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執筆者の写真明裕 橘内

2024年1月14日 顕現後第二主日

聖書交読  詩編139編1~6節(旧約p979)

司)1:【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。

会)2:座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。

司)3:歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。

会)4:わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。

司)5:前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。

全)6:その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。



聖書朗読 ヨハネ1章43~51節(新約p165)

43:その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。

44:フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。

45:フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

46:するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。

47:イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

48:ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。

49:ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

50:イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」

51:更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」





説教 「イエス様に出会う」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


能登半島の大地震から2週間になります。1月17日になると阪神大震災から29年ということで、能登の地震の状況を見ながら、阪神大震災の頃のことを思い出している方も多いのではないでしょうか。皆さん含め多くの方々が、あのとき辛く悲しい時を経験しました。まさに、この先どうなっていくのだろう、もとの生活にいつ戻れるのだろうか、と不安に思われたことも多かったかと思います。能登の方の被災地の皆さんも、同じような思いをしておられることでしょう。なぜ私たちが今、という悲痛な問いも、発せられています。


気の持ちようや発想の転換などではとても追いつかない、言葉にも出せないような苦しみの中で、人々との温かいつながりによる支えも去ることながら、やはり私たちは御言葉を通して、慰めや励ましを受けてきたのではないでしょうか。今日も変わらず私たちは、御言葉に耳を傾けてまいります。本日はヨハネによる福音書から、フィリポとナタナエルがイエス様の弟子になっていく様子を見ています。


ここで私たちは、イエス様の声を聞きます。「わたしに従いなさい」。それはどのような響きだったのでしょうか。残念ながら文字しか残されていないので、そのニュアンスは伝えられていません。それは私たちの想像の領域を超えることはないのですが、聞く者の心をつかみ、絆とつながりを生み出す声であったに違いありません。このことばを掛けられたのは、フィリポという人物でした。きっと、この「わたしに従いなさい」という声を聴いたとき、私は受け入れられている、その存在を認められている、と感じたのではないでしょうか。


それ以上の何の説明も要らずに、フィリポはイエス様に従う者、すなわち弟子になっていきました。この短いことばが、彼の人生の方向性をすっかり変えたのです。それで一生後悔することはなかったことでしょう。私たちもまた、この言葉に応答するのです。能登の地震の悲惨さをつぶさに見、自らの震災体験を思い出して心痛めるその真っ只中で、できれば今はじっとしていたいと思うような心の状態であったとしても、この私に、イエス様の「わたしに従いなさい」ということばは、時空を超えて、迫ってきます。その回答を、明日に先延ばししないよう、願います。尊いイエス様から直接声を掛けていただいたとき、ためらいなく応答してイエス様についていったフィリポのように、今日私たちは、イエス様に従っていくのです。


このフィリポは、アンデレとペトロの町の出身だったと言われています。アンデレは先にイエス様に出会い、そのことに感動して兄弟シモン・ペトロをイエス様のもとに導きました。その信仰の姿を受け継ぎ、フィリポも同じようにイエス様のもとに人をお誘いしていきます。


その時のことばによると、フィリポは、イエス様に「わたしに従いなさい」と言われた出来事を、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」(45節)と受け取りました。救い主イエス様との出会いを経験したのです。その彼は、お話しましたように、同じ町出身のアンデレ同様、他の人にも、イエス様との出会いを経験するよう、勧めました。それで出会ったのが、ナタナエルでした。45節にある言葉は、ナタナエルにイエス様を紹介する時のことばだったのです。「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている」とは、今の私たちからすれば、「旧約聖書に記されている」という意味です。イエス様は旧約聖書から約束されていた方である、というのがフィリポの主張です。


更に、イエス様のことを「それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」とナタナエルに告げました。なぜフィリポはそこまで言ったのでしょうか。恐らくそれは、イエス様が旧約聖書にすでに約束されていた、人間を超えた存在であったことと、私たち人間と変わらない側面を持っていたことと、その両方を伝えたかったからだと思います。言い換えれば、イエス様は「私たちを超えた神であり、同時に私たちと同じ人である」ということです。私たちを救うには、私たちを超えた存在である必要がある。しかし、私たちと同じ姿であるからこそ、私たちのことをわかってくださる、ということです。


しかし、これは逆効果だったようで、ナタナエルは、イエス様を単なる人間と捉え、自分の持つ知識の中だけで、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ってしまいます。この当時、このような言い方がなされていたのでしょう。そこで、フィリポは「来て、見なさい」と、自分の目で確かめるように促します。


自分で見るように、というのは、とても大事な勧めです。私たちは、かつて誰かに、このように言ってもらったのです。だから、イエス様のもとに導かれて、イエス様に出会い、今の私があるのです。だから今度は、私たちが多くの人に、このように「来て、見なさい」と伝えるのです。


私たちは、ナタナエルの「ナザレから何か良いものが出るだろうか」ということばに満足できないのですが、彼は思ったままを述べたわけで、そういった意味では、ナタナエルは非常に素直ではありました。別に誰かにおもねり、思ってもいないようなことを口走ったりはしなかったのです。イエス様はそのようなナタナエルを高く評価しておられます。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(47節)とまで言っておられます。そのことばに、ナタナエルは驚きます。なぜこの人は、私のことを知っているのか。そこで、48節には、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と尋ねたことが記録されています。それに対するイエス様の答え、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」というのは、一種の予見の能力であって、ナタナエルを驚かせるのに十分でした。続く2章のカナの婚礼での奇跡、あの水をぶどう酒に変えた奇跡に先立つ、イエス様の神様としての不思議な力の表れです。


ナタナエルの驚きの声はこうです。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)。彼の驚きのことばに私たちは驚きます。短いにしても、とっさにこれだけのことばが出てくるということは、日頃から神の子の到来や、イスラエルの王の出現を待望していたとしか思えません。私たちだったら、これだけの信仰のことば、信仰の表明が口から出てくるのでしょうか。また、イエス様を「ラビ」、すなわち先生、と呼んでいることから、ナタナエルのうちに一瞬にしてイエス様への敬意が生まれたことがわかります。


ヨハネによる福音書は、イエス様が約束されたキリストであるということに関心があると言われます。フィリポがイエス様を旧約に約束された方(45節)と理解し、更にナタナエルが「神の子、イスラエルの王」と表明していくところに、そのことがよく表れています。


この信仰の表明に、イエス様は「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」とお答えになります。そこには、本当なら、見ないで信じたほうがいいのだが・・・というイエス様の思いが見え隠れしているようにも読み取れます。同じヨハネによる福音書において、ずっとあとですが、復活したイエス様が現れたことに対し、疑いの思いを表明するトマスへのことば、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20章29節)とのつながりも見えてきます。あなたのことを予見した、そのぐらいの小さなことであなたは驚いているが、本来ならもっと大きなことを見るようになるのだ、ということでしょうか。これは決して、叱責のことばではありません。ナタナエルよ、あなたはもっと偉大な神様の業を見るのにふさわしい存在なのだと、ナタナエルのことを認めていることばでもあるのです。私たちに対しても同じです。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」。これは、2024年を歩み始めたばかりの私たちを励ます、イエス様からのおことばです。どんな大きなことを、イエス様は私たちに見せてくださるのでしょうか。それを見るにはふさわしくない、弱い私たちをも認めて、偉大なる御業を表そうとしておられるイエス様をほめたたえます。


ナタナエルは、自分の知っていること、経験値の中に留まっていたら、イエス様に出会うことができませんでした。そのまま、「ナザレから何の良いものが出るか」と言い続けるだけでした。その、自ら設定した枠を打ち破って、「来て、見なさい」というフィリポの声に乗ってイエス様のもとにやってきたからこそ、イエス様との出逢いが実現したのです。私たちも、自分の限界に留まることをやめ、一歩踏み出してイエス様のもとにやって来たからこそ、イエス様にお出会いすることができました。その恵みを経験した私たちはまたフィリポのように、イエス様を紹介して生きるのです。


最後に、まだ今年2度目の礼拝ですから、今年の御言葉とそれに基づく目標を確認しておきましょう。今年の教会の御言葉は、詩編117:1~2、「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ」となっています。それに基づく今年のテーマは、「主の慈しみとまことをほめたたえよう」ということになっています。主の慈しみとまことは私たちを超えている。「ナザレから何の良いものも出るはずはない」と思っていたナタナエルの思いを遥かに超えて、イエス様は天からの存在なのに、ナザレ出身のイエス様、と呼ばれることにあえて甘んじて、ナザレから良いものが出た、救い主が現れた、とそのお姿を示してくださいました。この一年、私たちの思いを遥かに超えることが起こります。そのことを共に賛美しながら、一緒に歩んでまいりましょう。


お祈りしましょう。

天の父なる神様。

今日もあなたの前に出て、礼拝の恵みにあずかることが出来、感謝いたします。

人を救う神様の恵みが現れ、神の子イエス様が救い主として私たちのもとにきてくださり、感謝します。そのイエス様が、「わたしに従ってきなさい」と招いてくださっています。以前私たちは、自分の限られた知識の中で、「この理不尽な世の中に、救い主などいるものか」と諦めていましたが、「来て、見なさい」とのお勧めを受けて御前に出て、救い主イエス様との出逢いを経験することが出来ました。ありがとうございます。今度は私たちが、イエス様を多くの人々に紹介する者になれますように。あなたはもっと偉大なことを見るようになる、とまで約束していただいていますので、この2024年、さらなるあなたの偉大なみわざを見ながら、過ごすことが出来ますように、導いてください。

たいへんな状況にある能登の大地震の被災地に、あなたの慈しみと憐れみが注がれますように。そして、「地には平和」とのみことばが、この世界に成就しますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・先週が今年最初の礼拝の日でした。午後には昼食会があり、フェローシップMLCの交わり、そして役員会がありました。




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