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執筆者の写真明裕 橘内

2024年1月21日 顕現後第三主日

聖書交読  詩編62編6~13節(旧約p895)

司)6:わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。

会)7:神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。

司)8:わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。

会)9:民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ

司)10:人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。

会)11:暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。

司)12:ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり

全)13:慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。



聖書朗読 マルコ1章14~20節(新約p61)

14:ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

15:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

16:イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

17:イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

18:二人はすぐに網を捨てて従った。

19:また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、

20:すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。



説教 「イエス様の宣教」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


主を礼拝するために時間をささげて御前に出て来られた皆さんお一人お一人を心から歓迎いたします。


先週水曜日、1月17日であの阪神淡路大震災から29年でした。あの日のことを思い出しながら過ごされた方も多かったことでしょう。そして今は、元旦に発生した能登半島地震で多くの方々が被災しており、復旧もままならない中で、多くの別れと悲しみを経験しておられます。多くの人がかの地のために祈り、何かできないものかと模索しているところだと思います。そのような現実の只中で、私たちは今朝も御言葉を開いております。


今朝の御言葉の冒頭の言葉には、今日本が経験している悲しみとつながるような響きがあります。マルコは実に簡潔に「ヨハネが捕えらえた後」とのみ記していますが、イエス様の到来の道備えとして重要な役割を果たしたあの洗礼者ヨハネ、イエス様に洗礼を授けたというヨハネが、捕らえられたとあります。これはどういったことだったのでしょうか。マルコによる福音書では後の6章において詳細に語られていますが、本日は手短に、ルカによる福音書にてその次第を確認しておきたいと思います。


ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。(ルカによる福音書3章19~20節)


要するに、領主ヘロデという人物が、自分にとって都合の悪いことを言われたため、洗礼者ヨハネを捕えた、ということになります。神様によって遣わされ、重要な役割を演じたヨハネが、このような命運を辿る。悲しむべきことです。ただ、ここでヨハネがヘロデを責めた、ということが気になります。このように「責める」というのはまさに律法の働きであって、ヨハネはやはり律法の世界に生きていた、ということがわかります。彼こそがメシアなのではないか、とまで受け止められ、人気を博した面もあるヨハネでしたが、その点では古い時代に属していて、やはりイエス様とは全く違った存在であったことがわかります。


そのようなタイミングで、イエス様は神の福音を宣べ伝えるのです。ここで「神の福音」と言われていますので、たんなる良い知らせ、ということを超えて、「神様由来の福音」であると理解できます。この福音書の冒頭で、「神の子イエス・キリスト」と明確に提示されたお方が、神の福音を語られたのです。


ここで、「福音とは」ということで、2つのことをお話ししておきたいと思います。ひとつには、福音とは「メシアによる罪の赦しと新しいいのちに関する神様の約束の実現」であると考えられます。メシアは罪の赦しと新しいいのちをもたらします。そのように、神様は約束しておられたのです。その約束が確かに実現したことを福音は告げるのです。第二に、福音とは「イエス様の教えと宣教、そのご生涯全体についての説明」でもあります。もちろんそれは十字架と復活によって頂点に達し、また集約されるのではありますが、非常に幅広く、イエス様がお教えになられたこと、イエス様がなさったこと・・・たとえばいやしや奇跡といったこと、更にはとにかくイエス様のご生涯全体含めて、それらのことを告げていくのが福音であって、その意味ではたいへんな広がりがあることになります。「神様の約束とイエス様に関するすべて」などと要約するにはあまりにも内容の深いものですが、ここではむしろ「神様の約束が成就した」という知らせの意味合いが強いと言えるかもしれません。


そして、イエス様の最初の宣教のことばはこうです。


「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。


マタイによる福音書では、このイエス様の宣教のことばは、洗礼者ヨハネのことばのエコーとなっております。マタイ3章2節に「悔い改めよ。天の国は近づいた」というヨハネのことばが記録されており、もう一方で同4章17節に、「イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」と記されております。


先ほど、洗礼者ヨハネは古い律法の時代に属している面があったとお話ししましたが、そのヨハネとイエス様が同じ言葉で宣教を始められたというのは、意外なことでもあります。イエス様は新しい、福音の世界を切り開くはずの方だからです。


その辺りの思いもあったからか、マルコによる福音書では洗礼者ヨハネの宣教のことばは触れられておらず、しかも、イエス様の宣教のことばも、マタイの記録よりもより充実しております。具体的には、「時は満ちた」という歴史観と、「福音を信じなさい」というメッセージが加わっています。イエス様について、ごく簡潔に書いていったのがマルコだと思われがちですが、実際はそうでもないようです。イエス様が言われた「時が満ちた」という言葉を記すことで、マルコは神様の約束の実現のダイナミックな側面を生き生きと描き出します。また、「福音を信じなさい」とのイエス様のことばを記録することで、私たち人間が何を信じるのか、明確にしたかったのではないでしょうか。


ここでは「悔い改めなさい」と「信じなさい」という2つの命令が並列で語られていますが、「悔い改めなさい」の方は、明らかに古い律法のメッセージに分類されるものです。


この「悔い改める」とは「神様の方に向き直す」ということであって、大事なメッセージですが、教会によってはたいへんな力点が置かれる場合もあります。クリスチャンになったばかりの学生の頃、親知らずを抜いてもらうために歯医者さんに行くのに、どうせだったらクリスチャンの歯医者がいい、と思って、その頃東京の方の大学に行ってましたけれども、大学に割と近いクリスチャンの歯医者を探し当て、そこに行って、タイミングを見て「私もクリスチャンです」と言ってみたことがあります。そうすると、女性の歯科医の方だったのですが、「あら、あなたも悔い改めなさったの?」と聞き返されて、驚きました。その方の信仰、あるいはその方の行っておられる教会の信仰においては、クリスチャンになるということは悔い改めることとイコールであるわけですね。私は福音を信じてクリスチャンになる、と思っていたので、その点で驚いたわけです。


重要度においてそのように違いこそあれど、重要な悔い改めの教え。しかし、それはあくまで古い律法の教えです。かと言って教会は軽視することなく、古い教えと新しい教えを両方扱うのが教会です。律法は罪の問題を扱い、福音が新しい神の恵みによるいのちについて扱う、と言い換えてもおかしくはないでしょう。


しかもここに、まず「悔い改め」が命じられ、そのあとに「福音を信じること」が命じられていることから、私たちの信仰生活において重要な「律法から福音へ」という順序が示されているとも受け取ることができます。私たちは悔い改めて私たちの古い罪の部分を処理し、なおかつ新たに福音を信じて、イエス様がもたらされる神の国の新しい世界へ向かうのです。


少し戻りますが、「神の国は近づいた」というメッセージも重要です。マタイによって記録されている、「天の国は近づいた」に相当する部分です。まさに、神の国が今ここに、とも言うべき、驚くほどの神の国の距離的な近さを表わしています。人間の世界の、どこか閉塞した、「この私を救うような方はおられるのだろうか」といった嘆きも聞かれそうな雰囲気が漂う中に、神の国がまるで突入してくるかのように、ここにきて急に速度を上げて、割って入ってくる。これは神様が人間の世界に関心を持ち、その中で起こっていることについて何とかしたい、例えば現在なら、過去の震災の記憶によって悲しみに閉じ込められている人、圧倒的な自然の力の前に倒れ伏してただただ恐れ、不安になっている人、目の前でたやすく人の命が奪われ、人生に重みを感じられない人の悩みに関わって解決したい、という、神様の介入の意志を示すものに他なりません。


そのように、圧倒的な勢いを持って、神の国が突入してくる。それは、これからイエス様の新しい教えや奇跡的なわざを通して神の国が地上に実現していくということです。そのような新しい世界が待っているから、単に悔い改めるだけでなく、新しい世界へ飛び込んでいく一つの段取りとして、「福音を信じる」ことが必要となってくる。それが、マルコが「福音を信じなさい」ということばを加えた理由の一つなのかもしれません。


今日は、15節まででだいぶ時間を取りました。ですが、16節以降も可能な限り少しふれておきたいと思います。


17節には、イエス様の宣教の言葉その二、とも受け取れることばが見られます。有名な、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」ということばです。これは、シモンとその兄弟アンデレという漁師たちをご覧になった時、イエス様が発せられた言葉でした。シモンはご存知の通り、ペトロのことです。


イエス様は、魚をとる漁師だった彼らを、人間をとる、すなわち人間をイエス様のもとに招く存在に育てようとしました。このようなイエス様の宣教は、当時のラビのやり方とは正反対でした。当時のラビ、すなわちユダヤ教の教師はと言えば、弟子たちによって選ばれる存在でした。そうではなくイエス様は、師が弟子を選び、招く、ということをなさいました。同じように人をご自身のもとに招くようにイエス様は望んでおられるのです。


このイエス様の招きを受けて、「二人はすぐに網を捨てて従った」(18節)とあります。マルコによる福音書は、キリスト教の迫害があり、イエス様のことを直接知る第一世代がいなくなってしまうのではないかという切迫感の中で書かれたと言われ、マルコの焦りが、「すぐに」という、20節にも「すぐに彼らをお呼びになった」というフレーズの中で用いられていることばに反映されているとも言われます。しかしここでは、それだけでなく、本当に即座に、ペトロたちはイエス様の招きに応じたのではないか、とも思われます。この即座の応答には、ペトロたちの信仰の姿勢もさることながら、イエス様の温かい声、招きも大きな要因としてあったことでしょう。加えて、彼らには、私の存在を認めていてくださる嬉しさ、すなわち、私がここにいる、ということをわかってもらっている、という思いがあったはずです。今週私たちも同じように、イエス様が私の存在を認めておられる、私がここにいる、ということを、イエス様は知っていてくださる、ということに、安心感を得て過ごします。大きな困難と壁を前にしたときに、人間がいかに小さな存在か。そのことを突きつけられ、やや自らの存在意義を見失いがちな現代人に、私のことを知っておられるイエス様がいてくださる、というこの事実は、それだけで十分、私たちにとって良い知らせ、福音となるのです。


次には、イエス様はゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネを「お呼びになった」とあります。これも、イエス様がふたりを招いておられる、ということの表れです。


このところからうかがい知ることができるのは、私たちの救いも、イエス様の側からの招きである、ということです。どうでしょう。思い出していただきたいのですが、自分自身のことを振り返ってみて、慎重に慎重を重ね、吟味しつくしてイエス様が救い主であるという結論に達し、洗礼を受けたのでしょうか。むしろ、イエス様の方が招いてくださったのではないでしょうか。また、このように礼拝に出席することは、今朝私が意志によって決めたことのようにも思えますが、実は礼拝もまた、イエス様の招きにあずかっていることなのです。今日私たちが神様からの素晴らしい恵み、私たちの思いをはるかに超えた慈しみを受けることができるように、この礼拝の場に、イエス様が招いていてくださるのです。


その招きを受けた私たちは、今度は人を招く存在になっていきます。イエス様の、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」といったイエス様の宣教のことばが、いつしか私のことばとなっていく。もちろん私たちは人間なのでこの通りのことばで言うわけではないにしても、イエス様の人を招く言葉を、自分のことばとしていくわけです。教会の暦を辿り、イエス様のご生涯を追体験していく中で、イエス様とお近づきになり、自分の人生とイエス様のご生涯を重ね合わせ、やがてはそのことばを自分のことばとして生きていくようになる私たち。そして、私が招かれた喜び、それが、今度は私が招く喜びに変えられていくのです。

  

お祈りしましょう。

天の父なる神様。

今朝の御言葉の時をありがとうございます。この前の1月17日であの阪神淡路大震災から29年となりましたが、変わらず慈しみとまことを私たちに示していてくださること、感謝いたします。

あなたがいつも福音によって私たちを招いていてくださることに感謝いたします。あなたに招かれた私たちが、今度は周りの人々をイエス様のもとに招く存在になることができますように。神の国は近づいたと、困難の中に生きる私たちに希望の光を与えてくださるあなたの慈しみのゆえに、あなたをほめたたえます。

たいへんな状況にある能登の大地震の被災地に、あなたの慈しみと憐れみが注がれますように。そして、「地には平和」とのみことばが、この世界に成就しますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・先週は今年最初の園田伝道所礼拝でした。来週は御影も園田も馬渕主事の説教です。橘内師は神学校後援会デーでコイノニア福音教会でのご奉仕です。





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