top of page
執筆者の写真明裕 橘内

2024年11月24日 聖霊降臨後最終主日



聖書交読 詩編93編(旧約p931)

司) 93:1 主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。

会) 93:2 御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。

司) 93:3 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。

会) 93:4 大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。

全) 93:5 主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。

 

聖書朗読 ヨハネ18章33~37節(新約p205)

 18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。

 18:34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

 18:35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

 18:36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

 18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 

説教 「この世に属していない国とその王について」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

教会は、6月から、聖霊降臨後の、典礼色が緑の季節を過ごしてまいりました。本日は教会の暦では聖霊降臨後最終主日ですが、同時に「永遠の王キリスト」を覚える日でもあります。ですので、本日はイエス様が王であるように描かれている福音書の箇所が選ばれています。日本において、私たちは王を持たない者であり、王という存在をイメージしにくいかもしれません。しかし、本日の聖書の箇所にイエス様がどのように描かれているか、一緒に探ってまいりましょう。

 

開かれましたのは、イエス様が、当時のユダヤの総督であったピラトの尋問を受けている場面です。このピラトは、先ほどもご一緒に唱和した使徒信条に登場する、あのポンテオ・ピラトです。時はイエス様の十字架直前。ユダヤ人たちはイエス様を何とか死に渡そうと躍起になっています。その異様な光景の中で、ピラトは何とか自分がこのことに巻き込まれないで済むようにしています。今日開いた少し前、31節では、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と突っぱねています。

 

普段だったら、それで終わりなのです。もともとユダヤ人と総督ピラトは仲が良かったわけではないのですから。しかし、今回は違います。「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言って食い下がるのです。この当時、ユダヤ人たちに認められていたのは石打ち刑で、正式には死刑執行の権威は認められていませんでした。そして、ローマの定める死刑は、十字架でした。ユダヤ人たちは、何とかしてイエス様を十字架にかけようとした、ということになります。そして、32節によると、イエス様が十字架で命を落とされることは、何と神様のご計画でした。

 

そのように、何とかイエス様を十字架刑に、という圧力の下で、ピラトの尋問は始まります。彼はイエス様を呼び出し、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねました。この質問は、本当の意味で、イエス様が王であるのかどうか、知ろうとするものではありませんでした。単に手続き上、イエス様がユダヤ人の王なのかどうなのか、白黒付けたかっただけだったのです。ですから、その意味では、イエス様が「自称ユダヤ人の王」であってもよかったのです。ピラトとしては、イエス様がローマに対する反逆罪にあたるような意味での「王」であるのかが問題でした。ですから、もしそうでなければ、また「あなたがたが自分たちの律法で裁きなさい」と突き返せばいい、ぐらいに考えていたのでした。ピラトの関心は、あくまで政治的なことでした。自分がローマ帝国から派遣された総督である時に、厄介な政治犯が、ローマに対する反逆など企てないように、ということだったのでしょう。もし、ユダヤ人が、自分たちの宗教上のことでイエス様を訴えているにすぎないなら、そのことにはかかわりを持たない、という姿勢であったわけです。

 

そのような姿勢は、イエス様を訴えるユダヤ人たちにも伝わっていたのでしょう。ですから彼らは、自分たちがイエス様を、宗教上罪に問われる存在として訴えても、効果がないことはわかっていたようです。だから彼らは、あたかもイエス様がローマに反逆を試みる王であるかのように訴えて、ピラトに反逆罪で処罰させようとしたのです。

 

このような思惑によって、イエス様は訴えられ、十字架刑が求められました。何とも悲しいことですが、そのような悪い思惑が、イエス様の十字架によって私たち人類を救おうとする神様のご計画へとつながっていく。これは不思議なことです。

 

私たちの人生に置き換えて考えてみましょう。私たちが経験する悪であったり、不幸であったり、突発的な出来事であったり、そういったマイナスのものが、実は最終的に、私たちを益である方向に導く。このようなことがないでしょうか。私のごく小さな経験では、私は第一志望の音大に落ちたからこそ、第二志望の音大に行って、近くの教会に通うようになりました。第一志望に落ちたことはまことに不幸なことでした。しかし、神様はそれを益に変えてくださり、私をイエス様へと導いてくださったのです。まさにローマの信徒への手紙8章28節で、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と言われている通りです。

 

まずこれは、イエス様の体験でした。神様の尊いご計画によってこの世に遣わされたイエス様は、悪い思惑でユダヤ人たちに訴えられ、十字架刑へと追いやられました。それは本当に心が痛むことでした。しかしそれを通して神様は、私たちすべてのために救いの道を開いてくださったのです。そのように、益となるようにしてくださったのです。

 

イエス様は、「お前がユダヤ人の王なのか」とピラトに尋ねられても、関心があるのはローマに対する反逆を企んでいるのかどうかだけ、ということに気づいておられました。それを見てイエス様は、ご自分から王であるとはおっしゃっておられません。それで、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と、逆にピラトに尋ねておられます。

 

すると、ピラトはこう言い返します。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」。ここでとにかくピラトは、自分は関係がない、ということを言おうとしているのです。「わたしはユダヤ人なのか」という突き放すような言い方で、それがよくわかります。私はユダヤ人ではない。ローマ人なのだ。その私が、あなたがユダヤ人の王なのかどうか、わかるわけがないではないか。とにかく、あなたの同胞や祭司長たちが訴えてきたのだ。だから、私は今、こうやって裁きをしてやっているのだ、というのが彼の言い分でした。訴えてきたのはあなたたちの側だ、と主張して、極力かかわりを持たないようにする。その無関心は、「いったい何をしたのか」という問いにも表れています。そう改めて尋ねなければならないほど、ピラトはイエス様のことを何も知らなかったのでした。

 

イエス様はいったい何をしたのか。私たちは、それを知っています。イエス様は町々村々を回って、神の国は近づいたと、神の国の良い知らせ、すなわち福音を広めておられました。また、人々の悲しみに寄り添い、彼らの友となり、病をいやし、悪霊を追い出していたのです。これは、福音書が私たちに告げていることです。人々の目に隠された秘伝ではありませんでした。知ろうと思えば、ピラトだって知ることができたはずです。しかし、ピラトは「いったい何をしたのか」と尋ねる。ここにピラトの無関心がよく表れています。

 

そのような、ご自分について無関心であるピラトに対して、イエス様はご自分から、王であるとはおっしゃいません。ですが、36節では、「わたしの国は、この世には属していない」と繰り返し明言しておられます。これは、イエス様の国はこの世のものではない、ということを表しています。王でなくても「わたしの国」とは言えますが、この時は、王が「わたしの国」と言っているように聞こえたのでしょう。

 

それを聞いてピラトは「それでは、やはり王なのか」とたたみかけますが、イエス様の答えは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」というものでした。直訳すると「あなたが、わたしが王だと言っている」となります。これでは、「その通り、わたしは王なのだ」とおっしゃっておられるのか、それとも「それはあなたが言っているだけのことで、本当はそうではない」とおっしゃりたかったのか、わかりません。新改訳は、「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです」と、イエス様がご自身を王であると認めておられるように訳しています。私たちが使っている新共同訳の翻訳は、先ほどもお読みしましたように、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」となっています。これだと、単にそれはあなたが言っていることに過ぎない、というようなニュアンスです。ピラトの無関心に対して、あくまで真理を語るのを差し控えるイエス様の姿がうかがわれます。無関心なあなたには、私からははっきりと王であるとは語りませんよ、ということなのでしょう。

 

ですが、このように、ご自身が王であることをピラトには明らかになさらないものの、イエス様が王であることは確かです。イエス様の国はこの世に属してはおらず、イエス様はその国の王であられるのです。ですから、この意味では、「イエス様は単にユダヤ人の王ではない」ということになります。ピラトが「お前がユダヤ人の王なのか」と質問したことに、イエス様が明確にお答えにならなかったことも、わかるような気がします。イエス様の国は、この世のものではない。そういうことであれば、「イエス様はユダヤ人の王」という言い方は、ふさわしくないことになります。

 

イエス様の国は、この世のものではない。これは、私たちにとってどんな知らせでしょうか。この世の国と言えば、例えばピラトが属していたローマであるとか、彼が支配していたユダヤでありました。ユダヤのことを考えてみましょう。そこには、本来であればユダヤ人の国なのに、別の国であるローマがやってきて、いわば乗っ取っている、というような現実がありました。人々は重税に苦しんでおり、ローマ兵の横暴さに辟易していました。その政策はローマ本位のもので、そこに住むユダヤ人のことなど考えてはいませんでした。多くの人々が貧困に悩んでいたのに、その解決はなされませんでした。ですから、そのように、この世の国の横暴さや稚拙さに悩む人々には、イエス様の国がこの世に属していない、ということは、良い知らせにほかならなかったのです。

 

それでは、イエス様の国は、何に属しているのでしょうか。イエス様のことばからすると、イエス様の国は真理に属している、ということになるのではないでしょうか。ですから、そうしますと、イエス様の国は、土地や空間に縛られない、どこまでも広がりのある世界、と言うことができます。あるいは精神的な世界、と言うこともできるでしょう。またある人は、それは霊的に広がりを見せる世界だ、とも言うでしょう。

 

イエス様の国が、この世に属していない、と言う時点で、この国は国土というものと無関係な国である、ということが分かります。ですから、どんどん進んでいったらいつの間にか国の外に出てしまっていた、ということは起こり得ません。イエス様の国が真理に属している、ということは、真理が広く行き渡っているところ、それがイエス様の国、ということになります。また、同じヨハネによる福音書では、8章32節に、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」というイエス様のことばが記されています。そのように、真理によって自由へと解放された世界、そこが、イエス様の国であるわけです。

 

真理を知らない時、人は暗闇に閉じ込められます。病の原因となるものが知られていなかった時代には、病は祟りや神罰のように捉えられて人々をがんじがらめにしていたものです。しかし、病原菌など、病の原因が分かるにつれ、人々は闇雲に病を恐れるのではなく、正しく恐れることができるようになっていきました。少し前に私たちを悩ませたコロナも同じです。コロナについてまだあまり知られていなかったときは、人々は噂などに惑わされ、かなりそれに束縛されました。しかし、段々コロナウィルスについてわかってくることで、人々は正しくコロナを恐れるようになっていきました。それと同じように、真理であるイエス様が来られる前は、私たちは自分がいかに神様に愛されているか、わかりませんでした。それで自分たちの価値が分からず、暗闇に閉じ込められていた私たちが、イエス様によって神様の愛という真理を教えられた時、暗闇から解放され、私たちは自由にされたのです。それによって、私たちは手足を伸ばして、のびのびとこの世で生きることができるようになったのです。そのように、真理によって自由にされた人々のうちに、限りなく、この真理の国は広がっています。

 

また、真理の言葉と言えば、神様の言葉である聖書の御言葉です。ですから、この真理の御言葉が広がっている世界こそ、真理に属しているイエス様の国であることにもなります。私たちは、世界中に、この真理の言葉を掲げて日々歩む信仰者たちを発見します。ですから、この国は、まさに国境を超えているのです。あの国でも、この国でも、多くの人々が真理の御言葉に出会い、それによって自由にされて解放され、喜んでイエス様を信じて毎日を送っている。それを知ることは、私たちにとって大きな励みです。

 

イエス様は、まさにこの真理を証言するために、この世に来てくださいました。私たちが神様によって導かれて、このイエス様を通して真理に属するなら、王であるイエス様のことばをいつも聞くことができるのです。

 

では最後、イエス様が王であることについて考えて、終わりにしたいと思います。王とは、何なのでしょうか。王を持たない私たちには、少しイメージしにくいかもしれません。王であるとは、リーダーである、ということなのでしょうか。

 

その前に、そもそも今までお話ししてきた「国」について、ひとこと加えなければなりません。私たち日本人は、「国」と言う時に、そこに王や皇帝のような強力な元首がいるようには想像せず、国民の集合体のように考えるかもしれません。しかし実は、本日の聖書箇所に出てくる「国」は、直訳すれば「王国」となるような、王がいることが前提となるような国の形態を表しているのです。もっと言えば、「王権」「王政」といった意味も兼ね備えています。そして、「国」と「王」は、もとのことばでは、語尾がちょっと違うぐらいの、とても形の良く似た単語なのです。これは、新約聖書のギリシア語だけでなく、旧約聖書のヘブル語でも同じようなことが言えます。そうしますと、ある意味で、王は国にはなくてならない存在、ということになるかもしれません。単にリーダーということではないようです。王権という言葉からしても、もっと権威ある存在のように思われます。

 

この世の国では、王はその権威を振りかざして、ほしいままに振舞います。しかし、この世に属さない国の王であるイエス様は、そうではありません。イエス様はもちろん王としてすべての権威、権能を持っておられますが、イエス様はそれを、神の国の広がりのためにお使いになられるのです。マタイによる福音書の最後で、イエス様はこう言われました。少し長いですが、ここにご紹介します。

 

” イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」”(マタイ28章18~20節)

 

イエス様は権威を振りかざして私たちを圧倒するのではなく、私たちに近寄って来てくださる方です。また、すべての民をイエス様の弟子とし、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受け、クリスチャンとして教え育てることを、その権能によってお命じになるのです。これはまさに、神の国が広まることをイエス様が願っておられる証拠です。すべての権威を、イエス様はそのためにお使いになるのです。そして、神の国の拡大を妨げる悪霊をその権威によって追い出し、私たちにも同じ権威を与えて、悪霊を追い出し、神の国の拡大を図るように促すのです。そして何よりも、この王は、世の終わりまで、いつも私たちと共にいると、約束してくださっているのです。

 

私たちには、このような王がおられます。そして、私たちはこの方の、まさにこの世に属するのではない、真理の国に迎えられています。そこで私たちは、現実の国で傷つき、つまずいた傷がいやされ、真理によって解放されて心晴れ晴れとなり、福音を伝えて神の国がますます広がるのを夢見るのです。

 

お祈りいたしましょう。

天の神様。あなたのお名前を賛美します。私たちのために、救い主イエス様をこの世にお遣わしくださり、感謝します。私たちが、この世のものでない、イエス様の国に属していること、感謝いたします。私たちは真理の御言葉によってその国に迎え入れられ、イエス様の語られる真理によって解放され、自由を得る者とされました。イエス様はその真理の国において王であられ、私たちと共にいて、私たちを祝福してくださり、親しく導いてくださいます。そして、万事を益と変えてくださり、私たちを慰め、励ましてくださいます。ありがとうございます。これからも、私たちはこの世にあって、様々な生きにくさを抱えながら生きていくのですが、この世にあるようで、実はこの世のものではないイエス様の国に属しているのですから、安心して、すっかりイエス様にお任せして歩むことができるように導いてください。世界中の困難の中に生きる人々にあなたの御手が届き、「地には平和」とのあなたの御言葉が実現しますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・先週はフェローシップMLCの交わりがありました。本日は午後に三浦綾子読書会があります。



閲覧数:9回0件のコメント

Comments


bottom of page