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2023年9月10日  聖霊降臨後第15主日礼拝

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2023年9月10日
  • 読了時間: 10分

聖書交読 エゼキエル33章7〜11節(旧約p1350)

司)7:人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。

会)8:わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。

司)9:しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。

会)10:人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。

全)11:彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。


聖書朗読 マタイ18章15~20節(新約p35)

15:「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。

16:聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。

17:それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

18:はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

19:また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

20:二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」


説教 「祈りに関する約束」 


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


この夏の異常な暑さ、それから度重なる豪雨、こういったものを目の前にして、つくづく人間の非力さを感じるというのは割と共感できる、共通の感覚だったのではないでしょうか。また、世の中の流れも、私たちの満足行くような流れに必ずしもあるとは限らない中で、どうそれに向き合うか、黙認するのか何かささやかな抵抗でも見せるのか、もちろんこの暑さではその気力もないというのが本音だったと思いますが、そのあたりのことは難しいところです。今の時代、私一人で何かを変えられる、と思えるようなことがなにかあるか、と考えても、なかなか見つからない、というのが現実なのではないでしょうか。それなら、何人であれば立ち向かっていけるのか。何人あつまれば、世の中を変えていけるのか。そのようなことを考える時に、以外にも聖書は、「二人または三人」という驚くべき数を挙げてきます。それは普段、なかなか「多い」とは認識されない数かもしれない。しかし、今日の聖書箇所でそれはどのようなインパクトを持っているか、共に確認していきたいと思います。


〇二人または三人の証人・・・旧約聖書の背景

本日の福音書は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、」というショッキングなフレーズで始まっていますが、これは「社会的な悪」などではなく、個人間の具体的な罪のことを指していると思われます。今日は読んでいませんが、少し前のところを読むと、「兄弟をつまずかせる」といった話題が出ていますので、もしかしてそのようなたぐいの罪のことかもしれません。いずれにしても、相手と一対一のことが想定されているようです。だからこそ、「行って『二人だけのところで』忠告しなさい」とイエス様はおっしゃるのです。これは愛ある配慮です。時に正義感は「暴き出そう、明るみに出そう」という方向に極端に進みがちです。昨今のメディアの貪欲さもそのあたりに源がありそうですが、そうではなく、箴言10章12節にあるように、「愛はすべての罪を覆う」のです。


さてここで、「二人または三人」という人数が示されます。「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」とは申命記19章15節に基づく考え方で、相手を簡単に断罪せず、慎重に判断することを求めています。そのような大事な機会に、神様がお示しになられたのは、「二人または三人」という人数でした。「人数」と言うと多ければ多い方がいい、多いことこそ善である、力である、というイメージがあるかもしれませんが、神様の現実は異なります。私たちが頼りなく思い、それで十分なのだろうか、と訝しく思うような「二人または三人」という数を、たいへん尊いと思っていてくださる。そして、まことに頼りない人間の口だけれども、しかしそれが2,3集まっているに過ぎなくとも、それを信頼してくださって、それによって確かなことが得られる、と認めておられるのです。これは神様の恵みです。


ただ、イエス様ご自身は、十字架前の裁判で、2人の偽証人が出たことによって、最終的には十字架へと追いやられていったのでした。それは私たち人類の罪を示す確かな事実として、忘れないでおきたいと思います。


〇「教会」が出てくる二度目の箇所 

少し読み進めてまいりますと、


17:それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。


と言われています。「教会」が出てくる二度目の箇所です。一度目は、16章のペトロの立派な信仰告白の箇所で、私たちに神様が与えてくださる堅固な信仰告白の上にイエス様は教会を立ててくださり、陰府の力もこれに打ち勝つことはできないほどの力を持つ、信仰者の群れを表す言葉として使われていました。では、ここで言われる教会とは何でしょうか。イエス様は何を想定していたのでしょうか?この教会という言葉、福音書ではマタイの16章とこの18章だけに用いられている言葉なのです。


ここで考えておきたいのは、教会のことについてたくさんの記述があるパウロの書簡のいくつかは、マタイによる福音書よりも先に書かれている可能性がある、ということです。マタイによる福音書で教会という言葉が使われた時、それはまだ海のものとも山のものとも言えない、実態を思い浮かべることができない何かを表す言葉だったのではなく、すでにそこここにパウロ等によって教会が打ち建てられ、ある程度の現実を形作っていた可能性がある、ということです。


そのような歴史的経緯があったにせよ、よく調べてまいりますと、「教会はイエス様の弟子の団体である」といった言葉に出くわす場合があります。そうすると、先日マタイによる福音書の16章を手がかりに、教会を「信仰告白をなす信仰者の群れ」と定義したのと類似点はあるようです。ただ、この箇所の場合には、「教会に申し出なさい」という言葉遣いにあるように、何か訴えを受け付ける機関があるように思われ、16章にある「群れ」というイメージよりは、少し組織だった側面があるのかもしれません。


その教会において重要な真理として18節、

「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

と言われており、これもまた、マタイによる福音書16章、こちらは19節ですが、そこで語られたことの繰り返しになっています。「つなぐ、と解く 再び」、ということです。このように繰り返し出てくるには理由があるのでしょう。繰り返しによる強調、ということも十分考えられます。それだけ教会についての重要な真理、ということでしょう。確認ですが、「つなぐ」が禁じる、「解く」が許可する、という意味になります。何を禁じ、何を許可するのか、ということで、教会に来るのを禁じる、教会に来るのを許可する、と単純に読んでしまうと、イエス様の真意を見失うことにもなりかねません。そんなことをイエス様はおっしゃるのだろうか。この箇所の話題の流れでは、兄弟に対して罪を犯し、二人っきりのところで穏やかに忠告しても聞き入れなければほかに一人、二人連れて行って忠告しても聞き入れない、最後には教会に申し出ても言うことを聞かない、それならはその兄弟が来ることを禁じることができる、それが教会だ、ということになってしまいます。それがイエス様のみ心なのでしょうか。


今日の交読文の箇所、聖書日課の旧約の箇所ですが、その部分との繋がりを考えれば、罪を犯した兄弟を放っておかれる神様ではないことがわかってきます。少し振り返ってみましょう。


エゼキエル33章11節 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。


ここからしても、教会が、ある人を受け入れるのはいいとしても、ある人を禁じる、すなわち締め出す権威を持っている、とは解釈したくないですね。むしろ、16章のケースと同様、「教会に天の御国の福音がゆだねられている」ということで包括的に理解したいものです。イエス様が、教会という、地上にあるにも関わらず天国の門を開く機関を用意しておられるとは、恵み以外の何物でもありません。今年のみ言葉にある通り、決して絶えることのない慈しみであり、決して尽きることのない憐れみなのです。しかも、それは朝ごとに新しい、とまで言われているのです。


〇祈りにおける二人または三人=証人であること

また、今日私たちに示されている人数、「二人または三人」は、事を明らかにしていくだけでなく、祈りの約束にもつながっていきます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20節)という驚くべき約束がなされているのです。この場合の「二人または三人」は、言ってみれば「イエス様の証人」とも受け取ることができます。そのように、信頼して祈るご自身の証人に、イエス様はご自身を現してくださるのです。何と麗しい約束でしょうか。イエス様の臨在の約束は私たちに勇気を与えます。一つ前の19節も確認しておきましょう。


19:また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心

を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。


この、19節から20節にかけての約束の言葉には、下地となる教えがあります。ユダヤ教の文書に、「二人でも、共に座してその間に律法の言葉があるなら、神の栄光は彼らの間にある」と言われていたそうです。その言葉のエコーが、ここに響いています。


ここでの二人または三人の証人たちの集まり、あるいは弟子の団体ですが、これらも信仰者の群れとしての教会と言えないでしょうか。教会にはイエス様の臨在があり、共に祈り合うことができる。そして、そこには「どんな願い事であれ、かなえてくださる」という期待感があるのです。もはや二人または三人は少ないとは言えない、そのようなインパクトを抱えているのです。


ちなみに、私たちにとってとても近いようで若干の距離がある「イエス様の名によって」という条件のような言葉ですが、「イエス様の力によって」と置き換えて理解することも可能です。私たちは集まる時、イエス様の力によって集まるのです。そしてそれがたとえ地上で二人または三人という、人間の目からすると心もとない人数であっても、神様の前では、それは文字通り何でも願い事をかなえてしまうほどのインパクトを持つ数字です。これが、今日の御言葉に示されている、祈りについての約束です。今日、今週、私たちは私たちの心の中にあるイメージを書き換え、イエス様の名によって、すなわちイエス様の力によって、それに導かれて信仰者が集まる時、二人または三人は偉大な可能性を持つ数字だと捉えて、大いに希望を持って進んでまいりましょう。


お祈りいたします。

天の父なる神様。

御言葉から偉大なる約束を教えてくださり感謝します。

二人または三人が、大きな影響力を持ち、

物事を確かにし、

祈りを何でもかなえていくという希望を見せてくださいました。

困難の多い状況ではありますが、

そればかりに目を留めるのではなくて、

イエス様から与えられている大いなる約束に目を留め、

二人または三人だけであっても、

イエス様の力によって集められ、

信じる者の群れを成し、

事々祈り、約束の成就を見ていくことができますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日は礼拝後に聖歌隊のミーティングがあります。

・また、青年会主催の聖書研究会もあります。本日はイザヤ書(2)です。

・来週の説教は馬渕主事です。昼食会の後大掃除です。多数ご参加ください。





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