top of page
執筆者の写真明裕 橘内

2024年11月10日 聖霊降臨後第25主日

聖書交読 詩編146編(旧約p986)

司) 146:1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。

会) 146:2 命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。

司) 146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。

会) 146:4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。

司) 146:5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人

会) 146:6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は

司) 146:7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち

会) 146:8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し

司) 146:9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。

全) 146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。


聖書朗読 マルコ12章38〜44節(新約p88)

 12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、

 12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、

 12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

 12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

 12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

 12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」


説教 「すべてをささげる信仰」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日も共に福音書の御言葉を開いております。わかりやすい、ふたつのエピソードで構成されている部分です。


38~40節では、律法学者が非難されていますが、40節に印象的な「見せかけの長い祈り」ということばがあるように、そこでは律法学者の信仰が「見せかけ」の信仰であったことが暗示されています。それに対して、41節以降の「やもめの献金」のエピソードにおいては、見せかけの信仰とは反対に、真剣な信仰の姿が描かれています。それぞれのエピソードについて、そこに書かれていることをもう少し掘り下げて詳しく見ていき、更に、そこに込められたメッセージを探っていきたいと思います。


新共同訳では、小見出しがありまして、本日の箇所に関しては、まず「律法学者を非難する」とありますから、内容がつかみやすいと思います。ここではイエス様が、律法学者を非難しています。律法学者の多くはファリサイ派に属していました。ですから、イエス様のファリサイ派への非難と共通するところがあるかと思います。また、彼らがファリサイ派であったということは、同時に彼らは信徒であった、すなわち、祭司のような職業的な宗教家ではなかった、ということがわかります。律法学者は、有名なところでは今で言う旧約聖書のエズラが知られていますが、彼の場合は旧約聖書に記された律法について詳しく、それを朗読し、解説することができる人物でした。イエス様の当時の律法学者も、そのような面も持ってはいたでしょうが、いつしか旧約聖書に書かれた律法だけではなく、口伝えで伝承されてきた様々な教えも「律法である」ということで、それを守るように教え、要求していたようです。その面では、当時の人々にとっては、律法学者とは自分たちに様々な要求をしてくる、煙たい存在であったかもしれません。


その律法学者たちが、立派な人格を持ち、自分よりも他人を優先して生きていれば、また違っていたでしょう。しかし、イエス様当時の彼らの姿は、イエス様が彼らを非難することばの中に、よく描かれています。それをもう一度確認してみましょう。少し長いですが、38節から40節に、その姿が記されています。


「彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、

 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、

  また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」


彼らは長い衣をまとって歩き回り、目立つことを好んでいました。またそれゆえに、人から無視されるのは我慢ならなかったのです。広場で挨拶されるのは当たり前、ユダヤ教の会堂に入ったら、大歓迎されて自分は上席に案内されて当然、会堂どころか、宴会の席でも、「まあまあ律法学者様、どうぞこちらへ」と、上座に座ることが当然、という態度でした。ここまで目立ちたがり屋で、人から認められるのが大好きだった律法学者たち。そこには、なぜ私たちが祭司と区別され、分けられてしまわなければならないのか、私たちだって熱心だし、律法に関しては優れているのだ、それを認めてほしい、という承認欲求が背景としてあったのかもしれません。


目立ちたがり屋であることは、その背景のことも考えると仕方がないとしましょう。ですが、「やもめの家を食い物にする」のはいただけません。それで尊敬を得られないのは当然です。私はもてなされて当然の存在だ、という尊大さがあったのでしょうか。そして、彼らの信仰が見せかけのものだったのではないか、ということを暗示する「見せかけの長い祈りをする」。祈りが長いのが良くない、ということではありません。それがイエス様によると「見せかけの」祈りだったのが問題だったのです。


私たちの外側の様子は、私たちの内側がどうか、ということに関係があります。もし私たちが、この律法学者たちと同じように、人から認められることばかり追い求め、権利ばかり主張し、見せかけの信仰しか持っていないとしたら、そのような、外側に出てくる部分の内側に、何か問題があるはずです。つい人と比べてしまう。自分の今置かれた立場に何かと不満がある。背伸びして、自分を高く、大きく見せようとする。そういった、私たちの内側の部分を、神様に取り扱っていただく必要を、この箇所は私たちに教えています。


私たちがイエス様に出会うことによって、私たちの側の工夫や努力なしに、一気に変えられていく部分ももちろんあります。しかし残念ながら、私たちの心には罪と悪に向かう傾向があるのです。だから、妬んだり、認められないと切望したり、本当の自分はこうではない、もっと優れているのだ、と見せかけの姿をつくり出そうとしたりする古い部分が、残ってしまうことがあるのです。だから、私たちが定期的に、みことばを聞く必要があるのです。たえず律法によって私たちの本当の姿が示され、そして、良い知らせ、福音を聞いて、そのような姿でしかない私たちも、神様の愛から引き離されてはいない、ということを絶えず確認するのです。


認められたい、という心には、イエス様が寄り添ってくださり、イエス様が認めてくださいます。両手を広げて十字架にかかるほどの愛を、イエス様は存分に注いでくださり、「ほかの誰があなたを認めなかったとしても、私はあなたのことを認めているよ」と諭してくださいます。また、どうしても自分を大きく見せたいという心には、イエス様がいかにご自分を低くされたか、そのお姿を優しく示してくださり、低くあることの意味、そして、小さくてもいいのだ、ということを、教えてくださるのです。


イエス様は、ここで律法学者を非難しておられながらも、否定はしておられません。彼らがいない方がいい、とは思っておられないはずです。もし彼らが心を変えられてイエス様に向かうなら、イエス様は喜んで彼らを迎え入れ、今述べたように、彼らがあるがままに生きることができるよう、何くれとなくご配慮くださるはずです。


とは言うものの、実際それよりも、イエス様は、ご自分の教えを聞く人々が、この律法学者たちの姿によって、魂に悪影響を受けないよう、強く願っておられました。それが、「律法学者に気をつけなさい」という38節のことばによく表れています。律法学者たちに対する慈しみは保ったままでしたが、それでも、彼らによって教えを聞く大勢の群衆たちが、彼らと一緒になって、承認欲求丸出しで、見せかけの信仰に進むのは避けたい、と思っておられたわけです。これは、今週イエス様が私たちに語っておられるメッセージでもあります。「律法学者に気を付けなさい」。私たちも、認められたかったり、ついつい見せかけの自分を作り上げようとしたり、そのようなことがあるでしょう。そのような時に、イエス様のことばを思い出し、何も飾らない、ありのままの姿で認めてくださるイエス様のことを思い出したいものです。また、イエス様の「律法学者に気をつけなさい」というメッセージは、「今目で見ている律法学者に気をつけなさい」ということであるわけですから、意味を広げて考えれば、「今見ているものに気をつけなさい」というメッセージでもある、ということもできるでしょう。今週私たちは、何を見るでしょうか。クリスチャンが全人口の1パーセントに満たない世界で、文化風習の面でもキリスト教的なものが圧倒的に少ない中で、聖書とは縁遠い世界の、本来なら私たちとは価値観が異なるようなものばかり目にして、その中で自分を大きく見せようと、見せかけの姿をつくり出して生きるのか。イエス様のメッセージが胸に響きます。


そこで、次のエピソードが来るのです。冒頭でも簡単にご紹介した、新共同訳の小見出しによると「やもめの献金」のエピソードです。注目したいのは、「見る」ということです。先程の「律法学者を非難する」エピソードでは、群衆が律法学者の姿を見る、というところが前提となっていました。そして、それはよい模範ではありませんでした。今度は、このエピソードでは、やもめの様子を見る、ということがポイントになっています。そして、律法学者の見せかけの信仰とは異なり、こちらのやもめの信仰の姿は、よい模範となっていくのです。


 さて、このエピソードの内容を辿っていきましょう。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」(41節)。今度はイエス様が、群衆の様子をよく見ておられます。私たちのことも、熱心に、関心を持って、見ていてくださるのがイエス様なのです。


イエス様がご覧になっていると、「大勢の金持ちがたくさん入れていた」(41節)とあります。これはもしかして、パフォーマンスだったのかもしれません。そしてこの中には、先ほどイエス様に非難された律法学者も、もしかしていたかもしれないですね。もちろん、たくさんささげることが悪いのではありません。問題は、金持ちが、たくさん入れていることが周りの人にわかるようにしていたことでした。さりげなく、人に知られないように、ということは、彼らには縁遠かったのです。私はこれだけささげている!それがわかるように、大きな音を立てて、時間をかけてささげていたのではないでしょうか。


そのような、派手なパフォーマンスの騒々しさとは打って変わって、一人の貧しいやもめが来て献金する時、そこには静けさがありました。さりげなく、人に知られないように、静かに神様の前に出て、ささげていったのです。


その時の様子は、「一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」(42節)と記されています。ここでレプトン銅貨はコインの最小単位で、二枚でも今の価値で言うと200円もしなかったかもしれません。どう考えてもそれを「多い」とは思えませんが、それでもイエス様は、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」(43節)とお褒めになります。


単に褒められただけでなく、それはひとつの宣言でもありました。大勢の金持ちが、ジャラジャラと大きな音を立てながら多額の献金をし、それの方が目立って、たくさん献金したのだ、と認識される認識される価値観が見事に覆され、静かに、ごくわずかな献金をしたように見える方が、実はたくさん献金したのだ、という新しい価値観が、イエス様によって打ち立てられたのです。そのことの宣言であったわけです。これは群衆に向けてではなく、弟子たちだけ呼び寄せて語られたことばでしたから、決して大きな声ではなかったかもしれません。献金した当の本人であるやもめにも、聞こえなかったかもしれません。しかし、この時、この宣言によって、ある意味で歴史が変わったのです。律法学者の、外側だけの、見せかけの信仰が非難されたように、パフォーマンスのように派手に献金することが尊いとされる古い時代は過ぎ去り、献金の内実、ささげた人の内側にある真剣さが評価される新しい時代になったのです。


ですから、それは、額の問題ではありませんでした。イエス様は続けて、「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(44節)と、その発言の理由をご説明なさいます。この女性の全財産がわずか2レプトンであったことに、どんなにその生活が貧しかったかが伺われますが、それをすべてささげた信仰は、律法学者の見せかけの信仰とは決定的に異なっていました。彼女は、自分が今全財産をささげてしまったら、明日から、いや、献金してからあとの生活はどうなるのか、そのことはまったく考えていなかったのです。いやいやではなく、心から感謝して、彼女はそれをささげたのでした。そのあとのことは、神様にすべておまかせしたのです。ですから、彼女の「すべてをささげる信仰」は、別の表現をすれば、「すべておまかせする信仰」でもありました。


イエス様の価値観からすると、多額の献金であっても、それが有り余る中からささげられたものの場合、相対的にわずかである、ということになるのです。反対に、このやもめのように、乏しい中から全部ささげれば、相対的に、誰よりもたくさんささげた、ということになるのです。そして、それは、まさにすべてをささげる信仰から来るのです。


ご存知のように、今回の園田伝道所の新会堂の取得に際しては、この「すべてをささげる信仰」によってささげられた多くの献金が寄せられました。そのことのゆえに、心から神様に感謝をささげるものです。そして、そのようにすべてをささげるということは、ささげたあとのことを、すっかり神様におまかせしていることになります。ですから、新会堂を得た園田伝道所の歩みは、神様におまかせする信仰によって進んでいくのです。


私たちが園田伝道所の新会堂取得のために熱心におささげしたのは、神様が道を開いてくださって、長年の祈りの実りを見せてくださったことに感動し、心から感謝したからでした。では、この時、この貧しいやもめをこの捨て身のささげものへと突き動かしたものは何だったのでしょうか。この当時、今のような年金もなかったわけですから、年金受給日だったからささげた、ということではありませんでした。先程は、「いやいやではなく、心から感謝して、彼女はそれをささげた」と想定しましたが、そうは言うものの、実際はこの箇所を読んでも、金持ちのささげものの派手さと比べて、静けさ、静寂があるだけで、はっきりした理由は見えてこないのです。


かと言って、何にもなしに、彼女は全財産を投げ入れたりはしかなかったでしょう。そこでひとつ浮かんでくるのは、彼女もまた、聖書の民だった、ということです。もっと限定すると、詩編の民だった。詩編のことばから喜びを得る、というだけでなく、自らの喜びも悲しみも、詩編のことばを用いて言い表す、と言ってもいいほど、詩編は彼女の身近にあった、と言えないでしょうか。今年のみことばである詩編117編には、「主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。」とありました。心が暗くどんなに落ち込んでも、「ハレルヤ」と歌うのです。今朝の交読の箇所であった詩編146編もまた、「ハレルヤ」にはじまり、「ハレルヤ」に終わっていました。そして、「いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人」(146:5)と歌って幸いを実感し、なおかつ、特に彼女の場合、「主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる」(146:9)というみことばは、まさにそれによって自らが生かされれる、いのちのことばだったのではないでしょうか。


みなしごとやもめの保護は、実は律法においても勧められていました。神様は、みなしごややもめに対し、ご配慮くださる方です。彼らを「励ます」とは、また「回復する」という意味でもあります。家族を失い、壊れかけた生活、その心、それらを回復してくださる温かい神様の姿です。特に大きな出来事があったわけではなくても、ここに登場するひとりのやもめは、自分に寄り添い、温かく励まし、回復を図ってくださる神様の慈しみとまことに感じ入り、思わずすべてをささげたのではないでしょうか。そして、そのあとのことは、すべて神様にお任せしたのです。


このひとりのやもめの心に働きかけられた同じ神様が、私たちにも臨んでくださり、私たちの人生に入って来てくださり、何くれとなくご配慮くださることを知るのは、何と幸いなことでしょうか。人に期待しても、ここまでのことは実現しないでしょう。神様だけが、本当に私たちの期待に応え、満たすことができます。そのように満たされて、背伸びをしなくても、自分を大きく見せようとしなくてもよいとわかったときに、人は本当に安心することができ、心に感謝が生まれます。そして、そこからすべてをささげる信仰に進んでいきます。それは同時に、神様に全てをおまかせする信仰でもあります。そのような信仰の世界に、私たちは招かれています。イエス様の十字架は、その入り口です。救い主イエス様を通して、私たちはこのような、神様との豊かな交わりの世界に入って行くのです。


神様に導かれて、すべてをささげる信仰のうちに、神様にすっかりおかませして毎日の歩みを続けてまいりましょう。


お祈りします。

天の父なる神様。私たちを受け止めて下さり、いつも満たしてくださるあなたの御名を賛美します。このようにみことばを通して、すべてをささげる信仰の模範を見せてくださり、そのように歩むようにと促してくださり、感謝します。


私たちもみことばに励まされ、すべてをささげる信仰をいただき、その中ですっかり神様におまかせして、これからの信仰生活を送っていくことができますように、導いてください。


救い主イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン


報告

・先週は全聖徒主日で、召天者記念礼拝でした。午後1時から、住吉霊園教団納骨堂前にて墓前礼拝がありました。本日は、園田伝道所の新しい会堂での礼拝のスタートの日です。







閲覧数:11回0件のコメント

Comments


bottom of page