聖書交読 エレミヤ15章15~21節(旧約p1206)
司)15:あなたはご存じのはずです。主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み/わたしを迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて/わたしが取り去られるようなことが/ないようにしてください。わたしがあなたのゆえに/辱めに耐えているのを知ってください。
会)16:あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。
司)17:わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく/御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました。
会)18:なぜ、わたしの痛みはやむことなく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました。
司)19:それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら/わたしのもとに帰らせ/わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず/熟慮して語るなら/わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。
会)20:この民に対して/わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、と主は言われる。
全)21:わたしはあなたを悪人の手から救い出し/強暴な者の手から解き放つ。」
聖書朗読 マタイ16章21~28節(新約p32)
21:このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
22:すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
23:イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
24:それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
25:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
26:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
27:人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
28:はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
説教 「目が人間の方に向いてしまう時」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
昨日の夕方、ようやく涼しい風を感じました。今日の福音書の箇所の出来事が起こった時、どんな風が吹いていたのでしょうか。場面はペトロの立派な信仰告白がなされた直後と見られます。振り返ってみると、ペトロの信仰告白は代表としての信仰告白でした。ペトロ一人だけが信じていたのではなく、その時12人の弟子たちが揃っていたとすれば、残りの11人の信仰も代表しての「イエス様、あなたはメシアです」という告白でした。しかし、その直後、予想もしないことが起こったのです。その次第を以下見ていきたいと思います。
〇受難の予告 忘れてはならない復活の予告
この時イエス様がなさったこと。それは、何と驚くべきことに、受難の予告でした。聖書の箇所を確認しておきましょう。
21節「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」
これはまぎれもなく受難の予告であり、これを聞いた際の弟子たちの動揺が伝わって来るようです。しかし、よく聞いてみると、復活の予告でもあることがわかります。受難に関しては、あとでまた触れますが、反応がありました。ペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)と応答しています。しかし、復活に関しては、「復活なさるなら安心です」などの発言はありませんでした。受難の予告の方が印象が強すぎて、復活の方は印象に残らなかったのでしょうか。人間は先に聞いた言葉の方が印象に残りやすい傾向があるのかもしれません。最初の「多くの苦しみを受けて殺される」という受難の予告の衝撃がよほど強かったのでしょう。しかも、これは信仰告白の直後に起こったのです。
〇サタン、引き下がれ
この唐突とも思えるイエス様の受難の予告があったのち、また衝撃的な言葉がイエス様の口から発せられます。23節を確認してみましょう。
23:イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
「サタン、引き下がれ」とは、それだけでも厳しい響きを持っていますが、何と人間に向けられた言葉であるので驚きを禁じ得ません。サタンに向けて投げかけられた言葉ではなかったのです。よりによって、つい先ほど「あなたはメシア」と立派な信仰告白をしたペトロに、この厳しい言葉は向けられていました。一体何があったのでしょうか。理解の鍵は続くイエス様の言葉にあります。「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。ペトロが悪魔的な邪悪な存在に成り下がったというのではなく、この時、神様のことを思わず、人間のことを思ってしまったのが問題だったのです。人間には、目がどうしても神様の方ではなく、人間の方に向いてしまう時がありますが、この時のペトロがそうでした。イエス様が受難の予告をなさったとき、それを神様の視点で受け入れることができず、つい人間的な視点で、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)と言ってしまったのです。この時ペトロには、イエス様の受難の意味、そしてその必要性がわかっていませんでした。私たちの救いのためにはイエス様の受難が必要不可欠であると信じることが実は重要なのです。
〇自分の十字架を背負って
続く24節を見てみましょう。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
イエス様の受難の予告では、はっきりと「十字架」という言葉は使われていませんでしたが、ここで「自分の十字架を背負う」という教えの中で「十字架」という言葉を使うことによって、ご自身の受難が「十字架」によるものであることが暗示されています。そのこともあって、この箇所を「受難の予告」ではなく、「十字架の予告」と呼ぶ場合もないわけではありません。
それはそうと、自分の十字架を負うとはどういうことなのか、ということの方が私たちの信仰生活の上では大事です。ヒントはその前にある、「自分を捨てる」という言葉ではないでしょうか。自分を捨てることこそが、自分の十字架を負うことにつながるのです。もちろん、「わたしについて来たい者は」という言葉にあるように、まずはイエス様について行きたいと思うことが大事なのです。そして、自分を捨てること。これが自分の十字架を負うことにほかならない。すなわちこれは、人間の方を見ることを捨てることにもなるのです。
〇命を失って、命を得る
続く25節も、「自分を捨てる」というテーマ上にあります。「わたしのために命を失う者は、それを得る」というイエス様の教えの中では、「自分を捨てる」が「命を失う」と言い換えられています。ここでは、「失って、得る」という考え方が示されています。最初から命を得ようと思って始めると、結局はそれを失ってしまう、ということです。自分の手で命を得ようとするのは、人間的な価値観に過ぎない、ということでもありましょう。ここで推奨されているのはイエス様の価値観で生きる、ということです。それはすなわち、捨てること、失うことのように見えてきます。イエス様が受難の予告の中で言われたことは、捨てること、失うことでした。「多くの苦しみを受けて殺される」ことこそ、イエス様が自ら命を捨てる、ということにほかならなかったのです。では、それで失って終わりなのかというと、「三日目に復活することになっている」という確信があった。いったんは命を失うけれども、それを通して得るものがある、復活の命を得るのだ、ということです。イエス様は私たちにだけ、命を捨てなさい、とおっしゃるのではないのです。受難の予告の中で、ご自分がすでにその価値観の中に生きておられることを、告げておられたのです。
〇人の子が来る
27節に目を転じますと、「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」とあります。イエス様の再臨を表す表現でしょうか。この描写が持つインパクト、というものを考えます。当時の人々からすれば、まだ十字架を経験していなかったので、それを想像することができなかった、と考えることもできます。そうすると、純粋に、「人の子が父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」という描写の持つ壮大なスケール、栄光に満ちた様に心惹かれたのではないでしょうか。すなわち、このイエス様の王としての来臨の方がインパクトが強かったのではなかったか、ということです。これはある意味で、イエス様のために命を捨てた者が見ることができる景色でした。
〇決して死なない、の意味
28節がわかりにくいところがあるので、確認しておきましょう。
28節「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
「人の子がその国と共に来る」を「父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」とイコールであると考えれば再臨のこととなり、それまで死なないとは一体どういうことなのか、ということになります。ですが、これをイエス様が十字架の後、見事死から復活して永遠の命を確立し、天国への道を開いた時、と理解すれば、それまで弟子たちが死ななかった、というのも筋が通ります。また、そのまま再臨の時と解釈すれば、たとえそれまでに長い時間が経過して、その間に弟子たちが地上での歩みを閉じようとも、神様の前では永遠に生きている、という意味でありましょう。どちらの解釈であっても、十字架の受難を越えたその先に、輝かしい再臨のイエス様の栄光の姿があります。人間の目では見通せない、その世界まで見通す目を、神様からいただきたいものです。
〇現代の私たちに生かす
これまでのことを、現代に生きる私たちにどう生かしていったらよいのか。その辺りのことを最後、「今の私たちに必要なのは何か」「どのような季節を私たちは生きているのか」そして「私たちはどこに向かっていくのか」という点で、少し考えてみたいと思います。
今の私たちに必要なのは何か。今日の福音書の箇所からは、「人間を見ないで神様を見る」ということを教えられました。そこでは、「捨てること、失うこと」の意味が見直されることになります。今、この比較的難しい時代に生きる私たちに必要なのは、「マイナスを恐れない」ということだ、とまとめることも可能です。マイナスを恐れることは、人間の方を見ていることにもつながるのです。
次に、私たちが今どのような季節にいるのか、どのようなシーズンにいるのか、ということです。コロナで私たちは捨てること、失うことを経験してきました。共に集まるということ、増えることを願うこと、これらのことを私たちは半ば無理やり失ってきたのです。その痛みを通ってきた私たちは、それによって鍛えられました。そして、新しいスタートを切る時に来ています。昨日バスケットボールのワールドカップで日本の最終戦が行われていました。苦戦の末勝利して3勝2敗とし、19位、そしてパリオリンピックの出場権を得るという大健闘を見せた日本チーム、「アカツキジャパン」と呼ばれているそうです。実況中継でも、「夜明け前の日本チーム」と呼ばれてもいました。私たちも同じです。今年で献堂50周年、2026年には創立70周年、という歴史があるゆえに、私たちはなかなか新たなチャレンジ、というところに立てないところがあるのかもしれない。ですが、まだまだこれからです。まだまだ夜明け前。皆さんで一緒に美しい信仰の日の出を見てまいりましょう。
3つ目、それでは私たちはどこに向かっていくのか、ということでは、希望のない言い方かもしれませんが、必ずしも教会も増えるとは限らない、牧師も足りない、そのような中で、一人一人の信仰者がその信仰を確立して自立し、信仰者同士で支え合いながら、信仰者の群れである教会を進めていく、というあり方は必須となっていくことでしょう。幸いにも、そのような自立的な気風はこの御影ルーテル教会に備わっていると思います。今こそ、人間の方ではなく神様の方を見て、人間的なことを考えるのではなく神様のことを考えながら、相互の交わりを深めてまいりましょう。
お祈りいたします。
天の父なる神様。
マイナスをプラスに転じるあなたのみわざを崇めます。
イエス様の受難の予告は驚くべきことでした。
しかし、そこで、私たちは私たちの救いのために十字架がどうしても必要であったことを知ります。
つい人間的な思考に陥ってしまう私たちをあわれみ、
常に神様の視点でものを考えさせてください。
失うことを恐れず、今がまだ夜明け前の時であることを悟り、あなたの与えてくださる大いなる日の出を見させてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日から聖歌隊の賛美が再開されました。本日は礼拝後すこやか感謝会があります。昼食をともにします。70歳以上の方々が招待となります。ご健康のためにお祈りいたします。そのあと役員会です。
Comments