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2024年12月15日 待降節第三主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2024年12月15日
  • 読了時間: 15分

聖書交読 ゼファニヤ3章14~20節(旧約p1474)

司) 3:14 娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

会) 3:15 主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。

司) 3:16 その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな/力なく手を垂れるな。

会) 3:17 お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」

司) 3:18 わたしは/祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ/お前の重い恥となっていた。

会) 3:19 見よ、そのときわたしは/お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い/追いやられていた者を集め/彼らが恥を受けていたすべての国で/彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。

全) 3:20 そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で/お前たちの繁栄を回復するとき/わたしは、地上のすべての民の中で/お前たちに誉れを与え、名をあげさせると/主は言われる。


聖書朗読 ルカ3章7~18節(新約p105)

 3:7 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。

 3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

 3:9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

 3:10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。

 3:11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。

 3:12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。

 3:13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。

 3:14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

 3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。

 3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

 3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 3:18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。


説教 「ヨハネが告げたのは何か」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


先週はファン先生の説教でした。研修の一環として行われましたが、主の恵みがあり、無事終えられましたことを感謝します。ファン先生、ありがとうございました。先生は、待降節にふさわしく、洗礼者ヨハネについて語ってくださいました。今週も洗礼者ヨハネについての福音書の箇所が選ばれています。特にそのメッセージが記されています。彼が語ったことは何だったのか、一緒に探ってまいりましょう。


まず7節には、ヨハネに洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆がいたことが記されています。マタイによる福音書では、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から」(マタイ3章5節)、大勢の人々が集まったように記しています。その中には、「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢」(同7節)含まれていました。のちにイエス様に対抗していく勢力です。特に、ファリサイ派と言えば、律法に従っている自分たちを清いと自負するような人々でした。私たちは、せっかく大勢の人々が来てくれているのに、なぜヨハネは「蝮の子らよ」などと厳しい言い方をしているのかと心配になります。しかしそれは、その中に大勢ファリサイ派の人々が含まれていた、という事情があったからだったのです。


ヨハネは、「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と続けます。これは、「差し迫った神の怒りを免れることができるなどと、だれも教えてはいない」という意味です。神様の怒りは差し迫っていて実に現実的であり、それはだれにも避けられない、ということです。これは、現代人にいちばん欠けている感覚、と言ってもいいでしょう。


私たちも、本来であれば、絶対的な価値基準を持った神様から見て、ふさわしい存在ではありません。むしろ神様の怒りにふさわしいような存在です。その自覚があるからこそ、私たちはイエス様の十字架による救いによりすがるのです。救いの喜びがない、と言うのであれば、それはこの神様の差し迫った怒りという感覚に乏しいからです。だから、救いの必要性もあまり感じないし、「あなたは救われたのですよ」と言われても、「はあ、そうなんですね」ぐらいで実感がない、ということになるのです。神様に目を開いていただき、自らの悲惨な状態に対して鋭敏な感覚をいただく時に、私たちはいかに自分たちが、神様の怒りにふさわしい存在であるかがわかります。そしてその時初めて、そこから救われることがどんなに大きな恵みであるかに気づくのです。


さて、ヨハネの勧めは実にシンプルで、明確です。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(8節)。コンプライアンスにうるさく、また、何でもハラスメントと言われてしまう現代において、ここまではっきりしたメッセージを聞くことができるでしょうか。これは、「悔い改めます」と言いながら、その実何も生活が変わっていない人が当時多かった、ということを示しています。すなわち、「悔い改めにふさわしい実」を結んでいなかったのです。具体的な悔い改めの実については、11節以降で具体的に語られています。ここでは、悔い改めの実を結ぶことの大事さが言われています。具体的には、生活が変わる、ということです。皆さん、いかがですか。耳が痛い、ということがもしかしてあるかもしれません。「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」とヨハネは厳しく言っています。今ではパワハラだとも言われかねない言葉ですが、「ユダヤ人だから大丈夫」などと思ってはいけない、ということです。私たちに置き換えれば、「クリスチャンだから大丈夫」と安穏としているうちに、私たちの救いは決して変わりませんけれども、本来は受け取るはずだった恵みをずいぶん受け取り損ねてしまっているかもしれない、ということでしょうか。


9節の「斧は既に木の根元に置かれている」とは、どういう意味でしょうか。それは、裁きの時が今にも来ようとしている、という意味です。そして、当時ヨハネが思い描いていた裁きとは、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」ということだったのです。


このことについて、今イエス様のうちにある私たちは、何も恐れる必要はありません。私の中で、実を結ばない部分は神様が剪定してくださる。そして、もっと実を結ぶことができるようにしてくださる、とも読めるからです。しかし、ヨハネの当時の人々には、これは相当の恐怖だったのではないでしょうか。ここでは、「火に投げ込まれる」と、ヨハネの宣教に特徴的な「炎」のモチーフが使われています。それによって、恐怖感、あるいは切迫感が増しているのです。


その切迫感から、思わず群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねています。そして、11節からの、悔い改めにふさわしい実についての教えに続いていきます。


この、「わたしたちはどうすればよいのですか」という問いかけは、代々の聖徒たちが、その霊的危機において、切迫感をもってまさに神様の前に出て問いかけた問いでありました。私たちも、神様の前でこのように叫んだときがあったのではないでしょうか。これはまさに、生死を分けるような、真剣な問いです。それに対して私たちには、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16章31節)と、鮮やかに救いの道が開かれたのですから、大いに神様に感謝します。


さて、ではヨハネの当時に戻り、この時のヨハネの、悔い改めにふさわしい実についての説教に目を留めましょう。まずは群衆一般に向けて、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と勧めます。多くの人々が貧困にあえいでいたこの当時、この「分ける」という行為は実に重要だったと言われます。


しかし何も、「分ける」という行為は、西暦1世紀のパレスチナにだけ重要だったのではありません。分断と格差の現代において、人々の間のつながりは希薄になってきていると指摘されています。物価高や増税で負担感が増す中で、誰もが自分のことで精一杯、というような世の中になりつつあるのかもしれません。そのような中では、私たちの間でも、「分ける」ということは同じように愛の行為にほかならないのです。


次にはヨハネは、徴税人たちに語ります。まずは、ヨハネの前に、徴税人たちが洗礼を受けようとして集まって来ていた、ということに、喜びを覚えたいと思います。ご存知のように、ローマの手先のように思われていた徴税人たちは、あまり好まれるような存在ではありませんでした。彼らの自己意識はどのようなものだったかと、いろいろと考えてしまいます。自分たちがあまり好かれていないこと、気付かない程彼らが厚顔無恥であったなどとは、とても思えません。そのことでひねくれて、神などいない、と言って神様を否定してしまってもおかしくなかったと思うのです。しかし、どこかに神様を求める思いを残している者たちもいた。その人々が、ここにヨハネの前に出てきたのでしょう。


彼らに対するヨハネの教えはこうです。「規定以上のものは取り立てるな」。何と簡潔であり、それでいて必要十分な勧めでしょうか。ヨハネは、徴税人たちについて、よく知っていました。ここに、語る者がその対象についてよく知っている必要がある、という重大な真理があります。ヨハネは彼らについてよく知っていたからこそ、的確に、「規定以上のものは取り立てるな」と答えることができたのです。その言葉が、今はやりのことばで言えば「刺さった」からこそ、彼らはそれ以上問うことはなかったのです。


最後に、ヨハネは兵士たちにも語っています。それは彼らが、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたからです。今、まさに差し迫った神様の怒りを現実のものとして真正面から受け止めた彼らは、普段とはだいぶ様子が変わっています。普段であれば、彼らは確信を持って、国のために戦う人々なのです。ですが、この時は、自分が何によって立てばいいのか、わからない状態になっていたようです。もう、私はどうしたらよいのか。どうでしょう。私たちも、そのような問いを発したことがあるのではないでしょうか。「私はどうすればよいのか」。その兵士たちに、ヨハネはこう勧めます。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」。最後の「自分の給料で満足せよ」という一言がたいへん印象的です。


この「満足する」ということ。人類は古くから、これに悩み、戦ってきた、と言っても言い過ぎではないでしょう。創世記11章のバベルの塔のエピソードは、大きく言えば、この「満足する」ということができなかった人間たちの物語だったのではないでしょうか。人間たちのあくなき欲求を前に、十戒においては、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト20:17)と、「欲してはならない」という戒めを二度も重ねて言われなければならない程でした。新約では、「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」(Ⅰテモテ6章6節)と教えられ、満ち足りることが重要だとされています。そのように言われていてもなお、満足することは難しい。それはパウロが、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」(ローマ7章7節)と言うように、自らの罪について語る時に「むさぼり」で代表させていることでも、その深刻さは現れているように思えます。


私たちの主イエス様を十字架まで追いやったのは何の罪だったのか。皆さん、それはまさに私たちの中のどす黒い、この「満足しない」という罪だったのです。まさにこの罪にがんじがらめになっている私たち人間のために、イエス様はこの世に来てくださった。それがクリスマスだったのです。


ところで、ここで言われている「兵士」はユダヤ人だったのでしょうか、それとも駐留しているローマ人だったのでしょうか。ここだけでは何とも判断しかねます。もしローマ兵だったとしたら、ヨハネの名声は、異邦人にまで及んでいた、ということになります。ただ、ガリラヤの領主だったヘロデ・アンティパスも軍隊を持っていた、ローマはそのことを限定的に認めていた、とも言われます。そうなると、ユダヤ人の兵士だった、ということになります。徴税人と並んで出てくるところからすると、ユダヤ兵だったと考えた方が自然です。ただ、ルカが異邦人も視野に入れて福音書を書いていたとなると、ローマ兵のことだったかもしれません。そして、ローマ兵は、イエス様の十字架の場面にも居合わせたのでした。


さて、このように、ヨハネは聞き手の立場に応じて、メッセージを語っています。それを聞いて、民衆はヨハネがメシアなのではないか、と思うようになります。それだけメシアを待ち望んでいたからです。


そこで、彼は16,17節に記されたメッセージを語ったのです。一言で言えば、その内容は「私はメシアではない」ということを伝えようとしたものでした。それだけでなく、「私よりも後に来る方が、私よりも優れている」ということを伝えようとしたのです。もちろん、その方とはイエス様のことでした。


「美しい二番手、謙遜な一番手」と言われることがあります。美しい二番手とは、もちろんイエス様のことです。私たちの罪を赦して汚れを清めてくださる素晴らしい救い主は、私たちにとって美しい、麗しい方です。そして、謙遜な一番手が、この洗礼者ヨハネです。「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と、自らを低くすることができた、謙遜な存在でした。この当時、「履物」はサンダルのようなもので、ひもが付いていました。それを縛って履くわけですが、ひもを解くのは召使いの仕事でした。ですから、私は召使いがする仕事にすらふさわしくない存在だ、とヨハネは告白したわけです。一番手がここまでの告白をするとは、相当なことです。一番手として、私が先に来たのだから価値があるのだ、と言ってしまってもよかったのです。しかし、彼はそれをしなかった。それは、後から来る方をお遣わしになった偉大なるお方を信じていたからです。


ここで、神様を信じる人の性質、その特徴をうかがい知ることができます。神様を信じる人こそ、謙遜な人です。彼は、神様が自分よりも優れた人をいくらでも世にお遣わしになっていることを知っています。その意味では、喜んで二番手、三番手になれる、ということです。他人が気になって仕方ない人、自分はひとかどの人物だと信じて疑わない人、自分はあの人よりは上だと、誰かより上であるということに存在意義を見いだしている人は、一度歩みを止めて、落ち着いて神様との関係を見直してみる必要があるでしょう。洗礼者ヨハネのように、他者を自らよりも優れている、と告白できるようになれば、もう安心です。


さて、その後、18節に記されているのは、「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」ということです。このみことばに驚きます。それは、普段私たちは、ヨハネが語ったのは福音ではなくむしろ律法だと思っているからです。先に触れたように、8節の彼のことばには、「悔い改めにふさわしい実を結べ」という勧めがありました。これは明確に私たち人間に対する要求ですから、本来であれば律法であるわけです。そのようなヨハネのことばが、どうして福音なのでしょうか。それは、メシアを待望する民衆に、神の国の到来を告げたからなのではないでしょうか。


その意味で、ここでは福音を、「神の国について告げる知らせ」と解釈したいと思います。思い出してみれば、マタイはヨハネの宣教の言葉の第一声として、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と記しているのです。天の国とは、神の国のことです。ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」というメッセージを語るうえで、「分けよ、取るな、満足せよ」と倫理を語ったように見えます。しかし、それはあえて言えば「神の国の倫理」とも言うべきものでした。悔い改めにふさわしい実が実り、「分けよ、取るな、満足せよ」といった具体的な指示が実現していく世界は、あたかも神様のご支配が地上で実現したかのようなものだったのでしょう。この神様のご支配というのが、すなわち神の国、ということなのです。ですから、たとえ厳しい言葉であっても、それは、民衆に神の国、すなわち神のご支配が自分たちの人生に割って入ってきたことを告げるものであったので、その意味で、福音、すなわち良い知らせであったのです。


この、ヨハネが福音を告げた、という視点は、ヨハネの正しい評価につながります。イエス様の道備えという割には、厳しい倫理的なことばかり語った、という見方では、彼の正当な評価にはならない、とルカは考えたのではないでしょうか。確かに、彼のメッセージは、律法の重荷からの解放、という意味での福音とは少し趣が異なってはおりました。しかし、福音の「神の国の到来を告げる」という機能からすれば、彼のメッセージは具体的な生活において神様のご支配、すなわち神の国が私たちのもとにやって来ることを強く促したわけですから、その意味ではまさに福音でした。ヨハネが告げた福音にあるように、まさに神の国は私たちのもとに到来し、私たちの生活は一変し、神様は近い、という現実の中に胸躍らせながら、私たちは生きるのです。


お祈りいたします。

天の父なる神様。あなたがひとり子なる御子を私たちにお遣わしになるほどに私たちを愛し、大切に思っていてくださることに改めて感謝いたします。確かに洗礼者ヨハネのことばは火が出るほど激しいものでしたが、それが描き出す世界は御国の倫理の実現であり、まさに神の国の到来を告げるものでした。その意味では彼の告げたのはまさに福音であって、私たちもその同じ福音を信じ、神の国が近づいたというリアリティーのもとに、わくわくするような高揚感を持って、信仰の道のりを進んでおります。その私たちを守り、ついには天の本当の故郷に至る日まで、導いてください。それに至るには困難が尽きないものではありますが、その中でも主の慈しみとまことをいただき、主を賛美して歩み続ける者でありますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・来週がいよいよクリスマス礼拝です。御影と園田、両方で行われます。24日(火)は午後7時からイブの燭火礼拝です。








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