2024年12月22日 クリスマス礼拝
- 明裕 橘内
- 2024年12月22日
- 読了時間: 13分
聖書交読 ミカ5章1~6節(旧約p1454)
司) 5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
会) 5:2 まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。
司) 5:3 彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。
会) 5:4 彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い/我々の城郭を踏みにじろうとしても/我々は彼らに立ち向かい/七人の牧者、八人の君主を立てる。
司) 5:5 彼らは剣をもってアッシリアの国を/抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い/我々の領土を踏みにじろうとしても/彼らが我々を救ってくれる。
全) 5:6 ヤコブの残りの者は/多くの民のただ中にいて/主から降りる露のよう/草の上に降る雨のようだ。彼らは人の力に望みをおかず/人の子らを頼りとしない。
聖書朗読 ルカ1章39~55節(新約p100)
1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
説教 「喜びおどるクリスマス」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
いよいよ今年2024年も、クリスマス礼拝を迎えました。ここまで神様が導いてくださって感謝します。クリスマスは年の瀬と重なっていますので、今年一年のことを振り返ることが多いと思いますが、皆さん、どんな一年だったでしょうか。今日はこのクリスマス礼拝において、マリアとエリサベトという、ふたりの女性の姿を見ています。
本日の福音書は、「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(39節)という言葉で始まります。マリアは天使から、不思議な受胎告知を受けました。同じように親類のエリサベトも不思議にも身ごもっていると知らされたことが、少し前の個所で分かります。36節に、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている」と、マリアに対する天使の言葉が記されています。それがあって、マリアは彼女のもとを訪れたのです。
これが神様の業であることは、単に「身ごもっている」というだけでなく、「男の子」と限定されていることからもわかります。神様が親類エリサベトになさったことを見てみたい。そのような思いがあったのではないでしょうか。普通であれば、今となってはどこかわからない、ユダの山里に行くのに急ぎ足ということはなかったでしょう。約4日の道のり、距離にして約160キロの長旅です。登り坂も多かったでしょうし、むしろ足が重くなることのほうが多かったのでは、と思います。しかも、山間の道は強盗も出没したでしょう。当時10代とも推測されるマリアが一人で向かうことはできないぐらいのたいへんな旅でした。しかし、それでもマリアが急ぎ足になっていたのは、喜びがあったからではないでしょうか。
そしてその喜びはエリサベトの胎内の子にも影響を与えました。だからこそ、マリアが挨拶した時、「その胎内の子がおどった」(41節)と言われているのです。
それを受けて、「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った」(41~42節)と記されています。聖霊に満たされたとは、神様からくる喜びに満たされた、というのとほとんど同じ意味であるとも言えるでしょう。喜びのあまり、「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」と高らかに宣言します。「あなた」はマリア、「胎内のお子さま」がのちのイエス様、ということになります。
エリサベトは、若きマリアを「わたしの主のお母さま」と呼んで尊敬しました。「わたしの主」が、おわかりのようにこれからお生まれになるイエス様のことです。エリサベトからしたら、本来なら私のほうが出向かなければならないのに、マリアのほうから来てくださるなんて感激だ、ということです。このように、自分よりもずっと若い女性を立てることができるのは、魅力的な性質です。どうでしょう、私たちはエリサベトのように、身を低くすることができているでしょうか。
さて、44節でエリサベトは、自分の口で、「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました」と言い表しています。41節にある、「その胎内の子がおどった」という、言ってみればナレーターの言葉を、「胎内の子は喜んでおどりました」(44節)と表現し直したのです。そのことを告げるエリサベト自身も、喜んで口を開きました。このように、本日、このクリスマス礼拝のテーマは「喜び」です。
この一年を振り返りますと、元旦から能登で大地震があり、その後も各地で災害の続いた日本でありました。国外を見ても、戦争や内乱の知らせに心痛めたことも多くありました。そのような中で、私たちは喜べるのか。その意味では、ただ能天気に「喜びましょう」ということを伝えたいわけではありません。特に今年、身内に悲しいことが起こった方々にとっては、クリスマスのテーマは喜びだ、と言われても、心に重くのしかかるだけ、ということもあるかもしれません。それでもなお、今日はこの福音書の個所に登場する人物たちの喜びに注目したいのです。
実は、山間の町に走ったマリアも、彼女を迎えたエリサベトも、楽天的に喜んでいただけではありませんでした。マリアは先ほども述べましたようにおそらく当時まだ10代で、10代前半だったかもしれません、それで、いきなり天使が現れ、「あなたは身ごもって男の子を産む」と言われる。それで、不安にならないはずはありませんでした。
エリサベトはと言うと、当時30代、あるいは40代だったかもしれません。人生100年と言われるような時代の3,40代と、古代ユダヤにおいて全体の平均寿命が35歳であった、また成人になった人で言うと、平均寿命は56歳ぐらいだった、という中での3,40代とでは、だいぶ違います。もう子を宿すとは思われていなかった、ということも、あながち間違いではないでしょう。そういった中で、年上だったかもしれない夫である祭司ザカリアは、神殿で幻を見たため口が利けないままでした。慰めのまなざしはあっても、言葉で励ましを受けることはできていませんでした。どちらかと言えばこれから死に向かっているほうが近い、という中で、それでも新しい命を授かったことに、彼女もまた不安を覚え、また葛藤を抱えていたはずです。そんな中、ひとりの親戚の女の子が訪ねてくる。老いを痛感せざるを得ない自らに対し、目の前に現れたのは、圧倒的な生命の輝きに満ちた、まさに「女の子」だったわけです。そこで、自らとの違いを痛感する、ということもあったかもしれません。
しかし、人間的に見ればその通りで、二人の不安と葛藤を抱えた女性の物語、ということで終わってしまってもおかしくなかったのに、神様の物語はそれで終わりません。二人ともに、その不安を乗り越える信仰と、神様しか与えることのできない喜びを与えてくださっていたのです。そしてまた、二人が直接出会うことが、お互いに慰めと励ましをもたらす結果となったのです。私たちも、私たちが抱える不安や悲しみを超えて喜びに至らせるのは信仰のみ、ということになるのです。
マリアもまた、神様を賛美する際に、「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と、「喜び」という言葉を使っています。その喜びの土台にあるのは、「幸せ」でした。エリサベトは、自分の主となられるイエス様の母が自分のところにわざわざ来てくださったということを、幸せだと感じました。そして、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」(45節)マリアのことを、「なんと幸いでしょう」と言いました。マリアはその幸せを胸に、神様をたたえたのでした。
その幸せは、神様が貧しい者を顧みてくださるという恵みと結びつきます。「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです」(48節)とマリアは歌います。身分が低いということは、貧しいということに直結していました。ルカは、福音書を通して、神様が貧しい者を顧みてくださる、ということを伝えようとしていた、と言われます。マリアの信仰は、このルカのテーマに合致していました。マリアは神様からの恵みを実感して、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と告白しています。この幸せこそが、マリアの心に喜びを生み出し、また、ユダの山間の町への道を急がせたのです。
この、「マグニフィカト」とも呼ばれて知られているマリアの賛歌は、その豊かな言葉遣いでも目を引きます。それは、神様のことをどう呼ぶか、というところにも表れています。彼女は、神様を「主」と呼び、またすぐに「救い主である神」と呼び換えます。また、49節では、「力ある方」と表現しています。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と歌っています。このような、力ある神様からの圧倒的な働きかけを受けるときに、人は語り出し、また、歌い出すのです。このマリアの賛歌が長い間人々の心に働きかけているとしたら、それは力ある神様のお働きによるものです。
私たちも同じです。この力ある神様からの働きかけがない時には、私たちは神様について、無口でした。何も語るものを持たなかったのです。しかし、私たちが、今年のみ言葉、「主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い」にあるように、とこしえに続き、私たちの想像をはるかに超えて力強い主の慈しみとまことを受ける時、私たちはこの力ある神様からの圧倒的な働きかけを受け、心には賛美が生まれ、「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ」との呼びかけに応答して、雄弁に語り出し、歌い出すのです。
この力ある方は、一方で主を畏れる者には憐れみを示しつつも、51節によると、「その腕で力を振る」うと言われ、その力強さを物語っています。そもそも、ここを見てみると、「力を振るい」、「打ち散らし」、「引き降ろ」すとあり、それは「荒々しい」と表現されてもおかしくありません。そのような姿を見てマリアが神様を賛美するとは、どういうことなのでしょうか。それは、誰に対して神様がそのようにしているか、というところにヒントがあります。
改めてこのところを読んでみると、神様はあくまで、「思い上がる者」を打ち散らし、「権力ある者」をその座から引き降ろす、と言われているのです。闇雲に力を振るわれるのではありません。しかも、「その腕で力を振る」うと、「腕」という言葉が使われているのは、この時代から1400年ほど前の、神様がその腕によってイスラエルの民をエジプトから脱出させられた、あの出エジプトの救いの奇跡を思わせるものです。この神様の猛々しさというのは、それによって救いをなす、という意味があったのです。主が力を振るい、打ち散らし、引き降ろすのは、弱い立場の人々を救うためでした。だから、マリアは歌い、神様をたたえたのです。
この神様は、いにしえのイスラエルを受け入れ、そしてまた、困難な現代に生きる私たちをも、受け入れてくださいます。多様性の時代に、それゆえに自分を見失い、誰もが何らかの意味で自分探しをしつつも、どこか自分を受け入れきれない、「私はこれでいいのか」という問いばかりが生まれてくる中で、先に神様が、私たちを包み込み、受け入れていてくださることに、一安心したいものです。
「憐れみ」とは、一言で言えば、神様が親切だ、ということです。悲惨な状態で苦しんでいる人々を助けたい、と強く思う気持ちを持っておられる、それが神様だ、ということなのです。年末に差し掛かり、この一年を振り返ることも多いことでしょう。そのようなとき、「割と放っておかれたなあ」と思うでしょうか。人がどんなにあなたを放っておいたとしても、神様だけは、あなたを決して放っておくようなことはありません。人間に期待しすぎると、そもそも私たちの周囲の人々は、私を満足させようとしている人ばかりではないわけですから、十分にしてもらえなかったとか、それこそ放っておかれたとか、そんな失望ばかりです。しかし、神様に目を止めるなら、この方が私たちを決して放っておかない、ということが、よくわかります。今年私たちが受けた、大きな恵みのことを思い起こしましょう。神様が私たちを放っておくような方だとしたら、どうして今年、私たちには園田伝道所の新しい会堂が与えられたのでしょうか。この奇跡こそ、神様がちゃんと私たちのことを見ていてくださる、わかっていてくださる、ということの表れなのではないでしょうか。このことを思うときに、私たちにもマリア同様、歌が生まれます。
この憐れみは、とこしえまで続きます。先ほどご紹介した今年のみ言葉にも、同じ「とこしえ」という言葉が見られます。私たちはもっと、この「とこしえ」ということに敏感でありたいと思います。私たちでは実現できないけれど、私たちが切望するとこしえ、すなわち永遠、ということ。このクリスマスに、私たちはこの永遠、ということを垣間見ます。どんなに楽しい食事の時も、どんなに私たちを異世界に連れ出して楽しませた映画の時間も、連続ドラマも、やがて終わります。そこに私たちは一抹の寂寥感を覚えるのです。「それが詫びさびというものだ」などという言葉では片づけられない寂しさです。そのような私たちの有限の世界に、無限の世界が飛び込んできた。これが、神様の世界です。神様の国、と言ってもいいでしょう。それは、まさにこのクリスマスに、ひとり子イエス様がこの世界に来てくださった、それがスタートでした。世の人にまったく注目されない、小さな小さなスタートではありましたが、やがてそれは大きくなり、多くの人の心をとらえ、そこに明るい光をともしてきました。それは、マリアとエリサベトの心を満たした喜びとつながるもので、私たちもそれによって明るく照らされ、心に喜びをいただく者となったのです。何しろエリサベトの胎内の子、もちろんのちの洗礼者ヨハネですが、彼は生まれる前から、喜びおどっていました。それに倣い、私たちも救い主イエス様が来られたことを喜び、喜びおどるほどでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の父なる神様。あなたがこのクリスマスに、私たちのためにひとり子イエス様をこの世に送ってくださり、感謝します。そのことで、暗闇の世界に光がともり、喜びが生まれました。マリアが自らの幸せを感じて喜び、エリサベトも喜び、また胎内の洗礼者ヨハネも喜びおどった、と言われるように、私たちもまた、困難多きこの世の旅路ではありますが、喜びながら、喜びおどりながら、過ごすことができるように、信仰を増し加えてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
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・本日は御影、園田でクリスマス礼拝です。クリスマス愛餐会があります。24日火曜日午後7時からは御影でクリスマスイブ燭火礼拝です。

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