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執筆者の写真明裕 橘内

2024年3月24日 枝の主日


聖書交読 詩編31章10~17節 (旧約p861)

司)31:10 主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。

会) 31:11 命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。

司) 31:12 わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。

会) 31:13 人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。

司) 31:14 ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。

会) 31:15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。

司) 31:16 わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。

全) 31:17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。

 

聖書朗読 ヨハネ12章12~16節(新約p192)

12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、

 12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」

 12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。

 12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」

 12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。

 

説教 「十字架の時を目指して」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

本日は、枝の主日と言われます。受難主日と言われることもあり、本日から受難週となります。イエス様の私たちのためのご受難を深く思う時となりました。金曜日が受苦日で、夜7時から受苦日礼拝が行われます。その中で聖餐式も執り行われます。そして31日が喜びのイースター。そのように、教会の暦が目まぐるしく動いていく大事な時に差し掛かっています。そのように「時」ということで言えば、まさに今、時は十字架の時に向かっている、ということになります。

 

本日の福音書の箇所を見ると、ユダヤ人の大事な祭りである過越の祭りに、各地からの巡礼者を含め、大勢の群衆が集まっていたことがわかります。その中には、イエス様がラザロを死者の中からよみがえらせたことを知っており、そのことのゆえに、イエス様を一目見てみたい、という人も多かったことでしょう。その彼らは、イエス様を王であるかのように、エルサレムに迎え入れます。手にはなつめやしの枝を持ち、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と叫びながら、イエス様を迎えるのです。

 

この群衆のことばの背景を見てみましょう。詩編のことばが背景にあることがわかります。

 

詩編/ 118編 25節

どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。

詩編/ 118編 26節

祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。

 

この中の、「わたしたちに救いを」の部分あたりが、「ホーシーア・ナー」となっていて、それが「ホサナ」の元となっています。意味としては、「今救ってください」というような意味も持っています。イエス様の時代には、歓喜の声のようにもなっていたようです。群衆は、イエス様のことを「主の名によって来られる方」と思って、そのように叫んでいました。

 

また、その言葉にあるように、群衆はイエス様を、イスラエルをローマの支配下から解放する軍事的な王として迎えました。弟子たちも含め、当時のユダヤの人々は、王としてのメシアを待望していたわけです。

 

その声を拒むことなく、イエス様はエルサレムに入って行かれたように見えますが、イエス様はご自身の目的である十字架の時をしっかりと目指しておられました。イエス様がろばの子にお乗りになったことから、それがわかります。これは15節に引用されているゼカリヤ書の預言にある通りのことです。

 

そのゼカリヤ書の引用とは、ゼカリヤ書9章9節のことです。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」

 

イエス様は、ユダヤ人たちが軍事的な、王としてのメシアを求めていることをもちろんご存知でした。ユダヤ人たちのメシア待望は、軍事的な王としてのメシア、そして、祈り、執り成しをする祭司としてのメシアと、2つのメシア像によって特徴づけられると考えられますが、イエス様当時のユダヤ人にあっては、ローマの支配下にあって、そこから私たちを開放する軍事的な王としてのメシア、という像の方が、切実な求めに応じたものだったのでしょう。

 

この当時であれば、王は馬に乗るのが一般的であったのに対し、イエス様はこだわって、ろばの子にお乗りになります。そのことを通して、ご自身が軍事的な王ではなく、十字架による救い主であることを示そうとしておられたのです。

 

ろばの子であれば、あまり荷物も人も乗せたことがなく、訓練が行き届いていなくて、イエス様をお乗せするにおいてはいろいろと不都合もあったことでしょう。でも、イエス様はそんなろばの子に、付き合ってくださいました。不格好でも、気になさいませんでした。その姿はまるで、ローマの支配下からユダヤを解放するような武人の姿には見えなかったはずです。冷静に観察すればそのことが明らかだったはずなのに、「ホサナ、ホサナ」の歓喜の声は、そのような冷静さをかき消して、群衆はただただそこに、自分たちの理想を見出そうとしていただけでした。

 

弟子たちも、イエス様の十字架後に、この出来事の意味を知ったようです。

 

12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。

 

と記されているとおりです。

ヨハネの福音書の特徴ですが、「イエスが栄光を受けられた時」というのは、十字架の時を意味しています。その時を目指して、イエス様はひたすら進んでおられたのです。イエス様の十字架は神様の栄光の表れでした。

 

16節で言われている「これらのこと」とは何のことでしょうか。それは本日の福音書の箇所にある、群衆は勝手にイエス様を自分たちの理想に合わせて軍事的な王として熱狂的に迎え入れたが、実際にイエス様はご自分を柔和な救い主として世に表そうとした、ということでした。これらのことを、弟子たちは、その出来事が起こった当初は理解していなかった、ということです。このように、イエス様ご自身の意図がなかなか理解されなかったことも、イエス様の苦難を大きくしたのでした。

 

イエス様の十字架があった後で、弟子たちは気付くのです。イエス様がユダヤの国を再興する地上の王ではなく、十字架による罪からの救い主であることに。そのように、イエス様についてのすべての理解は、イエス様の十字架から始まるということ、このことは重要です。

 

「人々がそのとおりにイエスにした」とは何のことか、ということが実は理解が難しいのですが、ひとつには、群衆が自分たちの理想をイエス様に押し付けた、ということがあると思います。もう少し深読みするなら、人々がイエス様を本当に理解せず、いろいろと不当に苦しめたことを考えると、その無理解のままにイエス様に対して振る舞い、結局はイエス様を十字架へと追いやった、ということも意味するのではないか、とも思うのです。

 

今日のこの箇所を読んで、私たちは何を受け取るでしょうか。まず、福音書なのですから、私たちへの良い知らせとして、ここに十字架の苦しみを通して私を救うイエス様がおられる、ということで慰めを受け取る、ということをお勧めします。そのように十分に神様からの慈しみを受け、私たちは賛美の生活に入っていくのです。かと言って、私たちの毎日にはいろいろな思いがけないこともあるのですが、それでも、それらを「救い主のおられる世界で起こること」としてプラスに受け止めて、いつも主の慈しみに感謝して賛美しながら生きる、という方向性を見失わずにいたいものです。先ほど、「ホザナ」はもともと「救ってください」という意味があるとお話ししましたが、なにしろ私たちには、「この状況から私を救ってください」という願いをかなえてくださったイエス様がおられるのです。

 

また、何かと恐れがち、不安になりがちな私たちに響いてくる「恐れるな」とのメッセージもまた、私たちへの慰めにつながります。せっかくイエス様が私たちを安心させようとして、「恐れるな」とお声をかけてくださるにもかかわらず、それでも恐れてしまう私たちをも、イエス様はご存知で、十字架にかかってくださったのです。だから、もう安心なのです。

 

お祈り

天の父なる神様。

いつもみことばから今を生きる私たちに語りかけてくださり感謝します。

いよいよ受難週に入りました。イエス様の私たちのための御受難に深く思いを馳せ、悔い改めの心を持ち、静かに過ごせますよう導いてください。

イエス様に対する無理解、自分たちの理想を無理やり押し付けるような姿は、今の私たちにもつながるところがあるかもしれません。イエス様はこうであってほしい、という自分の勝手な願いを超えて、イエス様が十字架で私たちのために命を投げ出してくださった救い主であることを深く思わせてください。

現実の歩みの中で病や苦しみを負う方々に、主が手を差し伸べてくださり、その深い慈しみを示し、慰めてくださいますようにお願いします。

この時期体調を崩しておられる方も多いですから、癒やしがありますようお祈りします。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

 

報告

・本日は枝の主日で、29日(金)夜7時からが受苦日礼拝、そして31日が喜びのイースターとなります。イースター礼拝には、神戸中央合唱団の皆さまがゲストとしてお越しになります。午後1時半からが墓前礼拝となります。



 

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