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執筆者の写真明裕 橘内

2024年1月7日 主の洗礼主日


聖書交読  創世記1章1~5 節(旧約p1)

司)1:初めに、神は天地を創造された。

会)2:地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

司)3:神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

会)4:神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

全)5:光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。



聖書朗読 マルコ1章4~11節(新約p61)

4:洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

5:ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

6:ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

7:彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。

8:わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

9:そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

10:水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

11:すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



説教 「新しい年に主を想う」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


導入

主の新しい年、2024年が始まりました。今年も皆さん、よろしくお願いします。残念ながら、晴れやかな新しい年の幕開けとはなりませんでした。元旦に、令和6年能登半島地震が発生、多くの方々が命を落とし、被災地では今も懸命な救助、捜索が続けられています。被災地の皆さんに心からお見舞い申し上げます。私たちの地域もたいへん揺れました。たいへん長い時間の揺れで、私はいつものめまいが元旦早々起きたのかと思いましたが、部屋が揺れているのに気付き、地震だとわかりました。皆さんも驚かれたのではないでしょうか。被災地を主が憐れんでくださるよう祈るのみです。


さて、教会の暦で申しますと、昨日が主の顕現日、エピファニーで、昨日までクリスマスシーズンでした。主の顕現日とは、救い主である幼子イエス様が異邦人にそのお姿を現されたのを祝う日です。そういったわけで、今日は実質顕現後第一主日でもあるのですが、同時に主の洗礼日でもありますので、この福音書の箇所が開かれております。ちなみに、お気づきの方もあるかと思いますが、昨年の12月、アドベントの時期でしたが、12月10日のアドベント第二主日の福音書の箇所が、イエス様の先触れとしての洗礼者ヨハネについての箇所で、マルコ1章1~8節でした。本日の箇所と重なっておりますが、もちろん本日は、イエス様の洗礼のところに焦点を当ててまいります。


救い主の道備えのために現れた洗礼者ヨハネでしたが、その大事な役割は、人々に洗礼を授けることでした。5節では、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とありまして、かなり多くの人々が彼のもとに来て、洗礼を受けたことがうかがわれます。その時には、罪を告白することも伴っていました。自らの罪を自覚し、それを口で言い表して、神様のもとに帰るという約束のしるしとして、洗礼を受けていったのです。


ここで注目しておきたいことは、このマルコの福音書によると、ヨハネはこの洗礼の実行前に、洗礼を「宣べ伝えた」、ということです。ヨハネはまず十分に洗礼について教えたあとで、洗礼を行っていたことがわかります。洗礼についてヨハネが語り、教えているのを聞いたうえで、民は彼のもとにやってきて、洗礼を受けたのです。


ここに、教えが宣べ伝えられることの重要性が示されています。旧約聖書の土台のもとに活動したヨハネですから、神の御言葉に立脚して、教えて言ったはずです。主の新しい年、2024年が始まりましたが、私たちも同じように、御言葉を通して教えを受けることを大事にして、この年を歩んでいきたいものです。基本的なことですが、年頭に当たり、再確認しておきましょう。御言葉を聞く重要な機会は、礼拝です。この大事な機会を、2024年、逃さないようにしましょう。それでなくとも、礼拝の機会は限られています。1年に52回ほどです。1年の中には、体調を崩すことや、家族に思いがけないことが起こることもあるでしょう。そうであるならば、「またいつでも礼拝できる」というのではなく、あらゆる機会を生かして、毎週の礼拝にできる限り出席する、ということがたいせつです。


ヨハネはのちに救い主イエス様が洗礼を授けることを見越して、自らの洗礼とイエス様の洗礼の違いについても述べています。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」という8節の御言葉の通りです。それは、イエス様が自分よりも優れているという自覚に基づいており、イエス様の洗礼の方が優れている、という主張になります。その辺りのことは、ヨハネの「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」という言葉によく表れています。大の大人が、軽はずみに「かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」などと言うはずがありません。単に腰が低いとか、柔和な性格であるというのではなく、これは徹底的に神様に教えられ、後から来られる方が、自分よりも優れているということを実感し、認識している人の言葉です。もちろん、この「後から来られる方」というのが、イエス様のことです。


そのイエス様が自分の前に現れて、洗礼を受けることを望まれる。その時の葛藤は、マルコによる福音書では割愛され、マタイの福音書に詳しく記されています。一度ヨハネは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3章14節)と言って、イエス様を思いとどまらせようとします。それに対し、イエス様が「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)と言ってヨハネを説得します。イエス様は、人間に過ぎないヨハネからご自分が洗礼を受けることを、「正しいこと」と思っておられたことがわかります。こういったやりとりをマタイは記録していますが、マルコは、ただイエス様が洗礼を受けられたという事実を伝えます。



10:水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。


それでも、イエス様の洗礼後、天が裂けて、“霊”がイエス様に降ってきたことに関しては、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書とも共通して報告しています。それだけこの出来事が重要であったということです。これは、何を意味しているのか。それは、イエス様が特別な存在であったことの証拠です。だから、重要なこととして、すべての福音書に記録されているのです。“霊”とは聖霊のことです。イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が降った、ということです。これは、言ってみれば神の認証を受けた、ということでもあります。イエス様の洗礼について、私たちは「私たちと同じ姿になるために、洗礼を受けられた」と説明を受けてきました。このような教理的な説明は私たちの時代のものであって、この出来事が起こった当時は、イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が降った、ということが、それを見ていた人々にはインパクトの強いことだったのです。聖霊は目に見えないというのが私たちの理解ですが、ここで言われている聖霊が「鳩のように」降ったというのがポイントです。あくまで「鳩のように」ということであって、決して聖霊が鳩の姿をしていたとか、鳩は聖霊の象徴ということではありません。そうではないのですが、そのように表現せざるを得ないような、客観的に、周囲の人々がわかる形で聖霊が降ったというのがこの出来事だったのです。私たちのために洗礼を受けてくださった方が、聖霊が降るほどの偉大な存在である。それは、この出来事を見聞きした人々を大いに励ましたことでしょう。


11:すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


更に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたことによって、これは父なる神様が、イエス様を「わたしの愛する子」と呼んでおられると解釈され、それによってイエス様が神様の子であることが明らかになり、この福音書の冒頭にある「神の子イエス・キリスト」(マルコ1章1節)という記述と合致することになります。先ほど、イエス様の洗礼に際して聖霊が鳩のように降った、まさにそのことが、イエス様を特別な存在と周囲に知らせたとお話ししました。そのことと相まって、洗礼者ヨハネの言う、イエス様が「わたしよりも優れた方」(7節)であることが立証されました。本日の説教に「新しい年に主を想う」と題を付けましたが、今年2024年、私たちはイエス様を神の子であると信じていきます。そして、私たちはこの神の子であるイエス様を見続けていくのです。


加えて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を、天におられる父なる神様が、子どもであるような存在としての私たちを、「わたしの愛する子」と呼んでくださり、「わたしの心に適う」とまで言ってくださる、という解釈を、キリスト教会は伝えてきました。これは私たちに、神様に愛されているという安心感、神様から見たら私たちは子どものように大事にされているという喜びをもたらします。また、「わたしの心に適う」とは、「わたしはこれを喜ぶ」とも訳され、神様が私たちのことを喜んでいてくださることがわかります。大事なことは、この天の声の背景に、旧約聖書の御言葉がある、ということです。イザヤ書の42章1節に、「見よ、わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者」(新改訳)とありますが、これがここでの天からの声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」の背後にあるのです。天から声が聞こえたのは単なる不思議な出来事ではなく、その声の内容は旧約聖書の御言葉に則ったものだったのです。聴く人間に、「同じ神様が語っているのだ」とわかるようにしていてくださった。あたかも神様ご自身が、かつて語られたご自分の言葉に縛られていたかのようです。しかし、そうまでして神様は、イエス様がご自分の子であることを明らかにし、また、子どものような存在である私たち人間に、愛のメッセージを伝えようとしたのです。


日々の暮らしへの適用

今私たちは、本来であれば希望に満ちた新しい年の初めであるにもかかわらず、元旦の能登の地震や、次の日の信じられないような航空機事故によって、心が重い日々を過ごしています。報道では、まさにやるせない、といった感じの被災地の方々の声が聞こえてきます。そのような、不安の多いこの世の中に、理不尽がまかり通っているこの世に、神の子がおられる、という知らせは、安心感を生み出さないでしょうか。私たちはこの世界に、放っておかれているのではないのです。イエス様を信じる前、世の中の不条理に嘆いていた私が、その只中に神様がおられる、とわかっただけで、何となく生きていける、と思えるようになった、という不思議な経験をいたしました。ましてや、その神様が、救い主である神の子、イエス様をこの世に送ってくださいました。この神の子イエス様が、いつも私たちとともにいてくださいます。そのことに安心する一年であったら、と願います。


今年の展望


最後に、改めて、今年の展望、ということについて触れておきたいと思います。今年の教会の御言葉は、詩編117:1~2、「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ」となっています。それに基づく今年のテーマは、「主の慈しみとまことをほめたたえよう」ということになっています。どんな小さなことでも、私たちは主の慈しみを日々の暮らしの中で見出し、それを見つめ、それによって主を賛美して歩みます。この一年、皆様に主の豊かな慈しみが注がれますように。


お祈りしましょう。

天の父なる神様。

この一年最初の礼拝の時を感謝します。

イエス様が洗礼を受けた時、目に見える姿で聖霊がお降りになったことで、イエス様が偉大な存在であり、のちの天からの声によって、神の子であることが明らかになりました。

今困難な時期を過ごす私たちに、神の子イエス様がおられること、感謝します。

この世に当たり前のことなどありません。すべてがあなたの慈しみから出ることです。

ありがとうございます。どうかこの一年、このあなたの慈しみを感じ、感謝して、賛美していく私たちでありますように。たいへんな状況にある能登の大地震の被災地に、あなたの慈しみと憐れみが注がれますように。そして、「地には平和」とのみことばが、この世界に成就しますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日が今年最初の礼拝の日でした。午後には昼食会があり、フェローシップMLCの交わり、そして役員会があります。クリスマスの飾り付けの片付けも致します。



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