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2024年3月17日 四旬節第五主日

聖書交読 エレミヤ31章31~34節 (旧約p1237)

司)31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

会) 31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

司) 31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

全) 31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。



聖書朗読 ヨハネ12章20~33節(新約p192)

12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。

 12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

 12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

 12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。

 12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

 12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

 12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

 12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

 12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

 12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。

 12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

 12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

 12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。


説教 「犠牲が生み出すもの」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


イエス様は弟子たちとともに、イスラエルの祭りの場に身を置いておられます。この時の祭りは過ぎ越しの祭りです。祭りの巡礼の民の中に、ギリシア人がいました。イスラエル北部、デカポリス周辺から来た、ギリシア語を話す人々のことであったかも知れません。当時ユダヤ人からは「異邦人」と見られてしまう存在でした。その彼らが、イエス様にお目にかかりたい、と頼んできます。それをきっかけに、23節からイエス様は教えを始められます。ちなみに、なぜギリシア人たちはフィリポのところに来たかというと、フィリポはギリシア名であり、彼自身、デカポリスに近い地方の出身だったからとも言われるからです。それでも、フィリポはなぜか直接イエス様にギリシア人たちの頼みを伝えるのをためらい、アンデレに話しました。アンデレは是非ともそのギリシア人たちをイエス様に引き合わせたいと思ったのではないでしょうか。二人はイエス様に話すのですが、教えを始められたイエス様はギリシア人に答えたのではなく、明らかにフィリポとアンデレの二人に話しています。


ヨハネが語る「人の子が栄光を受ける時」(23節)というのは、受難の十字架の時を指しています。いよいよその時が来た、とイエス様は宣言なさいます。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)との有名な御言葉は、死にまでも至るイエス様の苦しみが、その死で終わることはない、ということを表しています。その死とは、私たちのための犠牲としての死でした。その尊い犠牲が、何か生み出すものがあるのです。「多くの実を結ぶ」と言われている通りです。


続いては、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」という教えとなります。マタイの福音書16章と類似しています。マタイの方では、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(25節)と言われています。ヨハネも同じく、弟子の心構えを語るのでしょうか。それもあるでしょう。だから、続く26節にある、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」という、弟子の心構えとも思えるみことばとつながっていくわけです。しかし、先程の14節の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とは、明らかにイエス様のことを指すみことばでした。弟子に犠牲的な生き方を勧めることばに聞こえなくもないのですが、自らの前に異邦人が近づいてきて、しかも十字架の時が近いことを察知して、イスラエル人も異邦人も別け隔てなく救う神様の救いのご計画を思うときに、これはイエス様のご最後、犠牲を示すことばと受け取ったほうが自然です。そう考えると、この25節は、弟子たちに自分の命を憎むという自己犠牲的な生き方を勧めながら、同時にイエス様はここでもご自分のことを言っておられたとも考えられるのです。すなわち、究極的に、自分の命を憎んだ人というのは、イエス様のことであり、ご自分の命を打ち捨てて犠牲となって十字架にかかられ、のちに死からよみがえられて天に上っていかれることをも表しているのです。


そして、この部分は二重写しのように、イエス様のことを言っているようであり、同時に弟子たちのことも言っているので、26節は弟子の心構えとなります。先程も述べたように、イエス様はこれをギリシア人たちにではなく、彼らをイエス様のもとに導いてきたフィリポとアンデレに語りました。ある意味で、ここはこの2人へのイエス様の答えとなっています。「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」。イエス様がギリシア人たちと会うのは今ではないかも知れない。実際のところ、この時このギリシア人たちがイエス様に会うことができたかどうかは明確に記されていません。しかし、いずれにせよ、十字架によって救いが成し遂げられた時、イスラエル人であろうと異邦人であろうと、そのような地上的な違いに関係なく、すべての人がイエス様のもとに招かれるようになる。だから、今ではないにしても、きっとそのギリシア人たちはのちにわたしに会うことになろう、わたしのすぐ近くにいることになろう、だから、そのように伝えてくれないか、というイエス様の答えだったのではないでしょうか。


それにしても、そのような、異邦人をも大きく巻き込んですべての人を招こうとする十字架は、まさに一粒の麦が地に落ちて死ぬような、大きな自己犠牲の愛によるものであったものの、だからといって容易いものではなく、イエス様でさえ、27節には「今、わたしは心騒ぐ」と告白せざるを得ないような大きな苦しみでした。その中には、ご自分のことを慕って、異邦人であるギリシア人をも引き合わせようとするような、熱心な弟子たちとの別れをも意味したのでした。「わたしは心騒ぐ」を苦難の告白と解釈したのは、「父よ、わたしをこのときから救ってください」と言おうか、というイエス様の迷いが見られたからです。しかし、それでもすぐ、イエス様は「まさにこの時のために来たのだ」と、救いのご計画の中に立ち戻られています。「御名の栄光を現してください」との父なる神様への願いは、十字架の犠牲に深く結びついています。父なる神様はすぐに答えてくださいました。「わたしは既に栄光を現した」。このことは、イエス様が人間の姿を取ってこの世に来られたことや、その教え、なさった奇跡などをまず表していると言われます。そして、「再び栄光を現そう」という方が、イエス様の十字架による救いを表しているのです。


では、改めて、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われた意味は何だったのか。多くの実を結ぶというその実は何であったのか。32節に「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」というイエス様の御言葉が記されていますが、まさにそのように、十字架での犠牲を通して、イエス様は私たちを近くに引き寄せ、確かなつながりを持ってくださるのです。そのことを表しているのです。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」(27節)とまで苦しみ、悩まれたイエス様が、「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(同節)とご自身のご目的にしっかりと立たれたからこそ、このように多くの実を結んだのでした。


この部分から、今週を生きる私たちは何を大事なこととして知るのでしょうか。何を、ご受難のイエス様からの重要なメッセージとして受け取るのでしょうか。


まず第一に、四旬節に際し、改めて、イエス様の受難の大きさ、その意味を深く思う、ということがあります。イエス様は私たちのために、一粒の麦となられたのです。


第二に、そのことを知った私たちは、救いを大いに感謝して受け取るとともに、新しい生き方へと招かれます。イエス様にならう者として、自己犠牲的な生き方の尊さを知り、それに憧れるのです。更に、それが達成できる、できないに関わらず、すでに私たちが、イエス様の十字架によって、イエス様のおられるところにいることができるようにしていただいたことに深く感謝するのです。


第三に、イエス様が私たちとのつながりを打ち立ててくださったように、コロナ禍を経て、コロナ後に生きる私たちは、イエス様とのしっかりしたつながりをいただいたことに深く感謝し、その背後に大きなイエス様の犠牲があったことを覚えつつ、私たちも、つながりが希薄になりがちなこの世界において、つながりづくり、あるいはつながりの回復を目指していくことになります。それは同時に、私たち主導で推し進めていく、というようなものではなく、優しく暖かで、譲ることは譲り、自己犠牲的な姿勢で進められていくのです。


お祈り

天の父なる神様。

今朝のこの御言葉の時をありがとうございます。

救い主イエス様の栄光を現してくださり、感謝します。

しかしそれは、十字架の犠牲、そこで一粒の麦として命を捨てることを意味していました。

その大きな犠牲があってこそ、今の私たちがある、と改めて知りまして、感謝します。

どうかこの一週間も、あなたの愛に触れ、その愛を知った者として、

まわりにイエス様を紹介する者として、このイエス様とのつながりづくりをする者として、

生きることができるようにしてください。

イエス様がおられるところに、私たちもいることができるようにしてくださった、という心強い言葉がありました。そのことに信頼をおいて、安心して過ごせますように。

この時期体調を崩しておられる方も多いですから、癒やしがありますようお祈りします。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日予定されていた青年会主催の聖書研究会は来月に延期といたします。来週は枝の主日で、29日(金)夜7時からが受苦日礼拝、そして31日が喜びのイースターとなります。イースター礼拝には、神戸中央合唱団の皆さまがゲストとしてお越しになります。午後1時半からが墓前礼拝となります。






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