2023年8月27日 聖霊降臨後第13主日礼拝
- 明裕 橘内
- 2023年8月27日
- 読了時間: 10分
聖書交読 イザヤ51章1~6節(旧約p1146)
司)1:わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。
会)2:あなたたちの父アブラハム/あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び/彼を祝福して子孫を増やした。
司)3:主はシオンを慰め/そのすべての廃虚を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。
会)4:わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
司)5:わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ/わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき/わたしの腕を待ち望む。
全)6:天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。
聖書朗読 マタイ16章13~20節(新約p31)
13:イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
14:弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
15:イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16:シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
17:すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
18:わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
19:わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20:それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
説教 「堅固な信仰告白」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
まだまだ暑い日が続いております。今日も変わらず一緒に福音書を開いております。
今日の箇所の背景にあるフィリポ・カイサリア地方という場所について、まず確認しておきましょう。この地方は、ガリラヤ湖の北40キロほどの所にありました。ローマ皇帝カイザルに敬意を表して「カイサリア」という名となったと言われています。そのことから、皇帝崇拝の地であるとともに、もとはと言えば「パニアス」という名前の町で、パンという名の神を祭る異教の町でもありました。そのような偶像礼拝の場所で、イエス様は信仰の表明を求めたのです。その次第を一緒に見てまいりましょう。
確認ですが、ここで「人の子」とは勿論、イエス様のことです。新約聖書でイエス様を表わす最も重要な言葉とされています。この言葉は、福音書では81回、マタイでは30回用いられています。福音書では、全部イエス様が語った言葉の中に出てきます。旧約聖書にも登場するのですが、例えば詩編では、単に人類の一人、という意味合いで使われているようです。それに対してエゼキエル書では、預言者を指していると言われます。では新約聖書の「人の子」の背景は何であるか、ということになりますと、ダニエル書7章13節の「『人の子』のような者」という用語が挙げられます。そこに、イザヤ書53章に代表される、「苦難の主のしもべ」のイメージが重なったと言われます。そこから、「人の子」という言葉で「救い主の苦難」を表わしている、という説もあります。
イエス様は、周囲の人々がご自分のことをどのように理解しているか、弟子たちに尋ねてみられました。そうすると、まずは「洗礼者ヨハネだ」という人がいる、という答えがありました。イエス様の道備えとして現れた洗礼者ヨハネは、この時すでに命を奪われているものの、自分たちの時代に現れた、ということで身近な存在だと思われていたのでありましょう。エリヤもエレミヤも、いくら民族の記憶として印象的であったとしても、過去の存在でありました。それでも、「エリヤだ」という人もいました。エリヤは旧約聖書の列王記上17章から列王記下2章までに現れる、力強い預言者でした。ほかに「エレミヤだ」と言う声もありましたが、彼は旧約聖書のエレミヤ書でよく知られる預言者でした。このエリヤとエレミヤ、前者はどちらかと言うと行動によって主なる神様のメッセージを伝える、後者は言葉によってメッセージを伝える、という違いがあるのですが、イエス様の当時、このふたりの教えに、イエス様の教えとの共通点があると思われていたようです。また、一人目の洗礼者ヨハネも含め、これら3人は、いずれもメシア出現前に再来すると思われていました。最後に、「預言者の一人だ」という声もあって、これは今となっては名前は特定できないものの、当時知られており、やはり再来が期待されていた預言者、ということになるでしょう。
このことから、メシアに対する期待は大きかったことがわかるのですが、この時点では、「預言者」というイメージの方が強くて、イエス様自身をメシアだと思っている人はいなかったようですね。そして、こちらの答えの方は、複数の弟子たちが口々に、即答しているようでもあります。
〇ではあなたがたは?
その直後、イエス様は弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と重ねて問うことで、他の人々ではなく、弟子であるあなたがたはわたしのことをどう捉えているのか、と尋ねようとされました。「あなたがたは」、という複数への問いに対して、代表してペトロ一人だけが答えています。ほかの弟子たちが、先ほどとは打って変わって口ごもるのに対し、彼の答えは迷いがなく、明確です。その答えは、「あなたはメシア、生ける神の子です」というものでした。「メシア」はすでに先ほど来使っている言葉ですが、「油注がれた者」という意味で、原文では「キリスト」と書かれています。すなわち、救い主のことです。併せてペトロは「イエス様は生ける神の子である」との信仰も表明しています。
「生ける神の子」という言い方には、イエス様がいつも共にいて働いてくださる方、という印象があります。これはイエス様と同じ時代に実際に共に歩んでいたペトロならではの感覚もあるでしょうが、今を生きる私たちにとっても、大事な捉え方だと思います。イエス様は今も生きておられて、私たちのために働いていてくださる方なのです。
〇この岩の上に
この答えに対し、イエス様は「シモン・バルヨナ」、すなわち「ヨナの子シモン」と呼びかけ、「あなたは幸いだ」とおほめになった上で、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とまで言ってくださいました。ご存知のように、この御言葉を「ペトロの上に教会を建てる」、という意味で捉えている人々もいることは確かです。カトリック教会がそうです。しかし、むしろここでの書き方は、ペトロのなした信仰告白の上に教会を建てる、という意味にとることができます。そもそも、ここで何かペトロを特別に偉大な存在と捉えることはできません。イエス様をメシア、キリスト、救い主として告白できたのは、ペトロの知識ではないのです。あくまでこれは天の父によって明らかにされたことであって、外からの知恵にほかなりません。このように私たちも、自分の鋭敏な宗教感覚や修練によってイエス様が救い主であるとわかるのではなく、外から神様によって知らされて初めて、イエス様を救い主として信じることができるのです。
しかも、ここで言われる「教会」は、現在考えられるような組織・団体としての教会よりも、イエス様を救い主と信じる群れのことでしょう。ここに、教会のあり方が示されています。天の父によって与えられる岩のような堅固な信仰告白の上に、教会は形成されるのです。教会を、信じる人々の群れであると捉えるならば、目に見えない教会の広がりを私たちは知ることになります。この御影ルーテル教会であるならば、この場所に集まる信仰者の群れだけではなく、園田、そして淡路島にも、信じる人々の群れが存在します。また、礼拝の最初の祈りでは、しばしば同じ地域にある主の教会の礼拝のためにも祈ります。それは、場所や建物の制限を越えて、同じ主にある兄弟姉妹である、だから言ってみれば同じひとつの信じる者の群れなのだ、という受け止め方の表れでもあります。また、目に見えない、既に天に召された兄弟姉妹の群れのことも私たちは思い浮かべることができます。私たちは自分たちの群れが小さいなどと肩身の狭い思いをする必要はありません。そのような広がりの中にいるのです。
〇教会の強さ
続けて、その教会の強さも示されています。「陰府の力もこれに対抗できない」とまで言われています。「陰府」とは死者の世界のことですが、その力とは、人を絶望に陥れ、恐れさせる死の力、またそれを利用して人間をがんじがらめにしようとする悪魔の力のことでもあります。続いて「天国の鍵」が出てくるので、天国に対抗する力と考えることもできるでしょう。そのような力も、教会には対抗できない。すなわち、勝つことができないのです。これは、どんな状況でも、どんな時代であっても、天の国の福音、良い知らせを告げることができる、ということを示しています。この日本のような異教社会であっても、この時、皇帝崇拝や偶像礼拝がなされていたフィリポ・カイサリア地方のような場所でも堅固な信仰告白ができたように、導きによって信仰告白ができるのです。日本だけが特別なのではありません。意外にも、日本と聖書の世界には、共通項があるのです。どちらにも、異教的な土壌はあるのです。それでも、信仰告白はできるのです。
「天の国の鍵」は、「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とまで言われるほどのものですが、「つなぐ」「解く」という言葉は、私たちが抱くイメージと逆であるので注意が必要です。「つなぐ」が「禁止」、「解く」が「許可」を意味しています。つながりを大事にし、つながりづくりを進めようとしている中で、「つなぐ」の方が良いイメージがあるのですが、こちらが「禁止」の意味なのでご注意ください。この、「つなぐ」とか「解く」とは何を表しているのか。ひとことで言えば、「天の国の真理を伝え、天の国に入る特権を与える」ということになるのでしょう。このような大事なことは、陰府の力等の外圧などによってまったく制限されることはない、ということなのです。
〇メシアであることは秘密
最後に、なぜイエス様が「御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」のか、少し考えてみたいと思います。むしろ、せっかくの機会なのだから、思いっきりこの時からご自分がメシアであるということを広めていったらよかったのではないか。しかし、信仰もなく同調する者が現れないために、イエス様はこのことを秘密にするよう命じられたと言われます。すなわち、信仰とは関係ない次元でイエス様はメシア、救い主である、と言い広められ、それによって、信仰を持たずに、イエス様が約束のメシアであると盛り上がり、騒ぎになることを望まれなかったわけです。むしろ大事なのは信仰である、ということです。堅固な信仰を与えられ、イエス様を救い主、そして生ける神の子と告白する私たち一人一人であるようにと願うものです。そのような人々の群れこそが、場所や人数に関係なく、教会なのです。
お祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちに、イエス様をメシア、救い主、そして生ける神の子であると告白する信仰をお与えくださり、感謝いたします。時代的にも、社会的にも、イエス様を救い主だと信じやすいかと言われれば、そうではない、と言ってしまいそうな状況ではありますが、私たちの知恵や勇気といったところとは関係なく、あなたがいつも、私たちの口に、イエス様を信じる信仰告白の言葉を与えてくださいます。
今週も、暑さのゆえに身の置き場に困るような毎日になるかもしれませんが、そのような中でもなお、勇気を失わず、地に足を付けて、イエス様を信じ続けることができますように。また、そのように信じる者の群れである教会を、どうか今週もお守りください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・来週はすこやか感謝会(昼食)があります。
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