれた姿でした。ここに、イエス様が聖なる怒りを発せられる根本原因があったのです。


この箇所は、伝統的に「宮きよめ」と呼ばれる箇所で、イエス様が、商売の場になってしまった神殿を、もとの、神様の御心通りの姿に戻そうとなさった出来事です。ある意味での宗教改革です。


イエス様が目にした神殿は、動物の鳴き声が騒々しく響き渡り、両替人の呼び込みの声がかしましい場所になり果てていました。いったいこれはどうしたことなのでしょう。そこで売られていた動物、両替されていた貨幣は、いずれも神殿でのささげもののためになくてはならないものでした。神殿での礼拝は、動物をささげる犠牲なくして成り立たなかったと言われます。かと言って、先ほど触れた巡礼者たちが皆、故郷の地からその動物を連れて来れるかというと、不可能に近かったのではないでしょうか。そのような不便なところに、商売の生まれる隙があります。それだったら、神殿で売ってしまったらいい・・・。しかし、それは商売のビッグチャンスではあっても、神殿をまるで神殿らしくない姿に変えてしまうものでした。神殿での礼拝になくてはならないものではあったのです。しかし、その動物たちの鳴き声で満ちているようでは、そこで本当の意味で礼拝することは難しくなっていたことと思います。


もうひとつ、両替人の存在もまた、神殿を神殿らしくない姿に貶めていました。これも、始まりとしては、必要に応じてのことだったのです。神殿においてささげられる貨幣は硬貨、コインで、ユダヤにおいて通用しているものである必要がありました。ですから、巡礼者たちがほかの地域の硬貨を携えてきた場合、どんなにそれに苦労したとか、たくさん持ってきたんだとか、そういったことに関係なく、それらをささげることはできなかったのです。なぜユダヤにおける硬貨でなければならなかったのかということに関しては、たとえばローマの硬貨だったりすると、皇帝など、人物の顔が刻まれていたりしたわけです。そうすると、誰の像をも作ってはならない、というユダヤの律法において、そのような人間の顔が刻まれているような硬貨など、受け入れられなかったと言われます。


動物も、両替も、人間の必要に応じて扱われ始めたものでした。そのような、人間にやさしいことが、神様の前には喜ばれない、ということがあります。他の巡礼者に交じって山を登り、エルサレムにたどり着いて神殿に来られたイエス様が、このような状況を見てこれがふさわしい状態だなどとはとても思われなかったわけです。そこでイエス様側から、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」という声明が出されたわけです。


ここでまず、イエス様は神様を、ご自分の父であると呼ばれ、宣言されます。そして、神殿を、「わたしの父の家」と定義なさいます。何事も、定義が大事です。神殿がある、ということだけでなく、それが「わたしにとって何であるのか、どんな場所であるのか」ということです。イエス様にとっては、単に神殿がある、ということだけが大事だったのではなく、それが「わたしにとって、父の家である」という定義が大事だったのです。そして、その場は、決して商売の家であってはならなかったのです。


だからこそ、いわゆる「宮きよめ」をなさったのです。とても慈しみ深い方とは思えない、荒々しいイエス様の姿。これは、イエス様のうちから湧きあがる怒りから来るものでした。しかし、それは父なる神様のことを思う、聖なる怒りであって、憎しみなどの個人的感情に基づくものではありませんでした。神様の怒りは、神様の異なるわざ、と言われます。神様の愛こそが、神様の本来のわざであって、神様の怒りの方は非本来的、本来のわざではなく、それで「異なるわざ」と言われるのです。では、それはなぜあるのか。神様の怖さを示そうとするのか。そうではなく、神の異なるわざの方も、神様の本来のわざを知らせるために、わからせるためにある、と言われます。イエス様が神様としての聖なる怒りを発し、荒々しく動物を追い散らし、両替人の台を倒すのは、ご自分を遣わされた父なる神様の家を思う熱心さ、その愛からのことでした。では父なる神様のことだけを考えていたのであって、人間への愛は関係なかったのかと言うと、父なる神の家が本来のあるべき姿であることは、私たち人間のためにもなることだったのです。例えばマタイによる福音書の21章によると、神殿は「祈りの家と呼ばれるべきである」と言われています。それなのに、それが動物が売り買いされ、両替人が幅を利かせている状態であったらどうでしょう。静かに祈りがささげられ、それによって祈りが神様によって聞かれ、人間の益、幸せにつながっていくはずが、動物と両替人の喧騒によって、何も聞こえなくなってしまっている。神様に、言葉が届かない状態になっている。これでは人間のためにならないわけです。でも、神殿が御心通りの姿であれば、人間の益となる。そう考えれば、神殿をきよめることは、人間のことを思っての、イエス様の働きであったとも言うことができるのです。


本来であれば、すぐ18節の、ユダヤ人たちの「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」という言葉につながるところ、挿入されるような形で、17節の弟子たちの感想が記されています。この時弟子たちが同行していたこと、このイエス様の猛々しい行為を目撃していたことがわかります。弟子たちが思い出した言葉、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」ですが、これは旧約聖書からの引用で、詩編の言葉です。しかし、誰の、どういった状態のことを指すのか、なかなか理解が難しいところです。まず、この御言葉は、詩編69編10節からの引用です。義人でありながら苦しむ人の姿として描かれていて、神殿に対して熱心であるあまりに、その行動が周囲から受け入れられない様子を表していると解釈できます。同じように、ヨハネの福音書の方でも、あなたの家、すなわち父なる神様の家、神殿のことを思う熱意に支配され、それに突き動かされて行動する様子を、「その熱意によって食い尽くされている」と表現している、と読むことができます。そうすると、これは誰のことを言っているかというと、イエス様のことです。父なる神様の家、神殿に対して熱心である余り、動物を追い散らし、両替人を追い出しているイエス様のお姿を見て、弟子たちは、「まさにあの詩編にある通りのお姿だ」と思ったわけです。もうひとつ言うと、弟子たちはそのようなイエス様の姿を見て、そこにメシアの姿を見出した、とも言うことができるでしょう。


続く18節からは、この出来事を見た、ユダヤ人たちの反応です。冒頭の「ユダヤ人」が一般的な、民族としてのユダヤ人を指すことに対し、18節冒頭の「ユダヤ人」は、イエス様に反対する勢力を表します。彼らは、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(18節)とイエス様に問いますが、それは15~16節にある「宮きよめ」の行動を見たからで、「そのようなことをするのは、どんな権威によるのか」という意味合いもありました。先ほど触れましたように、宮きよめの姿を見て、弟子たちはそこにイエス様がメシアである、という姿を見出した可能性がありますが、ユダヤ人たちは、よほどの権威があるからこそ、そこまでしたのであろう、それなら、その権威は何か、とイエス様に迫るような思いだったのではないでしょうか。


それに対するイエス様の回答、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(19節)もまた理解するのが難しい御言葉ですが、ご自身の神としての権威を示すには、それがいちばんだ、と思われたのでしょう。イエス様は、「神殿」とおっしゃっても、それは「御自分の体」のことだったのですが、それはユダヤ人たちには明らかにされていませんでした。しかし、彼らの理解を越えて、確かにイエス様は十字架にかかられても、三日の後に復活なさいました。そのことを見て、弟子たちはイエス様のことばを思い出し、イエス様を信じたのです。


この宮きよめの出来事の時、まさにイエス様の尊いお体は、受難へと向かっていたのでした。イエス様の体が壊されるとはまさに、イエス様のご受難、ことに十字架にかかられたことを表すものでした。イエス様のお体が裂かれ、血が流されることを意味していたのです。その、イエス様の十字架での身代わりの死があったからこそ、私たちは滅びることなく、本当のいのちをいただき、永遠の命を生きることができるようになりました。日本にも、ひな人形に代表されるような、身代わりの思想がありますが、イエス様の身代わりはそれ以上です。私たちのために、人形ではない、人となって来られたイエス様が、実際にお体を裂き、血を流して、そのような犠牲を払って、私たちを救い出してくださったのです。そのことを思い起こして尊い罪の赦しの確証をいただくのが、聖餐式です。この聖餐式に招かれていることに感謝します。この四旬節の日々、イエス様の御受難の意味を深く思い、それによって救われた命、そのことに感謝して、心静かに主をほめたたえながら、毎日を過ごしてまいりましょう。


お祈り

天の父なる神様。

私たちに四旬節という時を与えてくださり、イエス様の御受難のことを深く思いながら過ごすようにしてくださっていること、感謝いたします。イエス様がそのお体を死に渡してまでも、私たちを救おうとしてくださり、ありがとうございます。その尊いお体と流された血のことを思います。聖餐式において、罪の赦しの確証として、イエス様のお体と血の恵みにあずかることができることに期待しています。これによって私たちを強め、週の歩みの中で困難に出会おうとも、強く生きていくことができますように。

未だ困難な状況の続く能登半島の被災地に、あなたの慈しみが注がれますように。

今こそ「地には平和」とのみことばが、成就しますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン



報告

・本日は昼食会があり、その時にフェローシップMLCの交わりがあります。来週は馬渕主事の説教で、橘内師は三田フェローシップ・キリスト教会でのご奉仕です。イースター献金をおささげしましょう。





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