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執筆者の写真明裕 橘内

2024年2月4日 顕現後第五主日


聖書交読  1コリント9章16~23節 (新約p311)

司)16:もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。

会)17:自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。

司)18:では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

会)19:わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。

司)20:ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

会)21:また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。



聖書朗読 詩編117編(旧約p957)

1:すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。

2:主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。


説教 「主をほめたたえて生きる」 


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


能登半島の地震から1か月以上が経ちました。まだまだ現地は復旧のめども立たないような場所もあり、多くの助けが必要な様子で、かなりの忍耐が強いられている状況です。ウクライナとロシアの戦争は、この2月で2年が経過しようとしています。私たちの周りには、私たちを不安に陥れる要素はいくらでもありますが、その只中で、私たちは今日もみことばに聞こうとしています。


特に本日は午後に教会総会のある大事な礼拝なので、今年のみことばを一緒に開いております。


週報にも記載しておりますように、今年のみことばは詩編117編です。113~118編の「エジプトのハレルヤ詩編」に属しています。これは、過ぎ越しの祭りの食事の前後に歌われた詩編と言われ、特に115~118編は食事の後に歌われたと考えられています。イエス様の最後の食事、それは過ぎ越しの祭りの食事でしたから、その後に歌われた詩編は115~118編の可能性が高く、118編だと言われることもありますが、もしかして117編も歌われていたかもしれません。


おわかりのように、この詩編には2節しかなく、事実、詩編の中でいちばん短い詩編です。ところが、読んでみると、異邦人をも賛美へと招く、壮大な広がりを持つ詩編であることがわかります。


「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。」(1節)


1節では、全世界への賛美の呼びかけがなされています。細かく見ると、「すべての国よ」という呼びかけが「すべての民よ」と言い換えられ、「主を賛美せよ」という勧めが「主をほめたたえよ」と言い換えられています。これによって、実質的に全世界への賛美の呼びかけが2回繰り返されていることになります。


このところからわかることは、この詩編の作者の広い視野です。旧約の信仰は、少なくともこの作者の信仰は、決してイスラエル一国主義ではありませんでした。国粋主義的ではなかった、とも言えるでしょう。イスラエルだけが主を賛美するのではない。主なる神は全世界の主なのであるから、全世界の人々が、すなわち当時異邦人と見なされていた人々もまた一緒になって、主を賛美するのだ、ということだったのです。


ちなみにここで「主」とは、全知全能の神様のことを指しており、天地創造の神様で、イエス様を救い主として送ってくださった神様のことと思っていただければ十分です。


この詩編が「エジプトのハレルヤ詩編」に属すると言われ、出エジプトとの深いつながりが指摘されることから、この賛美の呼びかけの土台には、出エジプトという奇跡的な救出の出来事への感謝があると考えられます。現代の私たちに置き換えると、イエス様の十字架による救いをいただいた私たちは、感謝を持って、私たちに救い主を送ってくださった神様を賛美しながら生きる、ということになります。


「主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。」(2節)


(新改訳:その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。)


2節にある「主の慈しみとまことはとこしえに」は、昨年のみことば、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(哀歌3章22節)と深いつながりがあります。今年も私たちは、決して絶えることなく、とこしえに続く主の慈しみに目を留めながら、歩んでいくことができるのです。


神様が私たちと良い関係を保とうとする熱心さ。それが大きく、わたしたちを超えて力強い。神様との関係がしっかりしていて、壊れない様子。神様の方で、わたしたちをつかんで離さない。


細かく見てまいりましょう。まず「慈しみ」ですが、新改訳ですと「恵み」と訳されております。これは、神様が私たちと良い関係を保とうとする熱心さのことを指すと言われます。それが新改訳では「大きい」と訳され、また新共同訳では「わたしたちを超えて力強い」と訳されています。これは、神様との関係がしっかりしていて、壊れない様子を表わしています。むしろ神様の方で、わたしたちをつかんで離さない、ということですから、私たちにとっては安心です。


「慈しみ」あるいは「恵み」と並んで出てきますのは、「まこと」です。真実、と言い換えることができますが、「真理」と訳すことも可能です。ということは、「慈しみ」を「恵み」と言い換えると、ここで言われているのは「恵みと真理」ということにもなります。恵みと真理はイエス様に豊かに宿っていました。それはヨハネ1章14節を読めばよくわかります。


「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネによる福音書1章 14節)


そして、またこのふたつは主なる神様が世界をすべ治められる重要な要素でもあります。災害が起こるこの世も、主が治めておられるのです。


最後の短い言葉、皆さん良くご存知の「ハレルヤ」ですが、「主をほめたたえよ」という意味であることも、皆さん良くご存知かと思います。「その通りです」という意味の「アーメン」と並んで、私たちの信仰生活において重要な言葉です。黙示録に「アーメン、ハレルヤ」と一緒に出てくることもあります。このように、短くても私たちの信仰を鼓舞し、信仰の告白としても使うことができるような言葉が与えられていることは、まさに神様からの恵み、慈しみに他なりません。この「ハレルヤ」という言葉があるゆえに、この詩編は「エジプトのハレルヤ詩編」に数えられるわけですが、その中にだけ留めるのではなく、私たちの日常生活の中でも、この「ハレルヤ」ということばを生かして、実際に口に出して、信仰の生活を送っていきたいと思います。


かと言って、私たちはお互いのあいさつの言葉に「ハレルヤ」と使う習慣もないし、ハレルヤ、と叫んでから、お祈りしたり、説教したり、証ししたりすることもなかなかないかもしれません。だからこそ、今年のテーマソングが大事になってきます。聖歌のテーマソングは、498番「歌いつつ歩まん」で、この中に、「ハレルヤ」という歌詞があります。聖歌の歌詞としてでしたら、私たちは「ハレルヤ」と口にしやすいのではないでしょうか。また、イエス様の十字架によって救われた喜びがあり、主の慈しみとまことをいただいているから、歌いつつ歩むことができるのです。大学卒業後、かつて新生運動と言っていた、聖書やトラクトを印刷する新生宣教団で2年間仕事をしていた時、クリスチャンの印刷会社だったので、毎週月曜朝のチャペルで何回も何回も賛美しました。ただの楽天的な歌、というのではないことがよくわかります。まさにこの賛美は、「主にすがるわれに恐れはなし」とあるように、信仰の歌なのです。主への信仰があるからこそ、どのような状況にあっても、「ハレルヤ」と賛美できるのです。


ちなみに、先ほど聖歌隊に賛美していただき、今年のテーマの讃美歌なのでこのあと一緒に賛美することにもなっている讃美歌529番「ああうれしわが身も」ですが、「うたわでやあるべき」「たたえでやあるべき」という歌詞から、「主をほめたたえながら生きる」という、このみことばの姿勢をよく表した讃美歌であるということができます。なぜそのように喜ぶことができるのか。それは、イエス様によって救われた身だからなのです。


これらのことから、賛美の土台、それは、救いの喜びにある、と言うことができるでしょう。今年改めて、「救い」ということについて、その恵みの大きさ、意味の深さを確認する、ということはとても大事なことです。この詩編が「エジプトのハレルヤ詩編」であるとお話しした時、併せて過ぎ越しの祭りとの関連を指摘しました。過ぎ越しと言うと、イスラエルの人々が、自分たちの上を神様の怒りが通り過ぎて行った、過ぎ越していったことに深く感謝し、併せて、それに続くエジプトからの奇跡的な救出を聖書における救いの原型として大いに喜んだことを意味しています。私たちからすれば、人間が神の怒りに直面するどころか、それを免れ、むしろイエス様によって罪赦され、救われることを表わしています。これらのことに喜ぶからこそ、私たちは賛美するのです。


と言うことは、言い換えれば、この地上で思い通りに事が進むとか、うれしいことばかりが起こるからそれで感謝して賛美する、ということとは違うようです。そうなるのを待っていたら、いつまでも賛美はできません。そうでなくとも、たとえ外側では心痛むようなことが起こっていても、内面では、静かに深くイエス様の愛に感謝して、賛美の心がわきあがってくる。このようなことなのではないでしょうか。


ですから、この詩編作者のように、世界の人々を主への賛美に招くことは、私たちも関係してきます。主への賛美をここで主を礼拝することと理解すると、「礼拝へと人々を招くのは私たちの使命」であるとも言えます。私たちの周りの席は、これからイエス様を知り、一緒に神様を礼拝するようになる人びとのためにあります。幸いなことに、まだまだ多くの人々を私たちは招くことができます。そのためのスペースが十分あります。この1年、ともに賛美するために、ともに礼拝するために、多くの人々を招く私たちでありたいと願います。


お祈り

天の父なる神様。

今朝もこのみことばの時をありがとうございます。

今年のみことばから、あなたのみこころを聞くことが出来ました。

信仰を持って、あなたにすがり、イエス様による救いのゆえに、

あなたをハレルヤと賛美しながら歩めますように。

そして、周りの多くの方々を、礼拝へとお招きできますように。

困難な状況に置かれていて、なかなかそのように考えられない、という方々には、

あなたの福音による慰めと、励ましがありますように。

午後の教会総会の上にも、主がみこころを示してください。

未だ困難な状況の続く能登半島の被災地に、あなたの慈しみが注がれますように。

今こそ「地には平和」とのみことばが、成就しますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン


報告

・先週は御影も園田も馬渕主事の説教でした。橘内師は神学校後援会デーでコイノニア福音教会でのご奉仕でした。

・本日は昼食後に教会総会があります。





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