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2023年9月24日 聖霊降臨後第17主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2023年9月24日
  • 読了時間: 9分

交読文 詩篇145編1〜8節(旧p985)

司)1:【賛美。ダビデの詩。】わたしの王、神よ、あなたをあがめ/世々限りなく御名をたたえます。

会)2:絶えることなくあなたをたたえ/世々限りなく御名を賛美します。

司)3:大いなる主、限りなく賛美される主/大きな御業は究めることもできません。

会)4:人々が、代々に御業をほめたたえ/力強い御業を告げ知らせますように。

司)5:あなたの輝き、栄光と威光/驚くべき御業の数々をわたしは歌います。

会)6:人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。

司)7:人々が深い御恵みを語り継いで記念とし/救いの御業を喜び歌いますように。

全)8:主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。


聖書朗読 マタイ20章1〜16節(新p38)

1:「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。

2:主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

3:また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、

4:『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

5:それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

6:五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

7:彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

8:夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

9:そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

10:最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

11:それで、受け取ると、主人に不平を言った。

12:『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

13:主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

14:自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

15:自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

16:このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」


説教 「最後になったとしても」 


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


この聖霊降臨後の季節、信仰の成長を図る典礼色が緑の季節ですが、福音書の中からたとえ話を学ぶことが多くあります。イエス様が語られたたとえ話を通して、父なる神様の姿、その憐れみの深さを共に味わってまいりたいと思います。


◯天の国のたとえ

このたとえ話も、「天の国は次のようにたとえられる」という始まり方からわかるように、天の国についてのたとえ話になります。その点では、このマタイによる福音書の13章に見られる、「種を蒔く人のたとえ」をはじめとした一連の天の国のたとえ、それから先週の聖書日課の福音書の箇所、同じマタイによる福音書の18章で、王が多額の負債を負う家来を赦す、といった内容のたとえが語られているのと同じ系統にあることになります。本日の福音書の箇所では、ぶどう園で働く労働者を雇うために出かけて行ったある家の主人が行ったこと、その態度が、天の国がどのような世界なのかを表している、ということです。ここでは、すでにおわかりのように、この主人こそが、神様のことを表しています。


◯何度も招く

この主人は、夜明け、恐らく午前6時頃と9時、12時、そして午後3時、5時というように、5回にもわたって、労働者を雇うために出かけて行っています。それだけ労働者が必要であったというだけでなく、一人でも多く雇って賃金を渡したい、という思いもあったようです。でなければ、5時にもなって、職にありつけず立ったままでいた人々を雇い入れるようなことはしなかったでしょう。


この主人の姿に、私たちを招く神様の姿を重ね合わせて見ることができます。しかも私たちは温かい、神様の招きの声を聞きます。その招きの言葉は、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」であって、4節と7節に繰り返されています。しかも4節には、「ふさわしい賃金を払ってやろう」とまで約束されているのです。ここに私たちは、天の国を見出すのです。


「ふさわしい賃金」とは、このたとえの中では具体的に「一日一デナリオン」ということになるのですが、あとで見ますように、どの時点から働き出したとしても、「一日一デナリオン」という額は変わりません。それは果たして本当に「ふさわしい額」なのか。労働の対価として、言ってみれば働いた時間に対して「もらい過ぎ」にならないか、という懸念を感じることもあるでしょう。しかし、天の国においては、これでいいのです。天の国においていただける恵みは、誰にとってもそれは「ふさわしい」ものである。多過ぎもせず、少な過ぎることもないのです。


◯約束

いよいよ夕方となり、賃金支払いの時となりました。しかし、その段になって、こんな訴えが出されます。12節ですが、『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』というものでした。何が起こったのでしょうか。8節によると、「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った」とあります。何と、いちばん労働時間が短かった者から支払いの対象となったのでした。しかも、その受取額については、9節に「五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った」と報告されています。夕方までのちょっとの時間しか働いていない者でさえ、当時の一日の賃金分であった一デナリオンを受け取ったのだから、早くから来て働いていた自分たちはもっと貰えるに違いない。そのように思った人々の期待は、10節に表れています。「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった」(10節)。それがあって、公平ではないとの不平が出されたわけです。


しかし、振り返ってみると、主人がした労働者との約束は、先程も触れたように、あくまで「一日につき一デナリオン」であって、どの時点においても変更されていません。ですから、主人は約束を破ってはいないのです。特にあとから来た者をえこひいきしたわけでも、最初から働いていた人をないがしろにしたわけでもなかったのです。むしろ、たとえ最後になったとしても、その者にも同じ額を渡したかったのがこの主人でした。それが神様の憐れみの象徴であり、また天の国の持つ懐の広さであったのです。


今年のみ言葉には、週報に記されていますが、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(哀歌3章22節)とあります。まさにこれこそが、このたとえの中の主人によって象徴されている神様の憐れみです。しかも続く哀歌3章23節には、「それは朝ごとに新たになる」と言われていまして、神様の憐れみが尽きることがないだけでなく、それが毎日新しくされていくことが示されています。このたとえの中の主人が憐れみ深く、3時間毎に何度も何度も出かけて行き、仕事を得ることができないでいる人を憐れみ、声をかけ、招く姿は、そのまま私たちの神様の姿につながります。そして、ご自分のぶどう畑に来た人には、ふさわしい報酬を支払いたい。たとえ最後になったとしても、ちょっとしか働かなかったとしても、その労に報いたい。その憐れみが、にじみ出ています。このみことばを聞く私たちもまた、この大いなる神様の尽きることのない慈しみと憐れみを受けていくのです。


そのように、私たちも、いつ天の国に入ろうとも、たとえ最後になろうとも、いただく恵みに変わりはありません。それは実にありがたいことです。


最後に、この御言葉が、実際の私たちの人生の中で、またこの教会において、どう展開していくのかということについて触れておきたいと思います。ここから何をメッセージとして受け取るか、ということです。


たとえ最後になったとしても、同じ賃金を得た、というたとえによって、私たちは無用な頑張りから解放される、ということは期待できることだと思います。時に私たちは、何か神様のために貢献する、ということを考えがちです。特に今日のたとえでは、ぶどう畑での労働、というイメージが語られていましたので、私たちが神様のために働いて、神様の国の建設のために貢献するのだ、というような心持ちにならないとも限りません。しかし、神様は私たちの働きの長さといったことに関係なく、私たちをふさわしい恵みをもって報いてくださる方です。報われない人生、などというものはありません。どんなに最後に滑り込むかのようにして天の国に入った者でも、神様は報いてくださるのです。


このことは、神様の一方的な恵みに委ねる人生へと私たちをいざないます。私の頑張り主導の人生で、何なら自分の人生すら自分の意志や努力で何とかできる、と思って様々なものを抱え込んで生きる人生では決して見ることができない広々とした景色を、神様は見せてくださいます。その地点に憐れみによって入れられている私たちは、その憐れみに心動かされ、憐れみを受けた者として、今度はそれを周りの人に伝えようとし始めます。みことばを聞いた以上、もう私たちは今までの私たちとは異なるのです。本日の午後開催の三浦綾子読書会では、今『道ありき』を読んでいますが、三浦綾子が病床にありながら、神様の恵みに感動して、それを伝えようと、たくさんのはがき、手紙を書いて人々を励ました、ということを私たちは読むことができます。虚無的に生きるしかなかった彼女の周りに、いつしか多くの人が集まってくる。神様の恵み、憐れみは、そこまで人を変えるのです。これは人の努力によることではなく、神様の憐れみを受けた者ならではの、つながりを大事にした、新しい性質であり、生き方です。


教会として考えるならば、たとえ話の主人に象徴される神様の、何度でも出かけていって人を招く姿に倣い、「招く教会」を目指すことも一つの大事な方向性です。「つながりづくり」を重視して、そのつながりをもとに、それを生かして熱心に人を招く。コロナを経験し、その中で孤独や寂寥感を味わい尽くした人々の中には、必ずや、そのような招きを必要とし、心から求めている人々がいるはずです。たとえ最後になっても、天の国で味わう恵みは同じ。であるなら、最後の最後まで粘り強く、諦めないで、ひとりでも多く天の国に招きたいですね。


お祈りいたします。

天の父なる神様。

あなたの深い憐れみをこの天の国のたとえ話から知ることができました。

あなたの慈しみは絶えることなく、あなたの憐れみは尽きることがありません。

何度も何度も労働者を求めて出かけていくたとえ話の主人の姿を通して、

あなたは何度も人を招かれる恵みと憐れみに満ちた方であることを見せてくださいました。

その憐れみを受けて、天の国に招かれていることを感謝します。

憐れみを受けた私たちは、あなたによって変えられ、

私たちも憐れみの心を持ち、最後まで諦めずに人を天の国に招くものでありたいと願います。

そのような歩みへと、私たちを招き入れてください。

毎日の歩みの中で疲れ、不安と孤独に苛まれている人々に、神様の招きの手が届きますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日午後1時より第4回目の三浦綾子読書会です。『道ありき』を読んでいます。



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