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執筆者の写真明裕 橘内

2024年3月31日 イースター礼拝


聖書交読 イザヤ25章6~9節 (旧約p1098)

司)25:6 万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

会) 25:7 主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし

司) 25:8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。

全) 25:9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。


聖書朗読 マルコ16章1~8節(新約p97)

16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。

 16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。

 16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

 16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。

 16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。

 16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

 16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

 16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。



説教 「ここにはおられない、という知らせが福音に」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


皆さん、イースターおめでとうございます。新型コロナウイルス感染症が昨年5月から感染症法上5類扱いになって初めてのイースターを迎えます。しかも、毎年日付の変わるこのイースター、今年はいつもより少し早めに、3月にイースターを迎えています。この喜びのイースターをお祝いする、合唱団の皆様の特別賛美に心から感謝します。


今年は元旦から大きな震災があり、心曇らせることが多くありました。以前新潟で大きな地震があったときに、ホルストの組曲『惑星』を元にした「ジュピター」という曲が、多くリクエストされ、多くの人々の耳に届いて慰めになったと言われます。その歌詞では、「ひとりじゃない」という言葉が大きなメッセージでした。ですから、もし誰かが「いる」「いない」では、「いる」ということの方が尊いと思われることが多いです。しかし、今日は「いない」ということが良い知らせ、すなわち福音になりうる、ということを、聖書から聞き取っていきたいと思います。


それでは、本日開いている聖書箇所から、イエス・キリストの復活の朝に起こったことを振り返ってみましょう。


イエス・キリストは、人間の罪をすべて背負い、十字架の上で身代わりの死を遂げられました。そののち、お墓に収められると、女性たちは「イエスに油を塗りに行くために」(1節)お墓を訪れます。それは、週の初めの日の朝だったと言われています。これは日曜日のことです。この女性たちは、イエス様が復活しておられるなどとは少しも思っていませんでした。当時のお墓は横穴式で、入り口に大きな石を置き、中に入られないようにしていたと言われます。彼女たちは、お墓はイエス様が葬られた時と全く変わっていない、と思い込んでいました。イエス様の亡骸もそこにあるままであり、その入り口には、自分たちの力では動かしがたい大きな石が置かれているものと思っていました。だからこそ、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」などと話し合っていたのです(3節)。


しかし、行ってみると、入り口の石は動かされていました。ここに、「石は動かされる」という神様の真実を見て取ることができます。人が心配する、あれが動かなかったらどうしよう、という妨げの大きな石は、神様が取り除いてくださるのです。まさにこれは、イエス様を死者の中から復活させた、神様の大きな力の表れでした。女性たちが入ってみると、中には「白い長い衣を着た若者」(5節)がいるだけでした。


それを見た女性たちが驚いたのも無理はなかったでしょう。「婦人たちはひどく驚いた」とある通りです。女性たちの手では動かせないと思っていた石が、超自然的に、動かされていたのです。まだこの時、彼女たちはこれが神様のわざであるとは知りません。ただただ、目の前に起こっていることに驚き、なおかつ、そこにイエス様の亡骸があるのではなく、不思議な、白い長い衣を着た若者がいる、というのを見て、理解が追い付いていない状態でした。


この若者は、その白い衣からして、天使だったかもしれません。白は、神様の栄光を象徴的に表わします。この若者が、神様に由来する存在であることを暗に示しています。彼は「驚くことはない」とまず声を掛けます。その場にやって来た女性たちがあまりに驚いているから、まずは安心させようとの神様の御配慮です。そして、こう続けます。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(6節)と告げます。このメッセージの中心は、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という部分にあります。それまで、イエス様が一緒にいてくださる、と言うことが、大きな慰めであり、良い知らせでした。さかのぼってイエス様のお誕生の時、イエス様は「インマヌエル」と呼ばれる、と言われていました(マタイによる福音書1章)。どうしてそのように呼ばれるかと言うと、「インマヌエル」とは「神は我々と共におられる」という意味で、イエス様のお誕生はまさに、神様が人間のすぐ近くに来てくださって、一緒におられるということが実現したことを意味していたからです。そのように、イエス様にふさわしいメッセージは、「イエス様が一緒にいてくださる」だったのです。それなのに、この時ばかりは、「ここにはおられない」ということの方が、実は大事だったのです。なぜなら、イエス様がそこにおられなかったのは、復活なさったからだったのです。


この時、すぐにはこの出来事の意味が理解されなかったようです。8節に見る女性たちの反応は、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」というものでしかありませんでした。この女性たちにとっては、二重の恐れです。まず、お墓の入り口の石が動かされていて、中を見たら白い衣の若者がいた、という驚き、恐れです。そして、その若者が、自分たちに向けて言葉を語った、というのが、墓を出て逃げ去ったほどの恐れを生んだ、ということなのでしょう。この二重の恐れ、驚きに包まれて、彼女たちは何か大事なことを忘れてしまっていたようです。この、天使とも思われる若者は、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(7節)という、何とも喜ばしい伝言があったのです。それを、「行って、弟子たちとペトロに告げなさい」と言われていたのに、どうでしょう。8節を確認すると、「だれにも何も言わなかった」というのです。その理由は、「恐ろしかったからである」ということでした。のちには無事に弟子たちはイエス様とガリラヤでお会いしていますので、しばらくしたら、この女性たちは最終的に、ちゃんとこの伝言を弟子たちに伝えたのでしょう。しかし、それまでは、ある一定の間、自分たちの体験したことの恐ろしさのゆえに、何も語ることができなかった、というのです。ここに、恐れがいかに、人間の行動を制限してしまうか、ということが、つぶさに表わされています。


ここには、イエス様がおられない、ということが、いかに大きな恐れを生み出したかが表れています。しかし、今となっては、この「イエス様がお墓の中におられない」という知らせこそが、私たちにとっての良い知らせ、すなわち「福音」となります。それは、確かにイエス様が復活されて、お墓にはおられなくても、むしろ私たちの近くにいてくださる、ということを意味しているからです。


このイエス様のことを、新約聖書の最後の書である黙示録では、「王の王、主の主」(19章)と呼んでいます。それはなぜなのかと言うと、このようにイエス様は死から見事に復活なさったのでそのお墓は空であり、そこにいない、ということが、むしろ今も生きておられて私たちと一緒にいてくださる、という希望にしっかりと結びついているからです。未だかつて、復活したことでその墓が空になったような存在はいませんでした。そして、私たちの目によって認識することの出来ない姿であるにせよ、時空を超えて確かにこの世界に生きておられ、私たち人間と共にいてくださるのはこのイエス様だけです。そのように、死から復活なさった、卓越した方だからこそ、私たちは大いにこの方に敬意を払い、世界中の王や主を越えた方であるとして、王の王、主の主、とお呼びしてほめたたえるのです。


そして、復活して今も生きておられ、私たちとともにいてくださるイエス様だからこそ、究極の「インマヌエル」、すなわち「神は我々と共におられる」ということが実現しています。今週の歩みの中で、大きな妨げの石が目の前に横たわる時も、人生の困難がやってくる時も、私たちはこの「インマヌエル」、神様が私たちと一緒にいてくださるという真理が、イエス様によって実現していることを心の励みに、毎日を送っていくのです。



お祈り

天の父なる神様。

今朝このように、一緒に喜びのイースター礼拝を迎えることができ、感謝いたします。イエス様が死の暗闇からよみがえられたことを記念して、このように神様の前に集まっております。聖書のことばから語りかけてくださり、妨げの石は動かされること、死で終わりではないということ、イエス様がお墓におられない、ということが、かえって私たちにとっては良い知らせになることを知らせてくださり、感謝します。今イエス様は復活されて、今も生きておられ、私たちと共にいてくださいます。そのことを強く意識して、毎日の歩みを続けていくことができますように。4月から新しい歩みに入る方も多くおられることと思います。大きな変化の時に際し、神様の助けが豊かにありますように。また、この時期体調を崩しておられる方も多いですから、癒やしがありますようお祈りします。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日は喜びのイースターです。イースター礼拝には、神戸中央合唱団の皆さまがゲストとしてお越しになります。イースター献金をおささげしましょう。昼食会の後、午後1時半からが墓前礼拝となります。








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