聖書交読 詩編50編1~6節 (旧約p883)
司)50:1 【賛歌。アサフの詩。】神々の神、主は、御言葉を発し/日の出るところから日の入るところまで/地を呼び集められる。
会)50:2 麗しさの極みシオンから、神は顕現される。
司)50:3 わたしたちの神は来られる/黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている。
会)50:4 神は御自分の民を裁くために/上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。
司)50:5 「わたしの前に集めよ/わたしの慈しみに生きる者を/いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」
全)50:6 天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行われる。
聖書朗読 マルコ9章2~9 節(新約p78)
9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
説教 「イエス様の輝き」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
昨年12月から待降節が始まり、教会の暦の新しい一年が始まりました。今年はイースターが割と早い時期にあるので、もう四旬節が近づいています。本日はイエス様の姿が変わられた、変容主日です。
イエス様のお姿が変わった出来事は、限られた弟子たちしか体験できませんでした。「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて・・・」と記録されています。しかし、3人の限られた弟子たちだけが体験した出来事を今、私たちは福音書を通して、追体験することができます。それはまさに主の恵みです。恵みと慈しみには意味の重なる部分があると考えると、これはまさに主の慈しみによることであり、「主の慈しみとまことをほめたたえよう」という今年の目標に向かわせるものでもあります。
さて、イエス様のお姿が変わった出来事の中心は、イエス様の「輝き」でした。そのあまりの輝きに、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とまで描写されています。白は、神の輝きの象徴でもあります。ここで、主イエス様の神様としての御性質が表れた、とも言うことができます。
なお不思議なことが起こっていきます。「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」と記されているように、イエス様と弟子3人しかいなかったところに、ふたり加わりました。それが、旧約を代表する人物、モーセとエリヤでした。ちなみに、モーセが神のことばである「律法」の代表、エリヤが「預言者」の代表、ということになります。イエス様のお姿が変わったこの出来事が重要であったからこそ、そこに立ち会う人数が限られ、弟子は12人いたのに、そこに居合わせたのは3人でした。しかも、その選抜はイエス様主導でなされています。そこに、2人の人が加わる。しかも、それは旧約を代表するような人物だった。このことは、何を意味していたのでしょうか。同じ2人が加わるなら、残りの9人の弟子から選ばれてもよかったのではないでしょうか。しかしこれは、イエス様が旧約とのつながりの中で表れた方であることが明らかになるために、必要なことでした。言ってみれば、旧約において、もっと細かく言うと「律法」と「預言者」によってあらかじめ語られていたのはこのイエス様のことである、ということを示すために、重要なことであったのです。ここで、イエス様の神様としての栄光が現れるとともに、旧約において約束されていた救い主こそイエス様である、ということが明らかになったのです。
この光景を見て、口を開くのはペトロです。この辺りのことが、弟子の筆頭のように思われることの理由なのでしょう。しかし、あまり出来事の深い意味がわかって発言したのではないようです。「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」と言われている通りです。私たちも、大きな体験をした後、それをどう言葉で表現したらいいのかわからず、とりあえず「何と言ったらいいかわかりませんが・・・」と言ってしまうのと同じです。しかし、ペトロはただ口ごもっていたのではなく、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と発言しています。まず、「わたしたちがここにいるのは、すばらしい」と言い表しています。自分が体験したことを前向きに受け止めて、「すばらしい」と評価しているのです。これは「よい」であるとか、「美しい」という意味のことばで、賛美にもつながります。ここでペトロは、この出来事を通して、神様を賛美したとも言えましょう。私たちも、今週いろいろなことを体験するかと思いますが、何が起こっても当たり前、と通り過ぎるのではなく、一つ一つのことに「すばらしい」と感謝、感動して、賛美していくのです。なかなかペトロのように言語化することは難しいかもしれませんが、そのような時に、讃美歌は役に立ちます。これから一緒に讃美歌166番を賛美しますが、季節ごとに主を賛美するこの讃美歌において、「イエス様は いとうるわし」と私たちは歌います。讃美歌は、普段だったらなかなか「イエス様はたいへんうるわしい」などとは正面切って口にしないような私たちに、イエス様を明確に言葉でもって賛美するよい機会を与えます。そして、先ほども確認した、「主の慈しみとまことをほめたたえよう」という今年の目標を実現することにつながっていくのです。
ペトロが「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのため・・・」と思わず口走ったのは、イエス様とモーセやエリヤを同等の存在ぐらいにしか考えていなかったことだ、と言われてしまいますが、別の側面も見えてきます。仮小屋と言うように、仮のものであったとしても、そこに建物を建てる、ということは、そこである程度の時を過ごす、ということを暗示します。イエス様のことをどのぐらい理解していたかはともかく、ペトロはイエス様とそこで一緒に過ごしたかった。イエス様が光り輝くこの光景を、一瞬のものではなく、長続きするものとして味わいたかったのではないでしょうか。その点では、私たちも大いにその姿勢に倣いたいものです。イエス様とお出会いするその瞬間を、少しでも長く経験していたい。はかない望みかもしれませんが、日々の生活の中でそのように、イエス様と共に過ごす時間を少しでも長く持ちたい、と願う私たちでありたいと思います。
ところで、イエス様の変容は、神様としての栄光の表れ、とお話ししましたが、ただ、この輝きは、ペトロによれば「すばらしい」と評される光景でありながら、同時に、「弟子たちは非常に恐れていたのである」とあるように、見る者が「恐れに打たれる」ようになる類のものでもありました。このことがあって弟子たちは、それまで以上に厳粛に、イエス様に対する畏敬の念を抱いたのです。ペトロはイエス様に対して、「先生」と呼びかけました。「ラビ」という呼びかけです。それが、単なる教師を越えて、主である存在、唯一無二の存在へと理解が変わっていく時がきました。
更に、「これに聞け」との天からの声の後、イエス様の姿しか見えなくなっていたことから、ますますイエス様のみに聞く、という姿勢に向かっていったのです。この天からの声ですが、私たちはイエス様の洗礼の後に聞こえた声と同じだ、だからここで天からの声が聞こえるのは2度目だ、と思いがちです。しかし、イエス様の洗礼の時にはまだ弟子たちはいませんでしたから、弟子たちが天からの声を聞いたのは、この時が最初で、また唯一の経験であったわけです。かなり印象的であったと思われます。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という天からの声の内容に関しては、詩編2編7節に関連があると言われることがあります。
主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ」(詩編2編7節)
神様はいくらでも新しい、この場限りのオリジナルのことばを語ることがおできになるのに、敢えてご自分を制限され、旧約聖書の中にあることばを暗示的に用いて、語られます。私たちがすでに聞いている、聖書の中にあることばから神様は語られたのだ、 と弟子たちが気付いて、それで神様に対する親近感を覚えたり、イエス様をメシア的な存在だと認識したりすることができるようになさったのです。配慮ある神様の姿であって、これもまた、慈しみと言えましょう。実に印象深い、旧約の代表的人物が現れるという奇跡的な体験は、雲が晴れると、そこにはイエス様しかいない、という暗示的な出来事に急展開します。モーセでもエリヤでもない、大事なのはイエス様だ、ということです。私たちも、イエス様に聞く、ということに徹しましょう。世の中からいろいろな声が聞こえてきます。それに耳を傾けるなら、イエス様の大事さも見失う可能性があるし、同時に、私という存在の価値さえ見誤ることにつながりかねません。私などつまらない存在だ、従ってこの私の人生だって何の価値もない、と思い込んでしまうこともあるでしょう。あるいは逆に、「自分を信じる。それしかない」と、自分の価値を必要以上に高く見積もり、その判断が神様よりも大事になってしまうことも起こり得ます。地道なことかもしれませんが、聖書の言葉を通して、あくまでイエス様に聞くのです。御言葉からイエス様を知り、私を知る、ということです。そして、麗しいイエス様の価値を知り、イエス様を賛美していくのです。
では最後に、イエス様がこの出来事を言い広めるのを禁じられたのはなぜだったのか、考えてみたいと思います。私たちは、このイエス様の戒めにリアリティーを感じません。なぜなら、この福音書の記事で、このイエス様の変容の出来事を知っているからです。だから、イエス様がなぜこのように言っておられるか、なかなか理解できません。今では誰でもそれを伝えているではないか、ということです。では、なぜ今は話していいのか。それは、イエス様のことばの中にヒントがあります。イエス様は、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」とおっしゃいました。ですから、何があっても話してはならない、ということではなかったのです。人の子はイエス様のこと。イエス様が死者の中から復活なさったから、言ってみれば解禁されて、この出来事を話してよくなったわけです。そうすると、イエス様の復活が鍵を握っていることがわかります。すなわち、イエス様が復活されたことで、イエス様が救い主であることが完全に証明された、という面があったのだということです。逆に言えば、それまではまだ救い主であることが完全には明らかにされていない状態であって、その時点ではまだいろいろな誤解なども生じる可能性があったから、むやみにイエス様のことを噂してはいけない、ということだったわけです。というわけで、今はイエス様の復活後ですから、このイエス様の変容の出来事を多くの人に紹介し、その輝きを伝え、イエス様が神様としての栄光を身に帯びている方であり、救い主であることを言い広める時代です。救いには、私が救われた、という所で完結する面と、またそれを多くの人々に伝えて、一緒に喜びにあずかる、という側面とがあります。そのような喜びを、体験したいとは思いませんか。3月にはイースターがあり、5月には伝道礼拝があって、イエス様のことを紹介する絶好の機会が続きます。ぜひ一緒に光り輝くイエス様を紹介し、喜びを経験したいものです。
お祈り
天の父なる神様。
イエス様がこの暗闇多い世界に来てくださり、変容の山で光り輝くお姿を現してくださり、感謝します。イエス様の素晴らしさを味わい、主を賛美しながら歩むことができますように。イエス様の輝きに神様としての御威光を見出し、畏敬の念を持って信じ、従っていけますように。このイエス様を広く紹介する中で、喜びを味わうことができますように。なかなかその方向に向かっていけないかたくなな心を、あなたが取り除いてください。
未だ困難な状況の続く能登半島の被災地に、あなたの慈しみが注がれますように。
今こそ「地には平和」とのみことばが、成就しますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
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