2024年12月1日 待降節第一主日
- 明裕 橘内
- 2024年12月1日
- 読了時間: 15分
聖書交読 エレミヤ33章14~18節(旧約p1241)
司) 33:14 見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。
会) 33:15 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。
司) 33:16 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。
会) 33:17 主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない。
全) 33:18 レビ人である祭司のためにも、わたしの前に動物や穀物を供えて焼き、いけにえをささげる者はいつまでも絶えることがない。」
聖書朗読 ルカ21章25~36節(新約p152)
21:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
21:29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。
21:30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。
21:31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
21:32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
21:33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
21:34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
21:35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
説教 「解放の時は近い」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日から待降節、すなわちアドベントに入りました。教会の暦では新しい一年の始まりの時です。この時期は、イエス様が将来再び到来されること、すなわち再臨のことにも思いを馳せます。それは、もともと「アドベント」が「到来」という意味を持っているからです。今日の福音書の箇所は、まさにその再臨のことを取り扱っています。
この前の部分には、エルサレムの滅亡の予告があります。「エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」(24節)とまで言われています。それがあって、本日の箇所となります。この部分からは、エルサレム崩壊についてと言うより、イエス様の二度目の到来、再臨への言及となっているようです。
25,26節は旧約聖書を背景とするような終末の表現になっています。一言で言えば天変地異ということになります。まず、「太陽と月と星に徴が現れる」と25節冒頭にあり、26節は、「天体が揺り動かされるからである」ということばで終わっています。
古代の人々は、星を、霊的な力であると考えたり、地上の諸国にたとえたりしたと言われます。ですから、星を観察していて、何らかのことで星の光が弱まるようなことがあれば、霊的な力が弱まる、ということを当時は意味していました。また、ある特定の星の光が弱くなれば、それに結び付けられて考えられていたある国が衰える、と考えられていたようです。25,26節では、特に、神様に背く地上の諸国や霊的な力を、神様が揺るがされることを表しています。
今、古代の人々は、ということでお話ししましたが、私たちはどうでしょうか。星に、何か霊的な力を感じたりしていないでしょうか。美しいのは確かです。それを見て、天地万物を造られた偉大なる神様を感じることもあるでしょう。しかし、星自体が素晴らしい、それに力がある、となってしまうと、間違った方に行ってしまいます。注意が必要です。
さて、ここに表れているような、苦難と恐怖の只中に、人の子キリストは来られるのです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と27節で言われている通りです。世界が進歩して神の国が来るのではありません。むしろ、ここに見られるのは混乱です。ここでは、終末は人間の手によってもたらされるのではなく、むしろ神様のわざであることが示されています。ここも、少しだけ立ち止まって、確認しておきましょう。私たちの内に、これから世界はどんどん発展していって、便利になっていく一方だ、という思いがあるでしょうか。それは、幻影にすぎないかもしれません。私たちは、便利になった代わりに、多くの物を失いました。高度に技術化され、かつて時間がかかっていたものが、あっというまに処理されていくようになって、私たちの心は穏やかになったのでしょうか。いや、ますます、ちょっとのことでも待てないような、そんなせっかちな心になっていないでしょうか。19世紀末のユートピア思想の後、20世紀に二度の世界大戦を経験し、世界は、人間が理想郷を地上に造り出すことができないことを痛みをもって学びました。輝かしい21世紀も、その始まりにあったのはあの恐ろしい対米同時多発テロでした。月並みな表現かもしれませんが、世界はますます混迷へと向かっているようにさえ見えます。しかし、その世界に神様が確かにおられて、終末の時へと、世の中を動かしておられるのです。そして、その終末の時に、イエス様は再び到来されるのです。
「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい」(28節)とありますが、まずここでわかりますのは、「太陽と月と星に徴が現れ」(25節)てもすぐには世の終わりが来ないということです。「このようなことが起こり始めたら」という表現には、ある程度の時間の経過が感じられるからです。
このような徴が天に現れても、恐れるのではなく、むしろ希望を持つように、ということが教えられています。「身を起こして頭を上げなさい」とは、「そのようにして、希望を抱きなさい」という意味です。ああもう世も終わりだ、と嘆いてうつむくのではありません。さあ皆さん、今この時も、身を起こして頭を上げましょう。何しろ、「あなたがたの解放の時が近い」(28節)と言われているからです。
この「解放の時」とは、別訳では「救い」また「贖い」と訳されています。何と、福音書の中では、この箇所にしか現れない言葉です。それだけ特別な言葉、ということですね。基本的には、身代金が支払われて解放される、という意味です。この場合では、イエス様の再臨による、苦しみからの解放と救いの完成を意味していると言われます。私たちはまさにこの時を、待ち望むのです。
再臨について、27節では「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と描いています。これは、ダニエル7章13、14節の預言によるものです。このように書かれています。
7:13 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
7:14 権威、威光、王権を受けた。
遠い世の終わりのことが、すでに旧約聖書において預言されていた。そのことに、驚きを覚えます。ダニエル書で「人の子」のような者、と言われていたのはイエス様である、と明らかにされました。ルカは、この人の子イエス様が「大いなる力と栄光を帯びて」雲に乗って来ると描いています。このことによって、再臨のイエス様が力を帯びた王である、と表そうとしたのではないでしょうか。イエス様は一度、赤ちゃんの姿で、自分からは何もできず、人からお世話してもらわないといけない姿でこの世に来られました。今度はイエス様は王として、再び来られるのです。
続いてイエス様は、「いちじくの木」のたとえをお話しになります。徴を見て再臨の近いのを悟る、というテーマになります。いちじくは、夏が近づくと芽を出す植物です。ですから、「葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる」とのイエス様のことばどおり、夏の近づいたことを知る徴となります。ですから、同じように、天変地異とそれによる混乱といった、25,26節に記されているようなことが起こり始めたら、神の国が近づいている、すなわちイエス様の再臨が近いことを悟ることができる、とイエス様は教えてくださっているのです。
このことからすると、自然界は間接的に、神様のみ旨を教えている、ということにもなります。ただそれは、あくまで間接的なことです。自然界イコール神の啓示、ということになってしまうと、行き過ぎ、ということになりますので注意いたしましょう。
神の国が近づいている、ということは、さきほどさらっと、イエス様の再臨が近い、と言い換えております。神の国とは、イエス様が王である国のことです。再臨のイエス様は王である、と先程述べました。どうでしょうか。この神の国の接近、再臨の迫りというものに、皆さんは敏感でしょうか。私たちは、ぜひこの神の国が近づいていること、そして王であるイエス様の再臨が近いことに敏感でありたいと思います。それこそが、再臨を待ち望むことにつながるからです。私たちは、気になるものが近づくのにはたいへん敏感です。関心がない者が近づこうと何だろうと、あまり気にしません。皆さんは、イエス様にお会いしたいでしょうか。もしその問いに対して、「どうだろう。あまりピンとこないけれど」ということだったら、どこかでずれてきてしまっているのかもしれません。私たちをこよなく愛し、その救いのためだったら命だって投げ出して十字架にまでかかるようなイエス様。この方による救いに感謝する時に、この方についてもっと知りたいという関心も高まります。そして、それはお会いしたい、という思いへとつながり、ひいては再臨の希望へと向かっていくのです。
続く32節の「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」とは何と力強い言葉であることか。「はっきり言っておく」と訳されている部分のもとの言葉は「アーメン」です。イエス様は、「アーメン。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」と言っておられるのです。「確かに言うけれども」、というような訳でも良いかと思います。「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」。これは、私たちに対する良い知らせです。あっという間に世の混乱が起こって、物事の結末もじっくり見ないうちにすべてが滅びる、というのでは、私たちには何の希望もありません。しかし、私たちにはまだ、事の成り行きを見届ける時が残されているのです。だから、その意味では、何も浮足立って焦る必要はないし、希望を失う必要もないのです。
そして、もっと確かなことに、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とまで、イエス様ははっきりと約束しておられます。これを聞いた時の、イエス様の弟子たちが受けたインパクトを想像してみたいのです。自分たちと同じ、人間の姿をしている一人の存在が、突然「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言う。しかし、それは決して、人間ごときが言えるような言葉ではない。それを、権威をもって語られるイエス様。その姿と言葉に、圧倒されるような思いだったのではないでしょうか。そして、そこからくる安心感。この方に任せておけば、たとえ天地が滅びるような大混乱が起こったとしても、平安の中にいることができるのではないか、揺るがされることがないのではないか、という感覚です。どうでしょうか。今年の夏の異常な暑さ、頻発する地震、終わりの見えない戦争。そういったことで、今私たちは簡単に、「世も末だ」と嘆くことができる時代に生きています。その中で、私たちはそれに流されて、どこか不安を抱えながら生きるのか、大船に乗ったような気持ちで、安心して生きるのか。今日私たちの前には、2つの道があるのです。ひとつは、ただただ世の末だと嘆き、世の混乱の中に埋没して平安を失って生きる道。もうひとつは、そのような中でも、決して滅びないというイエス様のことばにすがって、そこから平安をいただいて生きる道。さあ、私たちはどちらに進むのでしょうか。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と断言されるイエス様に従って、従うゆえの平安、というものを心にいただいて、人生の歩みを続けたいものです。何しろ、私たちの解放の日は近いのですから。
さあ、それでは最後、新共同訳では「目を覚ましていなさい」と小見出しの付いている部分を読んでいきましょう。
34節は、信仰者であっても好き勝手に振舞っていたら、終末の日は思いがけない時に来る、ということを、私たちに告げています。特に「放縦や深酒や生活の煩い」と言われるものは、終末的な神様の審判を否定する時代精神を表わしていると言われます。神様を否定しているわけではないでしょう。救いというものを、ありがたいと思っているかもしれません。しかし、その現実認識は、「終末など、ずっと先だ」と思っているのであり、場合によっては、「どうせそうは言っても、本当は来ないんじゃないか。このままの生活を続けていても、何ら差し支えないのではないか」と思っていたりするのです。その世界が、どうせそのままずっと続くのだ、という現実認識には、落とし穴があります。神様はそのようには、世界を作ってはおられません。創世記の最初に記されているような世の初めがあるのであれば、それはその時点ですでに終わりに向かって進んでいるのであり、何れは終わりが来るのです。これは神様が世界を作り、世界を始められたとする、神様を視野に入れた世界観、あるいは歴史観です。このままの世界が、このままずっと続くとは、平和な世の中に見えて、その方がいいように感じられるかもしれませんが、実は神様抜きの世界観なのです。
イエス様は、「注意しなさい」とおっしゃいます。これは、イエス様の愛情からくる言葉です。だいたい私たちは、「あれに注意しなさい、これに注意しなさい」とガミガミ言われるのは好きではありません。好きにさせてよ、と言いたくなるものです。しかし、イエス様は本当に私たちのことを思っておられ、私たちが神の国に入ることができるように、世の惑わしには注意せよ、とおっしゃるのです。
「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」と35節で言われて、誰がそこから逃れられるのか、と思うのは自然のことです。しかし、続く36節では、「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と驚くべきことが語られているのです。一方では、終わりの日の恐怖はすべての人々を襲う、と言われている。にもかかわらず、もう一方で、「すべてのことから逃れる」という可能性が、語られているのです。ここにも私たちは、良い知らせ、福音を聞き取るのです。これは、イエス様の愛から来ることです。本当は、イエス様は私たちが苦しみに遭うことなど、望んでおられないのです。だから、そこから逃れる道をご用意くださっているのです。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(第一コリント10:13)と御言葉にある通りです。
そして、その逃れる道とは、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」という御言葉に示されています。人の子は再臨のイエス様のこと。そして、王であるとともに、ここでは裁判官であるようにも描かれています。そのような方の前に立つとは、背筋の伸びるような思いがいたします。その裁判官のようでもある再臨のイエス様は、私たちを裁くのではありません。私たちを見るなり、私たちがその十字架の血によって罪が赦された存在であることに気づかれます。そして、「よくやった。忠実な良い僕だ」とお声をかけてくださり、私たちを神の国に招き入れてくださるのです。そうなるよう、「いつも目を覚まして祈る」ことを、イエス様はお勧めになります。祈りは、願っていることをかなえていただくためだけでなく、私たちが神の国に入ることに関して、大事です。「いつも目を覚まして」祈るとは、できるだけ祈りの機会を多く持つ、ということでもあります。昨日土曜日も、午後4時からの祈祷会において、本日の礼拝の祝福を祈りました。また教会の兄弟姉妹の祝福を祈りました。祈祷会に出席して自らを祈りの場に置くことは、いつも目を覚まして祈ることの第一歩です。祈祷会に出席いたしましょう。
今日は待降節、すなわちアドベントの第一主日に、アドベントが持つ「到来」という意味から、むしろイエス様の再臨のことについて、福音書からお話ししてきました。天変地異などによる混乱と恐怖の中に世の終わりが来るという表現がありましたが、信じる私たちにとっては、終わりの時は恐怖ではありません。それは、イエス様が再臨なさる時であって、イエス様とお出会いできる喜びの時だからです。それを、本日の聖書箇所は「解放の時」と表現しています。私たちの解放の時は近い。この世に身を置く者として、様々なしがらみや束縛のうちに歩んでおりますけれども、そこからの究極的な解放が、実現するのです。それに向けて希望を持って、心の中に常に「解放の時は近い」と言い聞かせて、イエス様を見上げていきましょう。
お祈りいたします。
天地を造られ、世界を治めておられる全能の神様。今朝もこのみことばの時をありがとうございます。あなたは、この終末を感じさせる時代においても、「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」と約束してくださり、私たちが手を付けていることを、落ち着いて仕上げる時を与えていてくださることに感謝いたします。そしてまた、たとえ天地が滅びようとも、決して滅びないイエス様のことばを、私たちに与えてくださいました。それを聞いて喜び、希望を持ってイエス様を見上げ、その再臨の時を待ち望むことができますように。それが実現する、解放の時が近いと聞きました。ますます希望を持って歩めるように、私たちを助けてください。また、目を覚まして祈る私たちの祈りを強めてください。戦争や自然災害をはじめ、様々な生きにくさを抱えながら生きる現代人を顧み、解放の時を与えてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日は礼拝の中で聖餐式があり、礼拝後昼食会があります。その後役員会となります。

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