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執筆者の写真明裕 橘内

2024年10月20日 聖霊降臨後第22主日


聖書交読 ヘブライ5章1~10節(新約p405)

司) 5:1 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。

会) 5:2 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。

司) 5:3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。

会) 5:4 また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。

司) 5:5 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。

会) 5:6 また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。

司) 5:7 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。

会) 5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。

司) 5:9 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、

全) 5:10 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。

 

聖書朗読 詩編117編(新約p957)

 117:1 すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。

 117:2 主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。


説教 「慈しみとまこと」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

本日午後には、大事な予算総会が開催されます。今年のみことばである詩編117編については、一度2月の総会前の礼拝で取り上げましたが、今回予算総会にあたり、改めて味わってみたいと思います。

 

1節は全世界的な賛美への呼びかけです。「すべての国よ、主を賛美せよ」と呼びかけられています。私たちの偉大なる神様はすべての国々の神様であり、ごく一部の人たちではなく、「すべての民」が賛美すべき存在なのです。

 

この節は、内容の似たふたつの文章で成り立っていることが分かります。その中で、「すべての国よ」は「すべての民よ」に置き換えられ、「主を賛美せよ」は「主をほめたたえよ」と言い換えられています。大きく言えば、同じ内容の文章を繰り返して、強調しているとも読むことができます。

 

先ほど、「賛美への呼びかけ」と申し上げましたが、正確には、文法の面で言うと、命令形で書かれています。ですから、「主を賛美しなさい」であり、「主をほめたたえなさい」であるのです。ですから、「さあ、賛美しようではないか」「ほめたたえようではないか」と言ってしまうと、それは正確ではありません。しかし、この命令は誰によるものかと言えば、それは詩編作者です。ですから、主なる神様からの、上からの、垂直的な命令とは異なり、仲間内で、横のつながりの中で、賛美を促すことばになります。その意味では、「賛美への呼びかけ」という言い方でいいかと思います。

 

この呼びかけは、「すべての国」、「すべての民」へ向けてのものですから、当然のことながら、そこには異邦人が加わります。ローマ書15章11節には、「更に、/『すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ』と言われています」という形で、引用されています。こちらでは、パウロによって、はっきりと「異邦人」と書かれています。

 

異邦人が賛美に加わる。これは、パウロの偉大なる夢でした。旧約聖書の時代から、この詩編においてある意味で預言されていても、それはなかなか実現しませんでした。しかし、パウロが異邦人への使徒として立てられ、神様によって異邦人宣教が進められていく中で、詩編の中であらかじめ描かれていた異邦人も共なる賛美ということが、実現していったのです。

 

私たちも、言ってみれば異邦人なわけですから、本来は賛美からは程遠い民であったわけです。ところが、イエス様によって近くされ、私たちもすっかり変えられて、主を賛美する民とされました。だからこそ、今私たちは、こうして共に主を賛美することができているのです。

 

私たちはそのことに感謝するとともに、愛する日本の多くの人々が、主を知って共に賛美をするようになることを願っています。私たちは、たくさんの人々が救われますように、と祈りますが、ある時、軽井沢で行われた教職者会で、もう20年以上前のことですが、講師の先生から、救われた人々が、私たちとともに賛美し、共に奉仕する姿を思い描くことの大事さを教えていただきました。多くの場合、私たちのヴィジョンは、人々が救われる、という所がゴールになっているのですが、それを越えて、救われた人々が高らかに主を賛美し、私たちと共に主に仕えるところまで、思い描くのです。イエス様を知って救われるだけでもたいへんなのに、救われた方が、そんなにすぐ賛美に加わったり、奉仕をするようになったりするだろうか。それは、先のまた先で、ヴィジョンとして思い描くなどできない、などと考える必要はありません。さあ皆さん共に、これから多くの日本の人々が、この地域の人々が、私たちと共に主を高らかに賛美し、主に仕えていく栄光溢れる姿を心に思い浮かべましょう。

 

さて、2節の方に移っていきましょう。今日の説教題にもなっている、「慈しみとまこと」ということばが出てくる箇所です。

 

まず一つ目、主の「慈しみ」は、別訳では「恵み」となっています。「良いこと」「親切であること」を表す言葉です。讃美歌312番の「いつくしみ深き」を例にとるまでもなく、「慈しみ」と言いますと、神様や私たちの救い主イエス様のご性質にぴったりの言葉です。

 

この言葉の背後には、「関係性」というものがあります。この「慈しみ」は、誰かから誰かに向けられるものである、ということです。この詩編においては、「主の慈しみ」となっていますから、主なる神様から、私たち人間に向けられます。これは、大きな恵みではないでしょうか。皆さん、いかがでしょうか。私たちのことを思って、私たちのことを見ていてくださる方がおられる、ということです。そして、私たちに目を注いでくださり、慈しんでくださる、ということです。ですから、私たちは荒野で孤独を覚えるようなことはありません。月並みな言い方かもしれませんが、私たちは一人ではないのです。これは、大きな慰めではないでしょうか。この、「誰かに見ていただいている」「見守っていただいている」という安心感を、人は求めているのではないでしょうか。分断された世界で、疎外感を感じやすい中で、私たちは温かい主なる神様のまなざしを感じ取ることができます。私たちは取るに足らない、ちっぽけな存在なのではないのです。見られるのにも値しないような、そんな存在なのではない。たとえどんなに欠けがあろうとも、私たちは常に主なる神様の視界の中に入っていて、その慈しみが向けられているのです。

 

次の「まこと」ですが、「アーメン」にもつながることばで、「信じる」という意味のことばに由来しています。良い、親切である主なる神様は、信じ得るお方であって、そのお方の持つ「慈しみ」と「まこと」がとこしえに至る、ということです。

 

「とこしえに至る」、というのは持続性を意味します。今は何でも「持続可能かどうか」ということが問われますが、まさに主の「慈しみとまこと」は、最高の持続可能な恵みです。とこしえに至るのですから、決して途中で途絶えて、なくなることもありません。途中でなくなってしまうものだったら、私たちはそれを信頼することができません。そうではないでしょうか。でも、慈しみとまことはとこしえに至る。だから、私たちはそれを信じることができるのです。

 

また、「慈しみとまこと」が「わたしたちを超えて力強い」と言われる時、それはそれらの性質を表しています。「慈しみとまこと」は永続するだけでなく、「力強さ」という性質を持っている、ということです。この力強さとは、何かに打ち勝つ力です。困難に向き合っても、それに打ち勝つ強さ。挫折することがあっても、それに負けてしまわない、却ってそれに勝利する力です。今、何か越えがたい壁のようなものに突き当たっているでしょうか。あるいは、動かしがたい困難を抱えているでしょうか。挫折して、希望を失っているでしょうか。しかし、私たちの主の「慈しみとまこと」は、力強い。それは、打ち勝つ力です。困難にも、挫折にも打ち勝つ力です。主をほめたたえます。

 

では、それらが「私たちを超えて」と言われているのは、どういうことなのでしょうか。それは、私たちの想像を超えて、と言い換えても差し支えないでしょう。私たちの想像をはるかに超えて、素晴らしいことを主はなさいます。

 

園田伝道所の会堂のこともそうでしょう。私たちは今年、今年のみことばである詩編117編から、今年の目標を「主の慈しみとまことをほめたたえよう」として、歩み始めました。年の初めの段階では、どのような一年になるのか、そこで私たちが共通の体験として、何を体験するのか、わかりませんでした。しかし、園田伝道所の会堂のために祈りが篤くなり、5月中旬には候補となる物件が与えられ、内見をし、6月の役員会で役員全員一致で購入に向けて進むこととなり、7月第一週の臨時総会に至り、そこでも出席者全員一致で購入を決議、数日後の宗教法人の責任役員会でも全員の賛同を得ることとなりました。このタイミングは、まさに神様が与えてくださったものとしか思えませんでした。そして、熱心なるささげものによって必要は満たされ、わずか数か月の間に7月の契約と8月の引き渡し取引までに至ったのです。私たちは、ただ漠然と「主の慈しみとまことをほめたたえよう」と捉えるのではなく、今年はっきりと、園田伝道所の会堂を主が与えてくださった奇跡を目の当たりにし、それを確かに「主の慈しみとまこと」として捉え、そのことのゆえに、主をほめたたえることができるようになったのです。私たち皆が新しい園田伝道所の会堂を使うわけではないかもしれませんが、その取得と礼拝開始のために祈り、ささげものをしていったことで、この大きな神様のお働きに参与することができました。また、長く祈っていた園田の会堂が与えられたことを見て、信じていたら岩をも動く、と確信し、「ではほかのこの祈りの課題も、あの長らく祈ってきたことも、実現させてくださる」と希望が与えられた、ということもあったことでしょう。そう思えるのも主の慈しみとまことのおかげです。だからこそ、私たちは「ハレルヤ」と主を賛美して生きるのです。

 

この「ハレルヤ」ですが、単なる掛け声ではありません。根強い人気の米津玄師(よねづけんし)の「パプリカ」の中にも「ハレルヤ」という歌詞があって、日本において少しずつ市民権を得つつあるかもしれませんが、聖書的な意味が理解されているか、ということではどうでしょうか。「ハレルヤ」とは、「主を賛美せよ」の意味です。1節の「すべての国よ、主を賛美せよ」の部分にある「賛美せよ」と、同じ動詞、同じ命令形です。あまり私たちの教会では、大きな声で「ハレルヤ!」と叫んだりする習慣はありませんが、教会によっては、それこそ呼吸のように、ごく自然に「ハレルヤ!」という声が聞こえる所もあります。先程今年のテーマソング、聖歌498「歌いつつ歩まん」を歌いました。お好きな方も多いことでしょう。私も好きです。大学卒業後、2年間クリスチャンの印刷会社兼宣教団体のようなところで仕事をしておりましたが、毎週月曜日の朝にチャペルタイムがあり、かなりの頻度でこの「歌いつつ歩まん」を歌っておりました。その中には、「歌いつつ歩まん、ハレルヤ、ハレルヤ」という歌詞がありまして、まさにこの部分に出てくる「ハレルヤ」がそのまま歌詞になっています。普段、あまり「ハレルヤ!」と叫ぶことがなかったとしても、この聖歌を賛美する時には、違和感なく、ごく自然に、高らかに私たちは「ハレルヤ!」と歌います。もちろん、その他にも、この「ハレルヤ」は賛美の歌詞に多用されていますし、たいへん有名なところでは、ヘンデルのメサイアの中に多くの人々が愛好する「ハレルヤコーラス」があります。

 

聖書の中には、「アーメン」、また「ハレルヤ」といった、ごく短いけれども、それが信仰生活においてごく重要で、私たちの助けとなる言葉があります。今回、「アーメン」に関しては、「慈しみとまこと」のうち「まこと」の方に関係がある、とお話ししました。そして、今までお話ししてまいりましたこの「ハレルヤ」です。私たちは大いに感謝して、このような、短くて覚えやすく、なおかつたいへん重要な意味を持つことばを信仰生活の中で存分に使っていきたいと思います。長々くどくどと言葉を用いずとも、私たちは一言、「アーメン」と言えば、私たちの内側の強い確信を表明することができます。また、どんなに弱り果て、倒れ伏してしまうような時にも、わずかに口を開いて「ハレルヤ」と声を絞り出すならば、そこは輝かしい、豊かな賛美の場となります。本当はここに、「父と子と聖霊によって、アーメン」という、洗礼の豊かな恵みを想起させる魅力的な言葉も加えたいのですが、それについてはまたいずれ、改めてお話しすることにいたしましょう。

 

本日は、今年のみことばである詩編117編を振り返ってまいりました。それに基づく今年の目標、「主の慈しみとまことをほめたたえよう」についても、思い返してきました。教会の年度は1月から12月までですから、年末まで、私たちはこの目標を掲げての信仰生活の歩みの仕上げをしてまいります。私たちには、私たちにとって良いお方で、とても親切な神様がおられます。このお方が、ひとり子イエス様をこの世に送り出してくださり、その十字架と復活によって、救いの恵みを実現してくださいました。それはまさに、神様の慈しみとまことの表れです。それだけでも神様を賛美するのに十分ですが、園田伝道所の会堂のことを含め、私たちの信仰生活に直接関わってくださり、恵みを与え、奇跡を起こし、その奇跡は、神様の絶妙なタイミング、といったもので私たちが認識できるものですが、それらを通して私たちを励ましてくださるのが神様です。それらを経験して、更に私たちには主を賛美する心が増し加えられ、心には、まさに「歌いつつ歩まん、ハレルヤ、ハレルヤ」といったような歌が生まれ、口には「あなたをほめたたえます」という賛美の言葉が宿ります。これからもこの主の「慈しみとまこと」を受けながら、賛美の信仰生活を送ってまいりましょう。

 

お祈りします。

天の父なる神様。あなたの示された「慈しみとまこと」に改めて感謝します。それらを通して、私たちに賛美の心を起こしてくださり、主をほめたたえて生きる私たちに変えてくださって感謝します。私たちは今年、様々な形で、あなたの慈しみとまことを具体的に経験しました。ますますあなたに向かって賛美をささげる私たちでありますように。困難の中を歩まざるを得ない方々、病の床にある方々を、あなたが顧み、あなたの「慈しみとまこと」で覆ってください。戦火の絶えない所に、主の平和が訪れますように。救い主イエス様の御名によって祈ります。アーメン

 

報告

・本日は昼食会の後、予算総会になります。ご出席ください。



 

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