聖書交読 列王記上3章5~12節(旧約p531)
司)5:その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。
会)6:ソロモンは答えた。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。
司)7:わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。
会)8:僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。
司)9:どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
会)10:主はソロモンのこの願いをお喜びになった。
司)11:神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。
全)12:見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。
聖書朗読 ローマ8章26~39節(新約p285)
26:同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
27:人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
28:神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
29:神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
30:神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
31:では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
32:わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
33:だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
34:だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
35:だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
36:「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
37:しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
38:わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
39:高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
本日、御影ルーテル教会の説教は馬渕教会主事です。ここには、橘内師の第一礼拝・三田フェローシップ・キリスト教会での説教を掲載します。聖書箇所は交読文の箇所です。
「ソロモンの謙遜とその限界」
皆さんおはようございます。たいへん暑い日々が続いておりますが、このように今日守られて、皆さんと一緒に主を礼拝することが出来まして感謝しております。最初にお祈りいたしましょう。
私たちを教えるために聖書を記させられた主よ、どうかこれを聞き、これを読み、心を込めて学び、深く味わって魂の養いとさせてください。また、みことばによって強められ、耐え忍ぶことを習い、御子によって授けてくださった限りない命の望みを抱き、常にこれを保つことができますように。御子イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン。
今朝は旧約聖書を開いております。主なる神様が夢の中でイスラエルの王、ソロモンに現れられたエピソードです。ソロモンはイスラエルの第三代の王で、父であるダビデからその国を受け継ぎました。これからよりよく国を治めていくために、助けが必要な時期です。その時に、主が語ってくださったことは、大きな助けとなる出来事でした。どのようなことが起こったのか、少しずつ本日の聖書箇所を振り返ってまいりましょう。
5 ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
ソロモンは、すでにエジプトの王ファラオの娘をめとり、自分の町に連れて来ていました。
神殿がまだ建てられていない時代のことです。民はまだ、高き所と呼ばれる場所でいけにえをささげていた頃でした。ソロモンも、主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいたものの、高き所でいけにえをささげることは続けていたようです。これらふたつは、すでにソロモンの心が主とぴったりひとつではなかったことの表れと見ることができるでしょう。
ギブオンは、その当時もっとも重要であった高き所だったと言われています。そこに祭壇があり、そこでソロモンはささげものをしていました。
主なる神様はいつくしみと憐れみに富んだ方なので、ソロモンがそのような状態であっても、彼に現れてくださいました。そして、言葉をかけてくださいました。「あなたに何を与えようか。願え」。このみことばで、主がソロモンに好意を持っておられることがよくわかります。ソロモンに関心を持っておられるのです。主はソロモンに何かを与えたくてたまらないのです。これは、今を生きる私たちに対しても同じです。私たちに何らかの関心を持っていてくださって、何かを与えようとしておられるのです。主はソロモンに、「願え」と言ってくださいました。それで、安心してソロモンは自らの願いを述べることができました。ソロモンの方ははなはだ怪しくても、主の方ではしっかりとつながりを保っていてくださいます。その中で、遠慮なく願いを述べることができるように、お膳立てをしてくださっていたのです。
6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。
ソロモンの言葉に注目しておきたいと思います。「願え」との招きがあって、ソロモンは願いの言葉を口にするのですが、最初からそれを述べるのではありません。まずは主が何をしてくださったかについて申し述べるのです。これは、主への感謝であると言えましょう。ここで、まず自分のことではなく、父ダビデになしてくださった主の恵みに触れています。主は大いなる恵みを施される方です。それは、「父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだから」とは言うものの、それだけではありません。それだと五分五分になってしまいますが、実際はずっと主の方がソロモンの父ダビデを忍耐し、ずっと憐れみを持って接しておられたのです。再びソロモンは「大いなる恵み」という言葉を持ち出します。このように2度繰り返しているということは、ソロモンの中で、主の「大いなる恵み」がたいへん印象深い、ということになります。主がそのように恵み深かったので、父ダビデが祝福されただけでなく、その子である自分もまた今王座に着いていることができるのだ、という感謝を申し述べているのです。
7 わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入する術を知りません。
8 そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。
今日の説教のタイトルは「ソロモンの謙遜とその限界」ですが、この部分はソロモンの謙遜について語っているところです。まずここで、王でありながら、ソロモンは自らを「しもべ」と呼んでいます。そして、もう結婚している年齢ではありながら、自らを「小さな子ども」に過ぎない、と謙遜しています。「出入りする術を知らない」とは、王としてふさわしいふるまいをするとはどんなことか、ということさえ知らない、というぐらいの意味でしょう。また、繰り返し自分を「しもべ」と呼んだ上で、手に余るような大勢の民の間にいることを告白しています。とてもではないが、今の自分ではこの王国を治めていくことはできない、ということを告白しています。これはある意味で、自分のことを知っている、ということでもあります。身の程を知っている、とも言えましょう。ソロモンは口だけではなく、実際に、本心から、この父から譲り受けた国を治めることは身に余る、と思っていたことでしょう。そして、そのことを正直に認めていました。何でも知っておられる主なる神様の前で、そのことを隠さなければならないとか、自分を大きく見せなければならない、などとは考えていませんでした。そのことは、好感が持てると思います。主も、そのような心のありようを喜んで下さったに違いありません。
9 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
ソロモンはまず、言わば前置きとして、主への感謝の思いを申し述べ、続いて7,8節と2節かけて、現状をしっかりとらえ、自分が今抱えている困難について告げました。そしてこの9節においてようやく、切実な願いを伝えています。改めて、この配分を確認したいと思います。確かに、「願え」と言ってくださったのは主なる神様でした。しかし、だからと言って「これをしてください」とすぐ自分の願いを切り出すのではなく、まず感謝する、そして、今がどのような状態なのか、冷静に神様に告げる、ということが大事となってきます。その上での「願い」なのです。
この時のソロモンの願いは、こうでした。「聞き分ける心をしもべに与えてください」。その目的は、「善悪を判断して主の民をさばくため」でした。まったく私利私欲とは関係ない、主を第一とした願いです。この時、ソロモンは冷静に、自分が何をすべきであるか理解していました。それは、「主の民をさばく」ことでした。この時の「さばき」は、「何が正しいか見定める」ということを含んでいました。その正しさの基準は主にあるので、これは「何が主の御心にかなうか判断する心」と言ってもいいでしょう。それは、モーセがかつてかかわっていたように、遺産の分与のことであったかもしれない。また、ソロモンがすぐのちにかかわる、民の間での、この子の母親は誰か、という審判のことであったかもしれません。そのような、王の前に持ち出される民事、また刑事事案について、主の御心が何であるかを明らかにし、ある一定の判断をする、ということができるように、というのがこの時のソロモンの願いであったのです。これは、王であったら誰でもが持つことができる願いではなく、自分のことをよく知っていたソロモンが、謙遜な思いで抱いた願いであって、主の御心に適っていました。別の王であれば、敵に勝つことや、長寿などを願っていたに違いありません。
10 これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
先に述べたとおり、このように「聞き分ける心」を願ったことは、大いに主の御心にかなっていました。しかし、かといってソロモンを手放しで評価するわけにはいかないのです。ここでソロモンをヒーローとすることは、却って読む者が自らを苦しくすることになります。自分たちもソロモンと同じようにならなければならない、というプレッシャーを受けることになってしまいかねないのです。はじめに指摘したように、この時すでにソロモンは異国の女性を自らの場所に迎え入れていました。このことに関しては、主の御心にかなっていなかったのです。それなのに、ここで主がソロモンのことを喜んでおられるのは、あくまで主の慈しみと憐れみの心によるのです。ここで強調されるべきはソロモンの資質ではなく、不完全な者をも取り立ててくださる主の恵みなのです。
11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、
12 見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。
さて、主は、ソロモンの願いがみこころにかなったことを、言葉に表してソロモンに伝えてくださっています。それが11,12節です。言ってみれば、ここでソロモンをほめておられるのです。ここで、主は一般的な王が願いがちな事柄をいくつか挙げておられます。まずは長寿。そして富。最後に敵のいのちです。ソロモンが、他の王と同様に、これらのことを願ってしまう可能性は十分にありました。また、実際にそれらを願ったからと言って、主がこの時ソロモンを退けてしまうようなことにはならなかったはずです。「願え」とおっしゃったのは主の方なのですから、それに乗ってソロモンが芳しくない願いをするリスクを、主は負っておられたのです。しかし、謙遜なソロモンによって、それは回避されました。主はソロモンが願ったのが「判断力」であったとした上で、「わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える」と告げておられます。この「知恵」が重要なのです。以後、この「知恵」は、ソロモンの特性と数えられるようになりました。この後のエピソードにはこの「知恵」を題材としたものがあり、箴言も、伝道者の書も雅歌も、ソロモンの筆によるものと言われる書はすべて、知恵に満ちた書となっています。このように、のちのちソロモンを生かしていく「知恵」が与えられたのは、ソロモンが謙遜であったからです。もちろんここから、私たちは謙遜に生きることの大事さを学ぶものです。
しかし、繰り返しになるのですが、それがソロモンを賛美することにつながってはなりません。ソロモンには限界があったのです。それは、すでに指摘してきたように、ファラオの娘を町に引き入れ、他の民と同じように高き所でささげものをすることに表れていました。のちにも他の多くの異国の女性を国に迎え入れていくことになります。このことに関しては、主はイスラエルの人々に、「あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」(一列王11章2節)と警告しておられました。また、ソロモンは神殿や宮殿の偉大なる建築事業を行ったのですが、同時にそれは民に大きな負担を課すものでした(同12章4節)。このように、ソロモンには限界があったのです。従って、ここでソロモンを過大評価し、このように生きるべきだ、と受け止め、聖書をあたかも教科書であるかのように読むことはふさわしいとは言えません。ソロモンでさえ、救い主を必要とした一人の人間だったのです。むしろ、そのソロモンの限界は、最終的に、私たちに救い主の必要性を感じさせるものでした。私たちもソロモン同様、限界のある存在に過ぎません。ある時は熱心に主に仕えようとし、また別の時には、そこまで生真面目にしなくてもいいではないか、と思ってしまうような者なのです。夏の暑さですっかり参ってしまって、もうどうでもいい、という感じにならないとも言えません。むしろそのような者であるからこそ、救い主イエス様の必要性に気付くことができるのです。私たちの限界こそが、イエス様への出発点なのです。主はあまりにもいつくしみ深いので、限界のある私たちを受け止め、救おうと待っていてくださいます。救い主イエス様に向かって、まっすぐに進んでいきたいものです。
お祈りいたしましょう。
主なる神様。
あなたの御名を賛美します。
今朝もあなたの御前に出て、
礼拝することができて感謝します。
ソロモンのように、自らを知り、
謙遜であることのたいせつさを覚えます。
しかし、そのソロモンにも限界がありました。
私たちも、いくら身を低くして生きたとしても、
罪ある人間に過ぎません。
限界があります。
しかし、その限界があるからこそ、
私たちは救い主を求めます。
そのことに気付かせてくださって、
感謝します。
暑さだけでなく、これからのことに対する不安であるとか、私たちを生きにくくする原因はいくらでもありますが、その中でも私たちを守って下さり、
イエス様の救いの中に安らぎ、
平安な毎日を過ごすことができますように導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
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