聖書交読 ヨハネ3章14~21節 (新約p167)
司) 3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
会) 3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
司) 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
会) 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
司) 3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
会) 3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
司) 3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
全) 3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
聖書朗読 エフェソ2章1~10節(新約p353)
2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
※本日は、馬渕主事の説教の要約を掲載します。
本日の説教より 「恵みによるのです」
今朝の聖書の箇所は、いわゆるシンメトリー、対称になっています。書き始めの部分と最後の10節をみてみますと、そこにはどちらも「歩み」が述べられていますが、過ちと罪を犯しての歩みと、善い業を行なっての歩みが、まったく対照的に述べられています。2節と9節では、どちらも「行ない」「行動」について示されていますが、その意味するところは対称的です。3節と8節は、少し説明が要るかもしれませんが、何よりも、「神の怒り」と「恵み」が対称的に述べられていることに、私たちは気付かされます。4節と7節の比較になると、もはや対称的というよりも、まったく同じ内容が、繰り返して書かれていることに、気付かれると思います。4節の「憐れみ豊かな神」は、7節の「神は、その限りなく豊かな恵み」と対応しています。そして、5節の「キリストと共に生かし」と6節の「キリスト・イエスによって共に」は、まさに同じことを語っています。
そして驚くべきことに、1節から10節までで最も大切なメッセージ、そしてパウロが最も伝えたかったことが、5章の後半に、挿入されるような形で明示されているのです。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」
エペソへの信徒の手紙を書いたとき、パウロは獄中にいました。自らの余命があとどれ程かも分からない折に書かれたこの手紙は、パウロの心の底からのメッセージでありました。使徒は、繰り返し、言葉を尽くして述べるのです。あなたが救われたのは、「行ないによるのではありません」「自らの力によるのではなく、神の賜物なのです」と。
報告
・先週は昼食会があり、その時にフェローシップMLCの交わりがありました。本日は馬渕主事の説教で、橘内師は三田フェローシップ・キリスト教会でのご奉仕です。イースター献金をおささげしましょう。
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