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2024年10月6日 聖霊降臨後第20主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2024年10月6日
  • 読了時間: 13分

更新日:2024年10月10日


聖書交読 創世記2章18~24節(旧約p3)

司)2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

会) 2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。

司) 2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

会) 2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。

司) 2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、

会) 2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

全) 2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。


聖書朗読 マルコ10章2~16節(新約p81)

10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。

 10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。

 10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。

 10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。

 10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。

 10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、

 10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。

 10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。

 10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。

 10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。

 10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

 10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

 10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


説教 「神様が結び合わせてくださる」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日の福音書の箇所の前半は、離縁のことについて語っているようで、実は結婚についての大事な教えを述べています。後半は、その大事な結婚によって生まれてくる子供たちの祝福について述べており、前半とつながりがあることが分かります。


まず本日の箇所は、ファリサイ派の人々の「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(2節)という質問から始まります。しかし、「イエスを試そうとしたのである」という言葉にあるように、イエス様を試そうとしてのものでした。試そうとした、というのは、答えによっては、イエス様を訴え出ようとした、ということでもあります。また、ファリサイ派の人々が、自己正当化しようとして言った、という解釈もできます。その場合は、離縁を正当化しようとしている、とも考えられます。


そもそも離縁については、非常に切実な問題であったのか、様々な考え方があったようです。ユダヤ教内部にはシャンマイ派とヒレル派という派があり、この両派でも、離縁についての解釈が異なったようです。両者とも、申命記に基づいて、離縁できる、という前提で議論するのではありますが、シャンマイ派はどちらかと言うと厳格で、不適切な男女関係があった場合のみ、離縁できる、としていたようです。それに対し、ヒレル派は、夫が妻を気に入らなくなったら、どんな理由でも離縁できる、食事がまずい、といったようなささいな理由でも離縁できる、と言っていたようです。ファリサイ派はこのヒレル派に近い、とも言われます。


離縁による質問によって、イエス様を試した、すなわち、答えによっては訴え出ようとした、ということですが、「よくよく考えて、なるべく離縁しないようにせよ」とイエス様がお答えになれば、「あなたはシャンマイ派なのか」となじったことでしょう。もし、「いやいや、申命記において離縁できるとなっているのだから、理由は何であれ、離縁できるのだ」とイエス様がお答えになれば、「では、シャンマイ派は間違いだということで、糾弾してよろしいわけですね」ということを言ってきたかもしれない。いずれにしても、イエス様のお答えひとつで、混乱が起こりかねないような状況に持っていこうとした、ということです。


更に、調べてみますと、当時物語の舞台である地方を治めていたヘロデ・アンティパスは、大きく言えば自身の不適切な男女関係を洗礼者ヨハネに非難されたため、彼を捕らえ、死に至らせたわけですが、イエス様に関しても、ヘロデが神経質になっている離縁の問題を取り上げることで、ヘロデの怒りを買うように仕向け、それによってイエス様が捕らえられたり、罰を受けたりして失脚するよう仕向けた、とする学者もいるようです。「イエスを試そうとしたのである」というのは、このような意味であった可能性もあります。いずれにしても、この「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」という問いは、簡単に答えられるような問いではなかったのです。


それに対しイエス様は、「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」(6~8節)という、想像以上の答えをなさいます。これが、離縁云々の前に、結婚についての、大事な神様の教えであると示されたのです。


「天地創造の初めから」とありますので、本日の聖書日課の旧約の箇所は創世記2章18~24節が選ばれており、先程一緒に交読文として読みました。創世記2章22節では、主なる神が「人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」とあり、先に創造された男性に引き続き、女性の創造について述べられています。このように、神様は、男性は男性として、女性は女性として、別々にお造りになりました。まさに、「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった」とイエス様が言われた通りなのです。しかも、 2章24節に「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言われており、イエス様はこれを引用して、「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」とおっしゃっているのです。続く「だから二人はもはや別々ではなく、一体である」というのは、この引用を受けてのイエス様の解釈である、と言うこともできます。


最終的にイエス様は、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(9節)と宣言なさいます。これによって、ファリサイ派の人々は黙ってしまいました。確かに、律法は離縁の可能性について語っているのです。3節でイエス様が「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された時、ファリサイ派の人々は「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(4節)と即座に答え、これは申命記24章にあるので、その通りなのです。しかし、それは、使われている漢字でもわかりますように、あくまで「許可」なのです。それを、当然の権利のように振りかざすことはできない。まして、料理がまずいぐらいのことで離縁していたら、それは律法に適うこととはとえも言えない、ということになるのです。イエス様はこうおっしゃいます。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(5節)。こうでも言わないと、あなたたちは何をしでかすかわからない。「離縁絶対禁止」などと申し渡したら、どんな非人道的で、もちろん神様のお心を痛めるようなことを人間はすることか。大学を出てから2年間、クリスチャンの印刷会社で働きましたが、フィリピンで牧師をしていたワーカーと友だちになりました。彼に聞くと、フィリピンはカトリックが優勢で、離婚は法律で禁じられているとのこと、それは表向きのことで、実情は離婚したくてもできない、ということで、ご主人が家に帰ってこないとか、事実上離婚と同じような状態になっている家庭がいくつもあるのだ、ということでした。下手に禁じると、そのようなことも起こって、悲しい家庭も増える。人間にはそのような頑ななところがある。だから、神様はあえてモーセに、離縁を許可する律法を与えたのです。これは勧められることではなく、あくまでより大きな悪、悲しみを避けるための許可、ということなのです。本来は、イエス様の宣言通り、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(9節)というのが、大原則であるわけです。


考えてみますと、結婚以外にも、神様が結び合わせてくださったものはたくさんあります。それは仕事であったり、奉仕であったり、教会であったりします。それを、人は離してはならないのです。神様からの恵みと祝福を失うことになるからです。結婚している、指定内に関わらず、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という教えは、誰にでも関係のあるものなのです。


加えて言うならば、これは結び合わせられている当事者の間のことばかりではありません。結婚のことで言うなら、当事者間で別れる、別れないの話だけでなく、私たちが結婚している2人の間に割って入って、別れるように誘惑するとか、あるいは説得するとか、そういうこともしてはいけないことになります。もしかしてファリサイ派の人々だと、律法を笠に着て、このようなこともしていたのかもしれません。あなたがたの関係は、律法に照らし合わせるとよくない、離れた方がいい、などと言っていたのかもしれません。また、先程、結婚以外にも、仕事や奉仕、教会との結びつきのことを少しお話ししましたが、ある仕事や奉仕をしている人に、「それはあなたのすべきことか」と疑問を抱かせて、それから離れてしまうように誘惑することも、神様に喜ばれることではないと言えましょう。神様が、その仕事や奉仕を、その人に結び合わせてくださったのです。教会のことも同じで、ある人が自分の教会に喜んで行っているのを、誰かが止める、ということは、あってはならないのです。神様が、その人をその教会に結び合わせてくださったのです。それは、神様の与えてくださった、すばらしいつながりです。


そもそも、私たちはイエス様とのすばらしい出会いを経験しました。これはまさに、神様が引き合わせてくださり、結び合わせてくださった出会い、そしてつながりです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言われるほどに、それはつよい結びつき、つながりなのです。ですから、苦難や、悪魔の誘惑がやって来て、どんなに私たちをイエス様から引き離そうとしても、神様は「私が結び合わせものなのだから、誰も離してはならない」とおっしゃるのです。


そして、冒頭で触れましたように、大事な結婚によって生み出される子供のこと、その祝福について語る13節以降の部分につながってまいります。こちらのほうはごく簡潔に見てきたいと思いますが、13節の「イエスに触れていただく」というのは、もちろんイエス様に触れていただくことによって祝福をいただく、という意味です。


子供たちを祝福してほしい、という親たちや彼らを育む共同体に対して、「弟子たちはこの人々を叱った」とあります。ここにも、まだ弟子たちの、「だれがいちばん偉いか」スピリットが見え隠れしています。イエス様の第二回目の受難予告の後に、こともあろうに弟子たちが議論していたテーマで、とにかく自分がいちばん偉い状態にいたい、というプライド丸出しの議論でした。ここでも、「私は偉い、でも弟子でもない、まして子供なんかが私たちの先生の近くに来ていいわけがない」といった考えだったのではないでしょうか。そもそも、あくまでこの当時のことですが、子供は社会の中で数に数えられない存在で、悪く言えばいてもいなくても同じ、弱いとかもろいとかそういったことではなく、いちばん後にされる存在だったわけで、イエス様のもとに来るなんて、考えられなかったわけです。


これは、人が勝手に限界を定めることです。子供たちの可能性はここまで、と。子供たちなんだから、イエス様の近くになんて来れるはずがない、と限界を決めてしまうのです。あるいはこれは、先程の「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という教えと結び合わせて考えることも可能です。その場合、もう神様が、イエス様と子供たちを結び合わせておられるのです。そうである以上、誰も子供たちをイエス様から引き離してはならないのです。


「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」というのは、子供のように無垢な心でいることが大事なのだとか、素直な心が大事なのだとか、そのようなことではありません。子供が無垢な心を持っているとか、素直であるとか、そのようには言い切れないのです。むしろ、社会の中で数に入れられないのが子供たちであると言う時に、同じように、自らを取るに足りない者として身を低くできるか、ということにも関わってきます。そして当然ながらこれは、弟子たちの「だれがいちばん偉いか」マインドとは決定的に異なるのです。


また、ルターは、「教理を教えられなければならない子供のように私は振舞う。私は教理を学ぶ生徒であることにとどまらなければならないのであり、喜んでそのようにする」と述べました。これも、子供でいることで神の国に入る、ということのひとつの意味です。神の国に入ることは、福音によって救われることと同じです。子供は、救いのために何もすることはできません。大人もまた、同じことです。自らの救いのために、誰も手立てを講じることはできないのです。溺れた時、誰も自分で自分を自ら引き上げることはできません。私たちは神様によってイエス様に結び合わせていただき、世の様々なことにできるだけ貢献したい私たちが、救いのために何の貢献もせずに、何もせずに、ただ恵みによって救われました。この素晴らしいイエス様との結びつきから、誰も私たちを引き離すことはできません。


最後に、印象的なローマの信徒への手紙 8:35-39をお読みします。


「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 「わたしたちは、あなたのために 一日中死にさらされ、 屠られる羊のように見られている」 と書いてあるとおりです。 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマの信徒への手紙 8:35-39)。


お祈りします。

天の神様。今朝の礼拝の時、またみことばの時をありがとうございます。私たちをイエス様と結び合わせてくださり、恵みによる尊い救いの中に入れてくださり、感謝します。神様が結び合わせてくださったものを、人は話してはならない、と教えられました。素晴らしい結びつき、それによるつながりを大切にして、歩むことができますように。困難な中に生きざるを得ない人々のうちに、あなたの働きがありますように。戦火の絶えない所に、あなたの平和が訪れますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日礼拝後、コンサートのために礼拝堂をお貸しします。本日の昼食会はありません。







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