聖書交読 詩85章9~14節(旧約p922)
司)9:わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
会)10:主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
司)11:慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし
会)12:まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。
司)13:主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。
全)14:正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。
聖書朗読 マタイ14章22~33節(新約p28)
22:それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
23:群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
24:ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
25:夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
26:弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
27:イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
28:すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
29:イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
30:しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
31:イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
32:そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
33:舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
説教
「私にもできる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
先週の福音書の箇所は、たいへん目覚ましい、大勢の群衆がイエス様によって満たされた奇跡について語っていました。それにくらべると、本日の箇所は、かなり地味な始まり方をしています。しかし、ここに、私たちが地上でどのような存在なのか、イエス様が何を望んでおられるかが示されていますので、一緒にみことばに聞いてまいりましょう。
5000人以上もの人々が5つのパンと2匹の魚だけで満腹し、それどころかたくさんの余剰も出た出来事はまさにイエス様の栄光を現す奇跡であり、そのときのイエス様の対応次第では、この時点で大いに脚光を浴びることもできたはずです。もう夕刻であったという時間的制限はあったものの、もっと群衆をご自分のもとに留めておいて、ご自身の卓越性を披露し、「まさにこの方こそ約束のメシアではないか」と印象付けることも可能でした。しかし、イエス様はそのような対応をなさいませんでした。むしろ、せっかく満足した群衆を、一生懸命解散させようとするのです。弟子たちはこの対応を、どう思ったのでしょうか。しかし、それに意見する間もなく、そもそも彼らは強いて舟に乗せられ、ガリラヤ湖の向こう岸へと行くように仕向けられたのです。これはあたかも、イエス様が、ご自分で群衆を解散させられることに対して何も口を挟まれないようにしているかのようでした。ご自分の時を知っておられるイエス様は、人間的には「今が好機」と思われるような時でも、ご自分を現わそうとはなさらないのです。
このことも含め、本日の福音書の箇所においては、イエス様の見事な対応力が描かれています。弟子たちはガリラヤ湖で舟に乗っていましたが、逆風のため波に悩まされていました。その時、イエス様が湖の上を歩いておられるのを見て恐れ、叫び声を上げるほどでした。その時、イエス様はすぐに弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とお声をかけてくださいました。それで見事、その状況を収められたのです。これと同じことが記されているマルコ6章48節によると、実際イエス様は、「そばを通り過ぎようとされた」とあります。もともと、彼らの舟の所に行くのがイエス様のご目的ではなかったのです。しかし、ここがイエス様の対応力ですが、弟子たちが困っている、とあらば、すぐ臨機応変に行動を変えられるのです。何らかのみこころで、本当は彼らの所を通り過ぎようとなさっておられた。でも、必要とあらば、すぐにそれを変えて、彼らの所に行って「安心しなさい」と声をかけてくださるのです。
そのことで深く安堵し、湧き上がる感謝から、ペトロが「水の上を歩いてイエス様のもとに行きたい」と言ったとしても何の不思議もありません。ペトロはこの時、軽はずみな気持ちでこのように言ったのではないでしょう。思慮深い言葉とまでは言えないかもしれませんが、一時の恐怖で心が縮こまった緊張状態から、イエス様の温かく優しい「安心しなさい」との言葉を聞いてそれがゆるんだ状態になるまで、本当に大きな心の変化を経験しています。その、一気に緊張が解けたことでもたらされた深い安心感が心に喜びをもたらし、そのような思いを与えてくださったイエス様に対して大いに心を開き、ペトロはそのイエス様のもとに行きたいと思い、そればかりか、そのためには私も水の上を歩くことができる、と思ったのです。
またこの時にも、イエス様はその思いをしっかり受け止め、「来なさい」と招いてくださることでしっかり対応してくださっています。ペトロの中に自然と沸き起こった「私にもイエス様のように水の上を歩くことができる」という思いと、それを大事にしてくださったイエス様の姿です。
この時のペテロが抱いた、「イエス様が水の上を歩くことができたのであれば、私にもできる」という純粋な思い、あるいは信仰を、今日は大事にしたいと思います。普段なかなか私たちは、イエス様のなさったことを見て、それと同じことが私にもできる、と思うことはないと思います。例えば、イエス様がなさるいやしを見て、私にもできる、とは思い難い。それはイエス様だけがなさることができる特別なわざだ、と考えます。しかし、実はイエス様は、ご自身の弟子たちを含め、私たち信じる者が、この地上にあってイエス様と同じような存在であることを願っておられました。ヨハネの手紙第一4章17節には、「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」という貴重な、確信を持てるみことばがあります。事実、イエス様の当時、弟子たちを使徒として派遣するに際し、汚れた霊に対する権能をお授けになり、病人をいやし、死者を生き返らせ、悪霊を追い払うように命じておられます。マタイの10章冒頭にそのように記されています。単純に、イエス様にできることは私たちにもできる、ぐらいの信仰をもって生きてほしい、とイエス様は思っておられたのではないでしょうか。そのイエス様にとっては、ここでペトロが、イエス様が水の上を歩くことができたのなら私にもできる、と思って水の上を歩かせてください、と願ったことはみこころにかない、大いに喜ばれたのではないでしょうか。何を思い上がったことを願うのか、などとは決して思われなかったはずです。
私たちも、謙遜になり、イエス様との決定的な違いをわきまえることはもちろん重要であるものの、イエス様におできになったことが私たちにもできるはずだ、と積極的な心持ちになることは、それ以上に重要なことです。なぜならば、私たちはそのような存在として、この世にあることをイエス様に望まれているからです。先ほどご紹介した、ヨハネの手紙第一4章17節の、「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」というみことばのとおりです。イエス様が救いのみわざをなしとげて天に帰られている今、この地上で誰が、悪霊を追い出し、いやしを行い、御国の福音を伝えるのでしょうか。心にイエス様の霊を宿す私たちこそが、それをすることができるのだ、ぐらいの積極的な信仰で生きることはとてもたいせつなことなのです。鍵は、ペトロが、イエス様が命令してくださったら、私にもできる、と思ったことでした。私たちも、イエス様が命じてくださったら、できるのだ、という信仰で生きたいものです。
とは言うものの、この物語では、残念ながら、結果としてはペトロは風に怖気づいて沈みかけるということになるのですが、その時にも、イエス様は即座に手を伸ばされ、ペトロをつかんで助ける、という対応を見せておられます。イエス様はすぐそばで、いつも助けてくださるのです。これは実を言うとイエス様と私たちとの関係の縮図です。私たちはイエス様の救いに感謝して、イエス様に近づきたいと思い、あこがれを懐いてイエス様と同じように歩みたいと強く願うのです。それゆえに、イエス様と同じことが私にもできるとして、一歩踏み出すのです。ところが、訳もなく見えない風に怖気づいて、いったい何を考えていたのだろう、この私にイエス様と同じように水の上を歩いたり、いやしを行ったりすることができるはずがないではないか、と思い始める。その時点で、私たちもまたペトロ同様、沈み込み始めるのです。その時こそ、差し伸べられるイエス様の御腕を感じるチャンスとなります。こんなに信仰の薄き者でもあわれんで助けてくださる、ということを実感するのです。逆に言えば、一歩水の上に足を踏み出すことがなければ、このようなイエス様の素晴らしい助けを経験することもありません。コンフォート・ゾーンとも言われる、自分にとって安全な場所、ここにいたら自分の弱さを味わうこともなければ、傷つくこともない、という領域に踏みとどまっているばかりでは、実際はそこから一歩踏み出した時に得ることができる助け、支えを経験することはできないのです。
このように、本日は群衆や弟子たちに対するイエス様の対応を見てきましたが、最後に、このようなイエス様の姿を見ての、弟子たちの対応を見てみたいと思います。
33:舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
「舟の中にいた人たち」とは、弟子たちのことでしょうけれども、これら一連のイエス様のみわざを見て、イエス様を拝んでいます。拝むとは尊敬を表す行為で、ひれ伏すという体の動きになることもありました。いずれにしても、「本当に、あなたは神の子です」と、イエス様が神様であることを認めた行動だったのです。でなければ、人を神であるかのように拝むことを徹底的に嫌っていたユダヤ人として理屈に合いません。イエス様の奇跡だけでなく、どのように私たち人間に対応してくださったか、というところに心動かされて、イエス様を神様だと認めるようになったのです。私たちに、「私にもできる」と思わせてくださるイエス様。そのイエス様を信じて一歩踏み出して、たとえ失敗しても、すぐ手を差し伸べて助けてくださるイエス様。そのような姿を見たら、私たちはこのイエス様を心から尊敬し、信じずにはいられません。
お祈りいたしましょう。
今日も日ごとに新しい恵みを与えてくださるイエス様。
あなたの御名を賛美します。
日頃、律法の要求にがんじがらめにされ、
「私にはできない」と思いがちな私たちに、
「私たちにもできる」という可能性を示してくださるのは、
私たちにとって良い知らせ、福音に他なりません。
大胆にあなたを信じて、私にもできる、と確信して、
歩ませてください。
また、それでたとえ失敗するようなことがあっても、
あなたはいつもそばにいて手を差し伸べ、
私たちが沈み込むことのないようにしてくださいます。
そのようにいつも対処してくださるあなたを尊敬し、信じていきます。
今週私たちが向き合う一つ一つのことにお働きくださり、
みこころを示し、いつも助けをお与えください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・先週礼拝の中で、馬渕主事の就任式がありました。来週は馬渕主事の説教です。
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