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2024年2月25日 四旬節第二主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2024年2月25日
  • 読了時間: 9分

聖書交読  創世記17章1~8節 (旧約p21)

司)17:1 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。

全)17:2 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」

司)17:3 アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。

全)17:4 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。

司)17:5 あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。

全)17:6 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。

司)17:7 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。

会)17:8 わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」


聖書朗読 マルコ8章31~38節(新約p77)

8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。

 8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

 8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

 8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。

 8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

 8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」


説教 「救い主が排斥される時」 


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日は四旬節第二主日です。イエス様の御受難を想う四旬節らしい聖書の箇所が選ばれております。それは、イエス様の御受難の予告です。出来事としては、ペトロがイエス様について立派な信仰告白をした後、イエス様のお姿が変わって神様としての栄光が表れる前にあったとされています。


そのように、ペトロが立派にイエス様のことを「あなたは、メシアです」と告白した後、何とイエス様は、ご自分の受難の予告を始めます。どうしてもそうならなければならないことであるかのように、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教え始められるのです。もちろんここで、イエス様の復活も予告されていることに注目する必要があります。それにしても、驚くべきことに、イエス様は「排斥される」とのことで、これは他の翻訳では、「捨てられる」と訳されています。


教え「始め」られた、とあるように、イエス様の受難の予告は一度限りではありません。それに加え、この「教え始められた」という言い方は、ペトロの反応、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」という表現と揃えられています。どちらも時間の経過が暗示されていて、

「イエス様は『何度か』御自分の受難について教えられた」

「それに対してペトロは『何度も』イエス様をいさめたのであった」

というようなニュアンスもあるのでは、と思います。


私たちが今イザヤ書53章として受け取っている箇所からしても、メシアが苦しみを受ける、ということは明らかだったのではないか、と今の私たちは思ってしまいます。しかし、当時としてはやはり、イスラエルをローマの支配から解放する、武力的なメシア像が望まれていたようです。そのような待望の中で、まさかメシアが排斥され、殺されるなどとは、とても思うことができなかった、ということもあるでしょう。更に、先にも触れたように、冷静に福音書を読む私たちには、イエス様はちゃんとここで、「三日の後に復活することになっている」と、復活の予告も併せてしておられることに心を留めることができますが、信じ従っていこうとしている、ついさっき「メシアです」と信仰告白をした相手が、「排斥され、殺される」と告げた時点で、すでにペトロは冷静でいられなくなっていたことでしょう。


しかし、だからと言って、ペトロがイエス様をいさめていいということにはなりません。イエス様ははっきりと、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロをお叱りになります。この時のイエス様のお気持ちにも、思いを馳せたいと思います。ペトロを憎く思ってこのようにお叱りになったわけでないことはもちろんです。ついさっき、ご自分のことをちゃんと「メシアです」と答えたペトロですから、大事な存在であることは間違いありません。ペトロのことをどうでもいいと思っていなかったからこそ、ここであえて、イエス様は厳しいことをおっしゃっている、という面もあったことでしょう。ペトロがどう思おうと、神のことを思わず、人間のことを思っているのはみこころにかなっていない、そのような考え方で今後ずっと歩んでいくと、いつか必ず、あなたの信仰生活は破綻をきたす、だから今のうちに、あなたの信仰を正しい方向に向けておきたい、このような思いがイエス様の胸に去来したのではないでしょうか。


受難の予告の後に続くのは、弟子についての教えです。有名な、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という教えがイエス様の口から語られます。これは、実際は弟子たちだけでなく、群衆にも広く語られています。


この教えの部分を、今までの流れに沿って解釈すると、「自分の命を救いたいと思う」ということが、とりもなおさず、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ということにあたるのではないでしょうか。ここでは、自分の命を救いたいと思うことは推奨されていません。推奨されているのは、「福音のために命を失う」ということです。多少わかりづらく、誤解されることも多い「自分の十字架を背負う」ということですが、ここではこの、「福音のために命を失う」ということとイコールなのではないでしょうか。そして、まさにそれが、「神のことを思わず、人間のことを思っている」の逆で、「人間のことを思わず、神のことを思う」ということに密接につながっていくのでは、と読めるように思うのです。


さて、最後、38節ですが、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」といった、厳しい言葉でした。


ここにある「神に背いたこの罪深い時代」ですが、現代にも共通する点はあるのではないでしょうか。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まって、昨日2月24日で2年となりました。つい昨日報道で目にしたことですが、ウクライナの若い兵士がイギリスで軍事演習を受けてきたようで、「敵への襲撃の仕方を学んできました」とインタビューに答えていました。未来ある若者が、外国に出向いて敵の襲撃の仕方を学ぶこの時代はどうなのか、と思わざるを得ません。今私たちは現実に、そのような時代に生きています。そのような時代に、

イエス様とイエス様の言葉を恥じない生き方をする、ということです。もしイエス様とイエス様のことばを恥じるようなら、イエス様もまた、私のことを恥と思われる、ということです。


では、イエス様とその言葉を恥じるとは、具体的にどのようなことなのか。例えばそれは、イエス様のことに触れるのを避けるであるとか、そのようなことと置き換えることができるように思います。家族の中にに恥となる存在がいると、その人がいないようにふるまう、ということが図らずも起こることがありますが、イエス様などいないかのようにふるまうなど、もしかして私たちも他人事ではないのではないでしょうか。


また、長老、祭司長、律法学者たちからイエス様が排斥されるのと同じで、私たちも心の中でイエス様を排斥してしまうのが、イエス様を恥とするのと似ているとも思われます。


まとめていきましょう。救い主である方が排斥され、捨てられる。そんなことはあってはならない、と思いますが、今日お話ししたことを振り返ると、ペトロの「神のことを思わず、人間のことを思っている」という考え方の中に、そしてまた、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者」の生き方の中に、実はイエス様を心の中で排斥し、捨てるような思いが隠れているのです。ですから、「自分の十字架を背負う」とは、イエス様を排斥しないで生きる、ということにつながるのではないでしょうか。


このあとの讃美歌494番は三浦綾子さんの結婚式で賛美されたものです。


「そなえたもう 主のみちを ふみてゆかん ひとすじに」


という歌詞がありますが、主がみこころをなしてくださると信じて、まっすぐに歩む歩みとは、まさに自分の十字架を負って歩むことと共通しているようにも思います。 


ただ、今日のこの箇所から受け取る福音とは何か、ということも、考えておきたいのです。いつもいつも私たちは自分を捨て、十字架を背負って歩めるわけではありません。時には人間的な思いが先立って、神様のことを思わず、時にはイエス様のことをまるで排斥するかのような、自分の命を救おうとするような思いに捕らわれることもあるのです。それが現実です。そのように生きざるを得ない私たちのためにこそ、イエス様の十字架があり、私たちを義とするためのイエス様の復活がある。これこそが、私たちへの慰めの福音です。ここに主の慈しみを見出し、今週も主を賛美しながら、歩んでまいりましょう。


お祈り

天の父なる神様。

このみことばの時をありがとうございます。自分の十字架を背負って、あなたが備えてくださる道を進ませていただけること、ありがとうございます。私たちのうちに、どこかイエス様を排斥するような、避けるような思いが潜んでいたとしても、あなたはそれを赦すために、十字架にかかってくださったのでした。感謝します。この四旬節、あなたの御受難を深く思って、過ごすことができますように。

未だ困難な状況の続く能登半島の被災地に、あなたの慈しみが注がれますように。

今こそ「地には平和」とのみことばが、成就しますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン


報告

・本日は午後1時から三浦綾子読書会があります。今回は正田早苗さんも出席されます。







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