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執筆者の写真明裕 橘内

2023年8月6日  聖霊降臨後第10主日礼拝



聖書交読 イザヤ55章1~5節(旧約p1152)

司)1:渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。

会)2:なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

司)3:耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。

会)4:見よ/かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし/諸国民の指導者、統治者とした。

全)5:今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は/あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主/あなたに輝きを与えられる/イスラエルの聖なる神のゆえに。


聖書朗読 マタイ14章13~21節(新約p28)

13:イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。

14:イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

15:夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

16:イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

17:弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」

18:イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、

19:群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。

20:すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。

21:食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。




説教

「手にあるもので」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン



本日の福音書の箇所は、たいへん有名な、「5000人の給食」とも呼ばれる、4つの福音書どれにも登場するエピソードです。私たちにとって大事な気付きが与えられる箇所です。期待して内容を振り返ってまいりましょう。



洗礼者ヨハネの死について知らされると、イエス様は「ひとり人里離れた所に退かれた」、とあります。同じく神様のために働き、親戚同士でもあったため、悲しみもあったことでしょう。しばらく神様と祈る静かな時を持とうと思っておられたはずですが、群衆は遠慮がなかったようです。それだけイエス様のことを求めていたということでしょう。「方々の町から歩いて後を追った」とあります。だからといって、自分の目的を果たすことができなかった、とイエス様は嘆きませんでした。むしろ、ご自分を群衆の方に向けてくださったのです。


14:イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。



14節を読みますと、イエス様は、大勢の群衆を見て深く憐れんでくださった、と言われています。そして、そのみこころのままに、その中にいた病人たちをいやされたのです。夕暮れになるまで、熱心に、みことばを語り、いやしをなさいました。そのことに集中しておられたのです。その群衆の食べ物のことまで考えていた弟子たちの方が気配りがあるようにさえ感じられるところです。しかし、それだけ多くの人に触れたかったのがイエス様だったのではないでしょうか。また、もちろんこれからご自分でなさろうとしておられたことをわかっておられたこともあったと思います。先のことがわかっていたので、心おきなく教え、いやしをなさっておられたのです。


15節で、夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て、「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」と進言します。すると何とイエス様は、それを突っぱねるかのように、16節で「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」とおっしゃいます。



この時、人里離れた寂しい場所で、何千人もの群衆が、みことばを聞き、その中の病人たちはいやされ、その点では満足していたのです。しかし、物質的にはそうではありませんでした。やはり時間が来れば空腹を感じるのでした。自分たちも空腹を感じてきたのでしょう、弟子たちは先ほど読みましたように、まるで気遣いのできる人であるかのように、群衆を解散させ、めいめいが自分で食べ物を得るように導こうとしました。しかし、いくら気遣いができたとしても、それはイエス様のみこころではなかったのです。


イエス様は弟子たちに、群衆に食べ物を用意するように言いつけますが、それは別に、彼らに無理な要求をなさったわけではありませんでした。彼らにはできる、群衆のために食事を用意することができる、と思っておられたのです。むしろ、その可能性を閉ざしてしまっていたのは弟子たち自身でした。



「あななたちで用意しなさい」と言われても、彼らは困惑するばかりで、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と言うのみです。彼らには、自らの手にあるものが必要を満たすには十分でないと思っていました。この状況を解決するには、別の何かが必要だと思っていたのです。


これが、私たちの認識の限界です。ここでは「空腹」ということから、世界の食糧問題について考えることになるかもしれませんが、やはり私たちの手に余る大きな課題として、私たちは別のどこかに解決を探し求めることが多いかと思います。また、今日は広島に原爆が落とされたことを痛みを持って思い返す日でありますが、平和問題に関しても、昨日この場所でチャリティーコンサートが開かれましたが、現段階で解決の見えていないウクライナとロシアの戦争のことを考えれば、何か私たちの手にあるもので解決できるのだろうか、と思わざるを得ません。大体において、私の手にあるものでは足りない、だからほかの所に解決を求める、ということが多いのではないでしょうか。 



しかし、イエス様は違いました。彼らに「それをここに持って来なさい」とおっしゃると、ご自分で五つのパンと二匹の魚をお取りになり、天を仰いで賛美の祈りを唱えられたのです。これらのもので十分である、と思っておられた証拠でした。弟子たちの手にあるものを認め、喜んで、それゆえに神様を賛美してくださるイエス様が、そこにおられます。ここで「賛美する」とは、「祝福する」という意味でもあります。イエス様が、この場においてそれは足りない、と思っているようなものを、祝福されることがあるでしょうか。また、ヨハネによる福音書に記されている、この同じ出来事においては、イエス様はここで「感謝の祈り」をささげた、とあります。ヨハネによる福音書の6章です。弟子たちには足りない、十分ではない、と思われた五つのパンと二匹の魚を、イエス様は感謝して受け取られ、お祈りをなさったのです。いかに彼らの持っていたものを喜んでおられたかがはっきりわかります。


続く20節にはこうあります。


20:すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。



どこかほかの所に探しに行かなくても、実は手にあるもので、十分である。それが、この箇所の伝えるメッセージです。ここに、神様の思いとのすれ違いが見られます。イエス様は、弟子たちは群衆のために食事を用意することができる、と思っておられました。しかし、肝心の弟子たちはというと、手にあるものを足りない、十分ではない、と思い込んでいて、「これではなく別のもの」を求めていました。これは、私たちの日常にも起こることではないでしょうか。イエス様はいつも私たちに必要な物を与えてくださるので、あなたがたは満たされている、十分持っている、とみなしておられる。それに対して、私たち人間の側が、いつも何か満たされたい思いを持っていて、「いや、私の手にあるものでは足りません、他の所に探しに行かなくては」と言うのです。私たちは、私たちの手に与えられているものを本当の意味でわかっていない。どんなに多くを与えられているのか、気付いていないのです。


みことばはこう語ります。「わたしの恵みはあなたに十分である」。これはあの有名な、コリントの信徒への手紙二の12章9節のみことばです。ここに真理が示されているのです。きょろきょろとどこか別のことろを探すのではないのです。むしろ、自分の手にあるものを見つめるのです。実はそこに、すでに十分恵みは注がれているのです。



21:食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


本日の福音書の出来事に戻りますが、実際に、男だけで5000人もいたような大群衆が、十分に満たされて、余りあるほどでした。私たちは、自分たちの手にあるものでは足りない、と思いがちですが、イエス様は「それで十分である」とおっしゃってくださいます。私たちの手にあるもので、私たちの周りにある必要を満たすことができる可能性を、イエス様は与えてくださいました。必要なのは、「気付くこと」です。私の手には十分なものが与えられていることに気付くのです。あとは感謝して、主を賛美するだけです。


お祈りいたしましょう。

天の父なる神様。

この朝、御言葉に触れることが出来まして、感謝します。

いつも私たちの思いを越えて、豊かな気づきを与えてくださって感謝します。

足りない、足りないと思って、いつも別なところばかり眺めている私たちに、

既に手にあるものを示してくださいました。

私たちはいつも思います。

「私の手にあるものは、五つもパン十二匹の魚だけだ」。

しかし、それで十分だ、既に持っているではないか、

そのように、あなたは語りかけてくださいます。

今朝も、朝ごとに新しいというあなたの慈しみと憐れみによって、

あなたに満たされていることに気付かない私たちの罪を赦していて下さいます。

そのことの確証となる聖餐式も、用意されていること、感謝します。

赦しの恵みをいただき、心満たされ、

私の恵みはすでに十分なのだ、と満ち足りて歩めますように。

具体的な日々の生活における困難をも、

どうかあなたが取り除けてください。


イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン



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・本日は昼食会があります。そのあと役員会です。







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