聖書交読 ゼカリヤ9章9~12節(旧約p1489)
司)9:娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。
会)10:わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。
司)11:またあなたについては/あなたと結んだ契約の血のゆえに/わたしはあなたの捕らわれ人を/水のない穴から解き放つ。
全)12:希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。今日もまた、わたしは告げる。わたしは二倍にしてあなたに報いる。
聖書朗読 マタイ11章25~30節(新約p20)
25:そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
26:そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
27:すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
28:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
29:わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30:わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
説教 「もし疲れたら」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
現在各地で大雨が続いており、それでなくてもこの時期、天候不順による体調不良にも陥りやすい中、疲れを覚えることが多いです。実際に被害に遭われた方、現在被害に遭われている方には、この先どうなるだろうかという不安が重荷となって覆いかぶさってきていることでしょう。また、片付けの作業等で相当な疲れを覚えておられる方々もあるのではないでしょうか。
そういった意味では、本日の福音書の箇所では、誰もが、28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエス様の御言葉に慰めを見出すのではないでしょうか。その御言葉に行く前に、前置きにもなっている25節から27節の御言葉も確認しておきましょう。
まず、25節を振り返ってみます。このような御言葉でした。
25:そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
この節は「そのとき」という言葉で始まりますが、洗礼者ヨハネについて群衆に教え、悔い改めない町について叱責した後のことです。この時から、一転してイエス様は父なる神様を「天地の主である父」と呼び、その方に向かって語り出します。内容は祈りであり、賛美です。
続いて「これらのこと」とありますが、それは直前に語っておられたことを指すでしょう。悔い改めない町について叱っておられたことです。そこでは、自分が選民だと思って優遇されると思い、油断していると、実は異邦人の町の方が、容易に悔い改めていたはずだということが語られていました。そのようなことは、プライドある「知恵ある者や賢い者」にはなかなか理解しにくいことでした。ですから、イエス様はそのような人々にはこの真理は「隠されていた」、と教えます。むしろ、幼子のようにへりくだった者が、そのような真理を受け止めることができる、としたのです。
26節では25節で語られていたことが肯定され、「御心に適うことでした」と断言されています。世の賢い人ではなく、身を低くした者に父なる神様は真理を明らかにしてくださる、という教えです。
27節になると、イエス様は「すべてのことは、父からわたしに任せられています」と、ごく自然に、また健全に、ご自分の重要さについて認めておられます。この発言は、マタイによる福音書の最後、28章の18節の御言葉に似ています。そちらでは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」となっていました。もちろん、それは父なる神様から授かった権能です。「父のほかに子を知るものはない」とは、誰も人間の知恵で、イエス様のことを知ることはできないことを示しています。そして、「子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とは、全ての人はイエス様を通してのみ、父なる神様に出会うことができる、ということを示しています。まさに、あの有名なヨハネによる福音書にある、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14章8節)という御言葉に通じる教えです。
ここでは、私たちが父なる神様とつながりを持つことに関して、イエス様に鍵があることが語られています。イエス様がおられるからこそ、イエス様に示されて私たちは父なる神様とつながりを持ち、父なる神様について、深く知るようになるのです。先ほどご紹介したヨハネによる福音書では、この唯一の父なる神様を知ることが永遠の命である、と言われています。イエス様に導かれて父なる神様を知る者は、永遠の命の門口に立っているのです。
そして、その前置きがあって、この28節があるのです。改めて読んでおきましょう。
28:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
ここで言われているのは、イエス様に示されて父なる神様を知り、永遠の命をえるようにされた者に与えられる休息、とも言えるでしょう。ここでイエス様は再び周りにいる群衆に向き直り、彼らに語りかけられます。
では、この印象的な御言葉について、まず最初の「疲れた者、重荷を負う者」という言葉から、味わっていきたいと思います。
冒頭で、大雨の被害のことについて触れましたが、このことだけでなく、私たちを疲れさせるものはたくさんあります。ですが、イエス様の当時の人々がこれを聞いて思い浮かべた「疲れ」また「重荷」とはどんなものだったのでしょうか。
近年では、私たちを疲れさせる様々な病気が知られています。イエス様の当時も、今とは異なるでしょうが、多くの人々が、病気に苦しみ、それによって疲れ、重荷を負っていたことでしょう。現代日本では、「心が折れる」という表現を耳にしますが、イエス様の頃も、そのようにしか表現できないような心の悩みを経験していた人々もあったことでしょう。また少なからず、ファリサイ派の人々や律法学者たちによって押し付けられた律法の重荷に苦しみあえぎ、心の疲れを覚えていたのではないでしょうか。
この律法ですが、「守る、守らない」のこともそうですけれども、律法を広い意味で「私たちへの要求」と捉えるならば、この世の中に、昔も今も、私たち人間への要求は数限りなくあり、それが重荷となり、疲れを引き起こしている現実もあろうかと思います。数週間前に、私たちは印象深く、イエス様の「収穫は多いが、働き手が少ない」ということばを耳にしました。それになぞらえるわけではないのですが、「要求は多いが、評価は少ない」というのが、昔も今も変わらない、私たちの生きる世界、というものなのではないでしょうか。親は親で、親たるもの、こうあらねばならない、という要求にさらされ、子は子で、こうあるべきだ、という理想像をつきつけられる。社会で生きていくには、それぞれが役割を振り当てられ、それを果たしていくよう要求される。そのような中で、それに見合うような評価が常に与えられているかというと、要求が多い割には、「よくやっているね」「十分です」という声はなかなか聞こえてこない。そのことに疲れを覚えるということも、あるのではないでしょうか。
しかし、もし疲れたとしても、イエス様が休ませてくださるとは、何と安心なことでしょう。「だれでもわたしのもとに来なさい」というイエス様の招きの声が聞こえます。この招きを受けて、私たちは、もし疲れたら、イエス様のもとに行くことができるのです。
その意味でも、疲れた時に安らぎを得る鍵は、イエス様にあることがわかります。イエス様のもとに「行く」とは、言い換えればイエス様のもとに「帰る」ということでもあります。私たちはいるべきところに戻って、休みを得るのです。本日は礼拝の中で、皆さんで聖歌の404番を賛美しました。後半には「帰れや」という歌詞があり、それを繰り返し賛美します。イエス様の、わたしのもとに帰ってきてほしい、という強い願いが感じられるような聖歌です。その願いを受けて、私たちはイエス様のもとに帰るのです。そこが、私たちの本来の居場所であるからです。
私たちが本来の居場所に戻る時、深い安心感が私たちを覆います。ここは私のいるべきところではないのではないか、と思ってイエス様から離れて過ごす時の緊張感からはもう解放されました。イエス様が私たちを休ませてくださるとは、私たちを真の安息へと招き入れてくださることと同じです。神様は、天地創造のすべてのわざを終えられて休まれたあの7日目に基づく安息日を提示して、神様の民に安息のことをあらかじめ知らせておかれましたが、その神様から離れた人間たちは、実際にはその安息の中に留まり、それを受け取ることができませんでした。しかし、「わたしのもとに来なさい」という優しい招きの言葉によって、いよいよ、すべての束縛から解かれて、イエス様が与えてくださる、真の安息に導き入れられるのです。
またイエス様は、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とも勧めておられます(29節)。何もなしに、ただ雰囲気で安らぎが得られる、というのではありません。イエス様のもとに帰り、イエス様から学ぶことが、求められているのです。ただ、そのようにすれば、「あなたがたは安らぎを得られる」と確約されていますから、決して私たちには重荷になりません。私たちはもし疲れたら、イエス様のもとに行き、休むことができ、安らぎを得ることができるのです。
なぜ、イエス様の軛を負い、イエス様に学ぶことで安らぎを得られるのか。その理由を、イエス様は「わたしは柔和で謙遜な者だから」と説明しておられます。先ほど、父なる神様が、実は異邦人の方こそ悔い改めに近い、という真理を、幼子のように身を低くする者たちに明らかにしてくださった、とイエス様が賛美されていたことをご紹介しました。そのように、身を低くする者たちが新しく造り出す世界、というものがあるのです。父なる神様の前に身を低くし、真理を啓示される人々。そして、自ら「わたしは謙遜な者だ」とおっしゃるイエス様。ここには共通点があります。古い、要求ばかりされる世界から離れ、新しく、謙遜で、私たちに無理な要求をせず、私たちを正しく評価してくださる方のもとに行くなら、私たちの心には安らぎが来るのです。
それでも、30節で「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われてしますと、まだ何かしなければならないの、と新たな重荷に感じてしまうことがあるかもしれません。そこで、29節から登場している「軛」という言葉の理解が必要です。これは、農作業がしやすくなるように、その負担を減らすための道具であると言われています。イエス様は、私たちに軛を負わせて、私たちの負担を増やそうなどとは全く思っておられません。むしろ、とかく生きにくい世界で生きる私たちのために、その負担を少しでも減らそうと、私たちを助ける目的で、軛を用意しておられるのです。また、「わたしの荷は軽い」と、重荷にはならないことを明言しておられます。
イエス様は、私たちが身を低くして生きて、イエス様の謙遜と出会うように導いておられます。また、私たちに父なる神様を知らせ、永遠の命という究極の安らぎを与えようとしてられます。その私たちが、疲れ、重荷を負う時、いよいよイエス様は、その安息によって私たちを休ませようと、「私のもとに来なさい」と招いてくださいます。また、私たちから負担を取り除こうとしてくださいます。日々重くのしかかる様々な要求に疲れ果て、「要求は多いが、評価は少ない」といった人生の荒波の中でもがく私たちのために、イエス様は十字架にかかって、「ここまであなたのことを愛しているのだ」と、私たちへの高い評価を明らかにしてくださいました。そのことだけでも、私たちは認められているのだ、と心に慰めと励ましを受け、私たちは重荷から解放されます。実際に、イエス様の十字架によって、罪の重荷からも解放されています。その私たちは、環境的にはなかなかに生きづらい中ではありますけれども、常に「休ませてあげよう」と気遣ってくださる優しいイエス様の御声を聞きながら、私たちには究極の安息が待っている、ということを希望として、今日も、また今週も、歩み続けていくのです。
お祈りいたしましょう。
恵み豊かな父なる神様、
イエス様を通して、あなたにお出会いできて、
感謝いたします。
あなたのご用意くださっている究極の安息に、
イエス様を通して与ることができること、
ありがとうございます。
そのことがあるから、イエス様は自身をもって、
私たちを休ませてあげよう、
と言うことができたのでした。
私たちは簡単に疲れ、
様々なことで重荷を負いますが、
その私たちに安息を与えてくださること、
感謝いたします。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
【報告】
・本日は、三田フェローシップ・キリスト教会より、黄(ファン)宣教師が証しに来てくださいました。これからの日本での宣教のためにお祈りしましょう。
・本日礼拝後、青年会主催の聖書研究会があります。
・来週は神学校日礼拝で、有木先生がお越しくださいます。
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