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執筆者の写真明裕 橘内

2024年10月13日 聖霊降臨後第21主日

聖書交読 詩編90編12~17節(旧約p929)

司) 90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

会) 90:13 主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。

司) 90:14 朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。

会) 90:15 あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。

司) 90:16 あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。

全) 90:17 わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。

 

聖書朗読 マルコ10章17~31節(新約p81)

 10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

 10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

 10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

 10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」

 10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。

 10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。

 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。

 10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、

 10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。

 10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 

説教 「神の国目指して」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

本日の福音書の箇所は、イエス様のもとにある人がやってきて、大事な質問をするところから始まります。さて、どのような質問なのでしょうか。

 

イエス様は、神の国の福音を告げ広めるために、常に旅に出ようとされます。その時、「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」(17節)とあります。これは相当切羽詰まっていた様子なのであり、また、イエス様に対する尊敬の念を表している、とも言えると思います。

 

私たちが、どんなことであれ、イエス様のもとに走り寄り、ひざまずいて尋ねる、と言えるようなことをしたのは、いつだったでしょうか。もちろんこの福音書の出来事のように、私たちには目に見えるイエス様のもとに走り寄って、ひざまずくことはできません。しかし、答えと導きを求めてむさぼるように聖書を読み、まさに畳に、あるいは床に額をこすりつけんばかりに身をかがめて祈ったあの日あの時、私たちはまさに、この福音書にあるように、イエス様のもとに走り寄り、ひざまずいて尋ねたのでした。しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れる、と言われるように、危機が去った今は、もうあの時の熱心さを失っているかもしれません。イエス様への熱い思いをもう一度取り戻したいものです。

 

ここで、「ある人」がイエス様に「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)と尋ねていますが、これは言い換えれば「神の国に入るにはどうしたらよいか」という質問でもありました。これを、この人は真剣にイエス様に尋ねたのです。この人は、イエス様を「善い先生」と呼びました。古い新改訳では「尊い先生」と訳されています。善い、尊い先生であれば、答えをいただけるに違いない、という期待がうかがわれます。ただ、彼が尋ねたのは、「何をすればよいでしょうか」ということでした。恐らくこれは、当時のユダヤ人からすれば、何の珍しいこともない、ごくありふれた質問であったことでしょう。大きく言えば、この手の質問の場合、「どうあるべきでしょうか」という聞き方と、「何をすればよいのでしょうか」というのと、二種類の聞き方が考えられると思います。でも、この人は「どうあるべきでしょうか」とは尋ねませんでした。このような、心構え的な質問では、答えをいただいても、自分がそれに合っているかどうか、わかりにくい、ということもあったのでしょう。しかも、ユダヤ人には何と言っても十戒はじめ彼らに与えられた律法というものがありましたので、どこかに「それらを守っていればいずれは永遠のいのちに」という予感があったのかもしれません。

 

この問いに正式にお答えになられる前に、イエス様はまず、ご自分について説明なさいます。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)とは、ご自身天から降ってこられた、神のひとり子であられる方なのに、「自分は善い者でも、尊い者でもない」と表明されたようなものです。父なる神様を立てて、ご自分は身を低くされるイエス様の姿が浮き彫りにされます。私たちも、この世における立場は様々ですが、このイエス様のように、身を低くすることができているでしょうか。

 

続く19節でイエス様はこの質問した人に正式にお答えになっておられます。この人の予想通りだったかどうかはわかりませんが、イエス様はここでやはり、律法を引き合いに出して来られます。有名な十戒の一部であることが分かります。十戒は、出エジプト記の20章と、申命記の5章に記されています。十戒とは言いますものの、聖書にはどれが一番目の戒め、どれが二番目、とは番号が振られておりませんので、様々な解釈があります。大きなところは、私たちルーテル教会やイギリス系の聖公会、またカトリックの十戒の分け方と、ルターとほぼ同時代の宗教改革者、カルヴァンの分け方によるものです。ルーテル教会の分け方では、「殺すな」が第五の戒め、「姦淫するな」が第六の戒め、「盗むな」が第七の戒め、「偽証するな」が第八の戒め、ということになります。「奪い取るな」ですが、マルコによる福音書独特の表現で、これはルーテル教会では第九、また第十の戒めとなる「ほしがってはならない」あるいは「貪ってはならない」のことであると思われます。最後に「父母を敬え」が来ていますが、これは第四の戒めであって、なぜこのように最後に来ているのかは不明です。これらはすべて、律法の第二の石板、と呼ばれる方に属しており、神様を視野に入れての隣人との関係について教えるものです。もともと、「律法」を意味する「トーラー」という言葉には、「教え」という意味がありました。それをイエス様は「掟」と言い換えて、しかもそれを、「あなたは知っているはずだ」と迫ります。

 

では、20節を振り返ってみましょう。「すると彼は、『先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った」とあります。ただ守ってきたのではありません。「子供の時から」守ってきた、とこの質問した人は答えました。これだけの自負があったのです。翻って私たちはどうでしょうか。私たちはユダヤ人のように、律法の民ではありません。もともとそれほど知らなかった、という面もあります。それを差し引いたとしても、私たちはとてもではありませんが、彼ほどに「守ってきた」と言うことはできそうにありません。この「子供の時から」というのは、単に時間的なこと、それだけ長く守ってきた、ということだけではなく、それだけしっかり守ってきた、ということを表す答えだったのでしょう。

 

この、「そういうことはみな」という答え。立派だとも思いますが、また何か違和感をも覚えるものです。皆さんはお読みになっていかがでしょうか。私は何か、「自分のことをわかっていないのではないか」という気がしてならないのです。自分のことを、実際よりも高く見積もってしまっている。本当は、どこかに弱さが隠れているのに、それに気づかずに、あるいはそれを見ないようにして、「守ってますとも」と言い切ってしまう、そのもろさ。また、「そういうことはみな」という言葉の背景には、どこか十戒の大切な教えを軽んじている響きも感じられます。「そういうことはねえ、もう昔からちゃんとやっているんですよ。だから、そういうことを聞いているんじゃなくて、もっと別のこと、それさえ行ったら永遠の命を得られるような不思議なこと、まじない的なことも含めて、それを聞いてるんですよ」などといった言葉が、ふと浮かんできます。

 

イエス様は、すべてご存知です。先程は、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と身を低くされましたが、それでも神の御子でいらっしゃいますから、この質問した人の心にあることを、すべてお見通しなのです。そこで、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(21節)とあるのです。これは、この人を非難してはいない、ということの表れです。

 

すべてお見通しのイエス様がおっしゃるには、「あなたに欠けているものが一つある」。

これは、本当に数えてみて一つだけ欠けている、というよりは、「あなたは、あなたが言うほど完全ではないよ」ということを示す表現でしょう。ですから、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とありますが、それさえ行ったら永遠の命だ、と保証しているわけではありません。また、「子供の頃から律法を守ってきた」という発言を、認めているわけでもないのです。人が、律法を完全に守ることなどできないのですから。とにかく、今あなたがしっかりと手に握ってしまっているものをまずは離して、それからわたしに従いなさい。話はそれからだ、ということです。ここで安易に、「施しをしたら永遠の命」と受け取らないように注意すべきです。大事なことは、何かを守ったり、実行するよりもまず、イエス様に従うことなのです。

 

私たちもここから、ますます身を低くして、自分が完璧でなどありえないこと、一つどころか、いくつも欠けのある存在であることを、教えられる必要があります。年齢や立場によってそれは受け入れがたいかもしれない。私は真面目に、お天道様に顔向けできないようなことはせずに精一杯生きて来た。それが支えとなって、それで自分を保ってきた、という人もいることでしょう。しかし、人間の感覚ではなく、聖書にしめされた神様の基準からすると、欠けのない人などいない。完璧な人など、存在しないのです。そのことを、私たちは知る必要があるのです。

 

自分の欠けが指摘されて、この人の反応はどうだったでしょうか。「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った」(22節)とあります。どこから立ち去ったのでしょうか。それは、イエス様のそばでした。せっかく距離的にイエス様の近くにいるチャンスがあったのに、彼はそれを失ったのです。彼の心には悲しみがありました。「たくさんの財産を持っていたからである」と、立ち去った理由が書かれていますが、悲しんだ理由は、自分の欠けが指摘されたからでしょう。大事な十戒の言葉を「そのようなこと」程度に受け止め、私は軽々とそれらを守ることができる、と自負していたところ、イエス様によってそうではないと示された。もしかして、この人の初めての挫折であったかもしれません。多くのものを握っていた彼は、結局それらを手放すことはできませんでした。多くの物を持っていることが、必ずしも幸せにつながるわけではない、という真理が、ここでも見られます。イエス様はもちろん、ここでこの人が、たくさんの財産を持っていることで非難されるべきだ、とは思っておられません。財産がたくさんあったこと自体が問題ではなかったのです。要は、それらを手放すことができたかどうか、ということでした。持っている物を、その多いか少ないかによらず、何かの目的のために、たとえば神様の御用のために手放すことができたのであれば、別にそれはそれでよかったのです。しかし、イエス様がそれらを手放しては、と提案した時、彼はそれに乗ることができませんでした。持っているものを手放すのを惜しんだのです。それを手放すのはもったいない、と思ったわけです。

 

いつしか私たちはこの人をやや批判的に見るようになってしまっているかもしれませんが、私たちだって、「持っているものを手放しなさい」とイエス様に言われて、その通りにできるかどうか。私たちは、「私たち自身」でいることがなかなかできない存在です。何か、プラスアルファを自分で確保しておきたい。言ってみれば付加価値のようなものを、自分の鎧のようにして、自分を守ったり、他者に対して優位に立とうとしたりしがちな者です。どこかに行く時に、手ぶらで行くことができない。何か他の人の持たない物を持って行って、自分が埋没してしまうことを避けようとする。ずいぶん前のことですが、まだときわ台におりました頃に、母の家ベテルでカウンセリング系の勉強会があり、別に必須ではなかったのに、いつも牧師シャツとカラーをして参加している時期がありました。ある時、その勉強会の世話役に、「橘内さんがその服装で来られるのは、何かポリシーがあるんですか」というようなことを尋ねられて、「いえ、別に」とは答えながら、自分の中に、「私は他の参加者とは違う、ルーテル教会の牧師なんだ」というプライドのようなものがあったことに気づかされました。なかなか、単なる一参加者になりにくい。やっかいな参加者だったと思いますが、その時気付かされてよかった、と思いました。

 

それはそうと、本来、神様につながっている者として、自らが不完全な存在であることを知らされた時に、悲しむのは本来の姿ではありません。この人は悲しんでイエス様から離れて行きましたが、私たちにとっては、イエス様に鋭く私たち自身の欠けを指摘されるのは、貴重な機会です。それによって私たちはむしろ、自らの足りなさに気づき、イエス様により近づこうとするのです。ですから、本来は、それは喜びの時です。もちろん、自らが完璧でないことを知らされるのですから、その時すぐはショックかもしれませんが、後になれば、「それによってイエス様に向かうことができた」ということで、感謝の体験となります。むしろ、「これ以上、もろい自分というものにすがり、頼る必要がない」ということで、ほっとする場合もあるかも知れません。

 

その人が立ち去るのを受けて、イエス様は繰り返し繰り返し、「金持ちが神の国に入るのは難しい」と語られます。これは、神の国に入ること全般が難しい、ということではありません。限定して、あくまで財産のある者、金持ちの場合は、神の国に入るのが難しい、ということに過ぎないのです。

 

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい(25節)というイエス様のことばは、そのまま格言にでもなりそうですが、わかりやすい反面、説明を要する言葉でもあろうかと思います。日本ではあまりらくだを目にしませんが、当時のユダヤにおいては比較的よく目にする動物だったはずです。大きならくだが文字通りの小さな針の穴を通るか通らないかの話のはずがない、ということで、針の穴とは、当時エルサレムにあった門の名前だったのだ、といったような説明もあるようですが、必ずしもそう考える必要もないでしょう。とにかく、大きなものが小さな所を通ることは不可能だ、ということを、日常的な言葉を使って、わかりやすく伝えたものでありましょう。そしてもちろん、財産ある者は神の国に入ることができない、ということを伝えるものでもありません。持っている富によって、あまり神の国に入る必要性を感じない、ぐらいの意味であると言われます。ですから、ここから財産を持つことを悪と見なす必要はないのです。

 

そのように、イエス様が繰り返し「金持ちが神の国に入るのは難しい」と語られると、弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)と驚いています。ここで、「神の国に入る」ということと、「救われる」ということが同じ意味であることがわかります。したがって、「神の国に入る」とは、「永遠の命を受け継ぐ」ことであり、なおかつ「救われる」ことでもある、ということになるのです。

 

ここでは、金持ちが神の国に入るのが難しい、という話題が、皆が神の国に入るのが難しい、と誤解されているようにも思われます。いずれにせよ、弟子たちには、救われること、すなわち神の国に入ることは、たいへん難しいことに思われたのです。

 

「だれが救われるのだろうか」、すなわち、「誰が神の国に入れるのだろうか」とある意味で嘆く弟子たちに、イエス様は神様の全能であることを思い起こさせます。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)とおっしゃっておられます。これは、天使がイエス様の母マリアに言った「神にできないことは何一つない」(ルカ1章37節)という言葉を受け継いでいるようであり、また創世記の昔に主なる神様が「主に不可能なことがあろうか」(創世記18章13節)とアブラハムに告げられたことにもつながります。(※両者とも、子の誕生に関係している)どんなに難しく見えても、神様に不可能はありませんから、私たちは安心して、神の国を目指すことができるのです。

 

だいぶここまでで時間を取ってしまいましたので、あとのところはごく簡潔に見ていきたいと思います。

 

28節では、突然ペトロが、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」とあります。なぜ突然この話題、と思いますが、何かをして永遠の命を得よう、すなわち神の国に入ろうとした「ある人」と、何もかも捨ててイエス様に従ってきた、と主張するペトロには、何だか似た部分があるような気がします。特に、その人は自分が律法を子供の頃から守ってきた、と自負していましたが、すべてを捨ててイエス様に従っている、と自負するペトロはよく似ています。

 

それを受けて、イエス様はペトロを否定せず、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」とおっしゃるのですが、これがイエス様の真意なのでしょうか。これでは、行いによる救いで、私たちには捨てきれないものがたくさんあるのです。しかも、続く31節の始まりは「しかし」となっていますから、ある程度、この29,30節で語られていることは否定されるはずなのです。

 

ですから、31節の言葉が重要になってきます。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。イエス様は、一生懸命ご自分に従ってきた、ましてや、たくさんのものを捨ててまで従ってきた人々を軽んじられるわけはないので、そのような人々に、すばらしい御国の約束をなさいます。しかし、それは、神の国に入る条件ではない。そのように言っておられるかのようです。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。これは、完全に恵みの世界です。行いによる救いとは一線を画していることは明らかです。行いの世界では、先の者は先に行くのだし、後から来れば、いつまでも後なのです。しかし、恵みの世界においては、後から来ても、先になる場合がある。まさに、恵みによる逆転です。多くの物を抱えていて、捨てることができない。守るべきことがあっても、守れない。そのような、まさに後からやっとやっとついてきているような者さえ、恵みの世界においては、真っ先に立って、神の国に到着する歓喜の中にいることができるのです。これは、この世において、後から来たということだけで辛酸をなめてきたという人には、福音、すなわち良い知らせに他なりません。これがあるからこそ、私たちは神の国を目指していくことができるのです。

 

お祈りします。

天の父なる神様。あなたの御名をあがめます。

御言葉を通して、神の国を目指して歩む私たちを励ましてくださり、感謝します。後でやってきたような者でも先になるという恵みに入れていてくださることを感謝します。共にこれからも神の国目指して、一歩一歩、歩み続けることができますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

 

報告

・本日礼拝後は青年会主催の聖書研究会です。来週は予算総会ですので、なるべく皆さんご出席ください。



 

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