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執筆者の写真明裕 橘内

2024年11月3日 全聖徒主日


聖書交読 黙示録21章1~6節(477)

司)21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。

会) 21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

司) 21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、

会) 21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

司) 21:5 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

全) 21:6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 


聖書朗読 イザヤ書25章6〜10節(1098)

 25:6 万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

 25:7 主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし

 25:8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。

 25:9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。

 25:10 主の御手はこの山の上にとどまる。



説教 「涙をぬぐい去ってくださる神」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日は、教会の暦で言うと全聖徒主日です。教会では、すでに天に召された方々のことを「召天者」とお呼びしていますが、今は天におられるその召天者の方々も、地上に残る私たちも、皆一緒に礼拝をささげる日、という意味合いがあります。そのような機会に、先に天に召された召天者の方々のことをしのび、召天者記念礼拝を持つことが多く、私たちの教会も、今日はそのように、召天者記念礼拝として、礼拝の時を持っております。礼拝の流れに特別なものはありませんが、いつもと違いますのは、礼拝堂に召天者の方々のお写真を飾っていることです。今までこの教会でご葬儀をなさった方々や、教会員の皆様のご家族などのお写真をお持ちいただいております。礼拝の後にでも、お写真を前に召天者をしのんでご歓談いただくこともできます。


この召天者記念礼拝にあたり、ルーテル教会の聖書日課から、旧約聖書の箇所をお開きいただいております。皆さんは、どのような神様のイメージを持っておられるでしょうか。本日の聖書の言葉には、聖書に記された神様の姿が描かれています。まずは少しずつ、本日開いた聖書の言葉を味わってまいりましょう。


本日は召天者記念礼拝で、亡くなられた方々を悼む時であり、祝宴とは程遠い時ではありますが、本日の聖書箇所の冒頭、イザヤ書の25章6節という所には、「万軍の主」と表現された神様が、「祝宴を開く」と記されています。この部分は、幕開けの音楽のようなもので、これから重要な主題に入って行く上で、喜びの雰囲気を醸し出す役割を演じています。続く主要な部分では、私たちにとって実に喜ばしいことが語られる。だから、その前に、その雰囲気作りをしているのです。その祝宴においては、神様は「すべての民に良い肉と古い酒を供される」とあります。その肉と酒とは、「脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒」と言い換えられており、最上の食卓を持って、神様は私たち人間をもてなしてくださることが言い表されています。


本来であるならば、私たち人間の方が、神様をもてなすために、食卓を用意するのが本筋でしょう。洋の東西を問わず、神様の前にお供え物をする、ということがなされます。もてなすのは、人間の役割のはずです。それなのに、ここでは逆で、神様の方が私たちをもてなしてくださる。すでにここには、神様が両手を広げて、私たちを慰めよう、という思いが伝わってくるようです。


 そして、25章の7,8節が、ひとつづきとなって、聖書に記された神様の慰めに満ちた姿が描かれています。ここに描かれた神様のイメージは、皆さんの持つ神様のイメージと同じでしたでしょうか、それとも、異なっていましたでしょうか。


どんなにすばらしい発明があり、世の中が便利になっていっても、「死」というものを滅ぼすことはできずにきました。しかし、「主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる」(7,8節)と確かに約束しておられます。ここで「主」と言われているのは、聖書に記された、私たちの神様のことです。この神様が、死を永久に滅ぼしてくださる、というのです。


「すべての民の顔を包んでいた布」とは、死の悲しみに向き合ったときにかぶるものでした。神様は、死の悲しみも、また死自体をも、滅ぼしてくださるのです。しかも、永久に滅ぼしてくださるので、二度と私たちを苦しめることはありません。


そのことがあるからこそ、神様は、すべての顔から涙をぬぐい去ってくださるのです。神様は、死が引き起こす悲しみがどんなに大きなものか、よくご存知でした。ですからこそ、ご自分の持つ慈しみを存分に注いで、慰めてくださるのです。私たちは今まで、私たちを苦しめる死というものが滅ぼされるなど、考えもしませんでした。しかし主の慈しみとまことははるかに私たちの想像を超えていて、死も、それに伴う悲しみも、滅ぼしてくださるのです。だからこそ私たちは神様に感謝し、心から賛美するのです。


このように、私たちが不安に思い、またそれによって立ち直れないほどの深い悲しみに陥る死というものが滅ぼされるというのはまことに私たちにとっての良い知らせです。このように、聖書は、旧約聖書においても、新約聖書においても、私たち人間に良い知らせ、福音を伝えています。そして、すでに前の所で、「祝宴」のイメージによって、喜びの雰囲気が漂っていましたが、この「神様が死を永久に滅ぼされる」という良い知らせ、福音によって、私たちの喜びは頂点に達します。この召天者記念礼拝において、死が永久に滅ぼされたという知らせを聞くことは大きな喜びであり、このような喜びであれば、何ら不謹慎なことはありません。むしろ召天者の方々も、地上に残る私たちが、実は神様によって死の力は打ち破られたのだ、と心に確信を持ち、周りの方々を手を取り合い、「死はすでに滅ぼされたのだ」とお互い語り合って慰め、励まし合って立ち上がることを、望んでおられるのではないでしょうか。


見落としがちですが、8節という所の終わりに、さりげなく「これは主が語られたことである」というフレーズが置かれていることには、大きな意味があると思います。過去の偉人、賢人が、その思索、思想の産物として、「こうであろう」と残した言葉ではないのです。これは、「主」と呼ばれる神様ご自身が、私たち人間に向けて、親しく語りかけられた言葉なのです。私は個人的に、主が「語ってくださった」ということに、感謝をしています。主は、はっきりと言葉で、語ってくださったのです。だから、その言葉が聖書として残っています。そして、それを私たちは読み、理解することができます。神様が、ただそのお心の中で思っているだけ、ということであるなら、私たちはそれを「察する」ということになるでしょうか。この「察する」というのはまことに厄介で、そうであるかも知れないし、そうでないかも知れない。私は、神様のお心のうちを正しく察することができるかどうか、自信がありません。その点、聖書の神様は、はっきり語ってくださいます。そこで、私たちは、確かに、この神様によって死という悲しみをもたらすものが永久に滅ぼされることを、そして、どんなに私たちの両目が悲しみの涙にくれることがあっても、それを拭い去ってくださる、という神様の温かさ、優しさを、誤解することなく、知ることができるのです。これはまことに、ありがたいことです。


この感謝と喜びが極まって、思わず人は言うのです。「この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」。これは、単に浮ついた心ではありません。長らく人間を恐怖で支配し、暗闇に閉じ込めてきた死というものが打ち破られたのです。その知らせを聞き、悲しみにふさがれていたところから、再び立ち上がることができた。その喜びの声なのです。「この方こそわたしたちの神」。私たちの目から涙をぬぐい去ってくださる神様こそが、私たちの神様なのです。短い言葉ではありますが、ここに、神様と人間の深いつながり、間柄が示されているように、私はこの聖書の言葉を読んでおります。


そして、この喜びの声は、続けてこう言うのです。「わたしたちは待ち望んでいた」。欲しかった商品を注文し、それが届くのをワクワクしながら、今か今かと待つ気持。誰もが経験しているものかと思います。それを想像していただければ、この聖書の言葉が、また少し身近になるのではないでしょうか。私たちは、誰かを今、待ち望んでいるでしょうか。また、私たちは、待ち望むのであれば、誰を待ち望むでしょうか。恐らく、いつも私たちの言動に目を光らせ、何かと小言を言うような人を、私たちは待ち望まないことでしょう。それとは反対に、たとえ言葉数は少なくとも、私たちがいちばん望んでいることをはっきりと語ってくれるような存在を、私たちは待ち望むのではないでしょうか。もちろん、日本においては死はタブーとされていますから、普段から私たちは、表立って死ということを考えているわけではないかもしれません。ですから、日頃から、死という恐怖からの解放を、強く願っているわけではないかもしれない。でも、それは表面上のことであって、自分でも気づかない、魂の奥底では、切望、と言ってもいいほど、自分を死から救い出す存在を、待ち望んでいるのではないでしょうか。


この、「待ち望む」という日本語、私は好きです。待つだけでなく、望んでいる。それほど、期待する心が強い、そのような感じがいたします。そして、「この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」と続きます。この神様が、私たちのために永久に死を滅ぼしてくださった。これは、私たちにとって「救い」としか言いようのない、大きな恵みです。このことは、私たちの救い主イエス・キリストが、十字架で命を捨てても見事に復活され、死の力を打ち破られたことで、具体的に実現しました。神様は口だけではなく、実際にそのひとり子イエス様によって、ご自分の言われたことを、実現してくださったのです。私たちは、このイエス様を「この方の十字架こそが、死を打ち破ったのだ」と信じるだけで、救われるのです。この方を知って、心は喜び踊るのです。


さて、今日は礼拝の冒頭の交読文、司会者と聖書の言葉を読み交わす時に、新約聖書のいちばん最後、ヨハネの黙示録の中にある、天国のイメージを語る箇所を読みました。お気づきかと思いますが、その時にも、私たちの目の涙をぬぐい去ってくださる神様の温かさにふれておりました。もう一度、思い起こしてみましょう。


黙21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、

21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」


この中の、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」というフレーズは、この部分を書いたとされるヨハネが、先ほど来開いていますイザヤ書の25:8にある「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい・・・」ということばから感銘を受け、それに触発され、引用してきたものでしょう。そのように、本日開きましたイザヤ書の言葉は、新約聖書にも影響を与えている言葉であることが分かります。


実はこの交読文で読んだ箇所について、もうひとつお伝えしておきたいことがございます。それは、神様はなぜ、死を滅ぼすことができるか、ということに関係する、と言っても差し支えないでしょう。黙示録の21:5をもう一度お読みします。


黙21:5 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。


神様は、万物を新しくする、と言われました。その時同時に、死によって悲しむ世界は、それは古い世界である、と宣言されたも同じなのです。これから、万物を新しくする、と宣言される神様によって、新しい時代が来る。そこでは、もはや死というものはなく、それによって人間が悲しみに暮れ、涙を流す、ということはないのです。もうそのようなことは起こりえないのです。そのように、世界を一新される神様だからこそ、死を滅ぼし、私たちの目の涙を拭い去ることができるのです。


最後、イザヤ書の方に戻りましょう。25:10は、先ほどまでの喜びの爆発と比べればやや控えめに、「主の御手はこの山の上にとどまる」と告げています。現代において、この「山」とはどこなのでしょうか。それは、「教会」とも言えるかも知れません。神様が祝福をお与えになるその手は、教会の上に置かれている。その祝福、それに触れれば、私たちの目の涙もぬぐい去られるというその恵みにあずかるためにも、私たちは教会に留まるのです。


今日は、神様のイメージとして、「涙を拭い去ってくださる神様」という姿をご紹介してまいりました。そもそも私は泣かない、ということもあるかも知れません。それぞれの文化、風習があります。しかし、実際に涙は流れないにしても、深い寂寥感にさいなまれ、大事な人と別れて孤独感が深まるその時に、神様が優しい手を差し伸べ、心に触れて下さり、豊かに慰めてくださることも、言い換えれば「涙をぬぐい去ってくださる」ということと同じなのではないでしょうか。召天者記念礼拝にお集いになられた皆さんに、神様からの豊かな慰めがありますように。


お祈りします。

天の父なる神様。あなたの与えてくださる大いなる慰めに、心から感謝します。あなたは、先に天に召された召天者の方々の人生を導き、そして今、天の所でくつろがせてくださっています。私たちは、地上における別れのゆえに悲しみの涙にくれるものですが、その私たちの目の涙を、あなたはことごとくぬぐい去ってくださると約束してくださいました。あなたの慈しみとまことのゆえに、あなたを賛美いたします。今、心に寂しさや悲しみを覚えておられる方々に、主の慰めが届きますように。私たちも召天者の方々の歩みに倣い、この地上での人生の終わりには、天に招き入れられますように。

救い主イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン


報告

・本日は全聖徒主日で、召天者記念礼拝です。午後1時から、住吉霊園教団納骨堂前にて墓前礼拝があります。そのあと2時から役員会です。





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