top of page
執筆者の写真明裕 橘内

2023年7月2日  聖霊降臨後第五主日礼拝

聖書交読 エレミヤ28章5~9節(旧約p1229)

司)5:そこで、預言者エレミヤは主の神殿に立っていた祭司たちとすべての民の前で、預言者ハナンヤに言った。

会)6:預言者エレミヤは言った。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。

司)7:だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。

会)8:あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。

全)9:平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」


聖書朗読 マタイ10章40~42節(新約p19)


40:「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

41:預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

42:はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」




説教 「イエス様中心で」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日の福音書の箇所は、短い箇所ではあるのですが、「受け入れる」という言葉を軸に、豊かな内容を持っています。早速見てまいりましょう。


40節は、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と代名詞が多用されています。詳しく見ていきますと、「あなたがた」は使徒として派遣される12人の弟子であり、「わたし」はイエス様、「わたしを遣わされた方」はイエス様を派遣された父なる神様のことです。


繰り返し、「受け入れる」という言葉が用いられていますが、もともとは「手でつかみ取る」という意味です。ここではもちろん「受容」という意味で使われているわけですが、心理的・精神的な意味に捉え過ぎると、この語が持つ本来のダイナミックな意味合いが薄れてしまうように思います。ここでのテーマは「イエス様を受け入れる」ということになるのですが、それはある意味でイエス様を手でつかみ取るような、ダイナミックなことなのです。


ここでは、イエス様の弟子たち、イエス様、父なる神様、という三者が登場しますが、イエス様は弟子たちと父なる神様をつなぐ存在として描かれます。ある意味でそれはイエス様中心の世界観ということにもなります。私たちも、イエス様がいてくださるおかげで、父なる神様とのつながりができるのです。


<イエス様をつかむ イエス様の衣服をつかむ信仰>

イエス様を受け入れるということを、「イエス様をつかみ取る」と先ほど言い換えましたが、これには福音書の中で、格好の模範があります。長く病を患う女性が、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ってイエス様に近づき、イエス様の服の房に触れたことがありました。マタイの福音書なら、少し前の9章20,21節に記されている物語です。私たちも同じです。私たちを治してくださる。複雑に絡み合ってしまった私の人生を建て直してくださる。生きづらさを感じて生きる力が失われているところに、命を与えてくださる。そのことを信じて、私たちはイエス様に向かって手を伸ばし、その衣をつかみ取るのです。先ほどの、長く病を患っていた女性のケースにおいて、おずおずと伸ばされた手は、遠慮がちにイエス様の衣服に触れたか触れないかぐらいのことだったかもしれませんが、マルコの福音書の方では、イエス様は自分の内から力が出て行ったことに気づいておられます(マルコ5章30節)。ここに確かな希望があります。私たちも、イエス様に触れていくならば、その力はイエス様の内から出て行って、私たちの方に流れ込んでくるのです。そして、治していただけるのです。


<イエス様を受け入れるには、弟子を受け入れる>

この箇所には、明確に、イエス様をつかみ取る方法が記されています。それは、イエス様の弟子を受け入れる、ということです。イエス様の弟子を受け入れるなら、イエス様を受け入れることになる、と記されていました。ですから、イエス様の弟子を受け入れていないのに、イエス様をつかみ取ることはできないとされています。このことを理解するためには、有名なヨハネの手紙の御言葉が手掛かりとなるでしょう。ヨハネの手紙一4章20節の御言葉です。


「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(ヨハネの手紙一 4章20節)。


ここで、イエス様の弟子を、私たちが共に信仰生活を送る兄弟姉妹である、と置き換えてみましょう。兄弟姉妹を愛することは、オプションではありません。気分や利害によってはどちらでもいい、ということではないのです。兄弟姉妹は目に見える存在である。目に見える存在を愛するのは、比較的易しいはずだ。それなのに、その兄弟姉妹を愛さないなら、目に見えない神を愛するという、もっと難しいことなど、できるはずがない、ということです。これだけ、兄弟姉妹を愛することは重要なことなのです。


このヨハネの手紙の御言葉に倣うなら、目に見える兄弟姉妹を愛さない者は、イエス様を受け入れることなどできない、ということになりましょう。


<大事なのは、尊敬>

ここで大事になるのは、「尊敬」です。フィリピの信徒への手紙2章には、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3,4節)とあります。そのように、「尊敬すること」は、相手を自分よりも優れた者とみなすことから始まります。そして、そのようにして兄弟姉妹同士尊敬しあうことが、兄弟姉妹を受け入れる、すなわちイエス様の弟子たちを受け入れることにつながるのです。そのようにすることで、私たちはイエス様に触れることができるのです。


<私たちと父なる神様のつながり イエス様の仲介によって>

そして、先ほどすでに申し上げました通り、イエス様が間に入ってくださって、仲介してくださることにより、私たちは父なる神様とつながりを持つことができます。この父なる神様は、私たちの救いのために、イエス様をこの世へと遣わされた方です。それを受け、それと同様に、御言葉を広めていくために、弟子たちを選び、使徒として世に派遣されたのが、イエス様です。このように、父なる神様からイエス様へ、そしてそのイエス様から私たちへ、というつながりができており、その中心におられるのが、私たちの主イエス様です。その意味でも、イエス様はイエス様を中心として、生きていくのです。


41節以降は、このイエス様を受け入れて生きる者に与えられる報いということについて、述べています。41節から振り返ってまいりましょう。


41:預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。


<預言者を預言者として受け取る>

まずここでは、イエス様を受け入れて生きる者に与えられる報いについて考えるにあたり、「預言者を預言者として受け入れる」ということについて、提示しています。先ほどイエス様を受け入れる、ということを、イエス様をつかみ取る、と言いまえました。イエス様をつかみ取るには、その弟子たちをその弟子たちを愛し、尊敬することだ、と学びました。預言者にも、これは当てはまります。預言者を預言者として尊敬する、ということ。それができれば、預言者と同じ報いを受ける、ということになります。


<預言者とは>

では、預言者とは誰なのか、ということです。今日は聖書日課において、エレミヤ書が旧約聖書の箇所として選ばれています。今日の聖書交読の箇所です。これは私たちにとって助けとなります。エレミヤという、具体的な預言者の姿が、目の前に示されているからです。そこで預言者について、「あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した」(8節)と語られています。預言者は、必ずしも耳障りのいいことを語ったわけではないことがわかります。また、9節には「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」とあり、評価されるまでに一定の時間の経過が必要であることが示されています。すなわち、預言者とは、すぐに両手を上げて歓迎される存在ではなかった、ということです。ということは、預言者を預言者として受け止め、尊敬するには、信仰が必要だった、ということがわかります。


<預言者が受ける報いは何だったのか>

では、ここで言われる「預言者が受ける報い」とは何だったのでしょうか。この「報い」ということばは、基本的に「働きに対して支払われる報酬」という意味です。それが、良い意味での報い、また悪い意味では罰、という意味でも使われています。ここでは、預言者がその働きに対して受ける報酬、ということになるかもしれません。具体的には、先ほどエレミヤ書で「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」とありましたから、「主が遣わされたとわかること」、これが、預言者の受ける報い、ということになるのではないでしょうか。これはある意味で、評価、ということにもなります。預言者が、正しく主に遣わされたと証明されれば、それは彼の大きな評価となります。預言者にとって、最終的にはこれほどありがたいことはないのではないでしょうか。


<正しい者=イエス様によって正しいとされた者>

また、もうひとつ、「正しい者を正しい者として受け入れる」ということも出てきていました。こちらは、旧約聖書にも使われていた伝統的手法で、「預言者を預言者として受け入れる」ということと同じ意味の言い換え、と考えることもできますが、「正しい者」を、「イエス様によって正しいとされた者」と捉えることもできます。イエス様をつかみ取って、イエス様に触れて、力をいただき、罪赦され、正しい者とされた人を、そういう存在だとわかったうえで受け入れるわけです。こちらも、受け入れるには信仰が必要であることがわかります。そして、その正しい者の受ける報いとは、正しい者と認められた恵み、ということになるでしょう。主に遣わされた預言者であると認められること、主によって正しいとされた者と認められること。両者とも、この「認められる」ということが、報いということを考える上での理解の鍵であるように思われます。


42節では、41節の論調では「小さな者を小さな者として受け入れる」となりそうですが、実際は「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」というように、「冷たい水一杯でも飲ませてあげる」という具体的な行動が取り上げられています。先ほど、受け入れる、という言葉には、愛する、あるいは尊敬するということも関係するとお話ししました。「冷たい水一杯でも飲ませてあげる」という行為は、その愛と尊敬の行為として、十分に考えられ得るものです。


<小さな者>

ここで「小さな者」と呼ばれているのは、イエス様の弟子であることがわかります。イエス様の12人の弟子は、働きのために派遣されるため、すぐさま12使徒と呼ばれるようになりますが、同時にまた、「小さな者」に過ぎないのです。ここはしっかり押さえておきたいところです。私たちもまた、イエス様の弟子として、イエス様についていく決心をしました。そのことは、何か尊いことなのでしょうか。もちろん、そのことをイエス様はとても喜んでくださいます。このクリスチャンの少ない日本で、よくその決断をしてくれた、と涙を流さんばかりに喜んでくださいますが、かと言って、それは私たちの立場のようなものを決定するものではないのです。私たちは、あくまで小さな者に過ぎない。そのことを自覚して、いつもへりくだっていると良いのです。そうすれば、先ほどの話に戻りますが、相手を自分よりも優れていると思うことができて、尊敬することができるのです。


<現代において「冷たい水一杯」とは>

では、現代において「冷たい水一杯」とは、どのようなものなのでしょうか。先ほど、愛と尊敬の行為に関係するとお話ししました。イエス様の当時、暑く乾燥した地において、冷たい水一杯は何にも代えがたい貴重なもてなしであったことでしょう。冷蔵庫もない時代、冷たい水を用意しておくことは簡単なことではなかったはずです。何らかの努力と工夫があって、それを準備しておくことができたのでした。とすれば、現代においても、私たちが何らかの努力や工夫をして用意するものこそが、ここで言われる「冷たい水一杯」に相当する、ということになるのではないでしょうか。もちろんこの蒸し暑い日本において、今の時期、冷たい水はありがたいものです。しかし、それを得るのにほとんど犠牲を払うことはありません。誰でも冷蔵庫を使ってそれを簡単に用意することができるようになっています。となると、何か犠牲を払うこと。たとえば、時間を犠牲にする。相手のために、時間を割いて、電話で話を聞いたり、メールしたり、ラインしたりする。相手に対する愛や尊敬がなければ、そのようにして時間を割いたりしないわけですから、現代においては、そのように時間を犠牲にすることは、ここで言われる「冷たい水一杯」の応用の一つの姿であるとも言えるかと思います。


<イエス様の弟子の受ける報い>

最後になりますが、そのように現代版「冷たい水一杯」を贈る者がもれなく受けるというイエス様の弟子の受ける報いとは、何なのでしょうか。イエス様と共に歩み、イエス様のすぐそばで、イエス様に従うのが弟子たち。そして、報いと言えば、預言者として主に遣わされていると認められること、主によって正しい者とされていると認められること、そのように見てまいりました。同じように考えれば、イエス様の弟子が受ける報いとはまさに、イエス様の弟子として認められる、確かにあなたはわたしの弟子なのだ、とイエス様に言っていただける、将来天の御国に前に気入れられる時に、「ああ、あなたは確かにわたしの弟子として歩んだ、よくやった、忠実な僕よ」と声をかけていただける、ということになるのではないでしょうか。なんだ、認められるだけか、とお思いになられるでしょうか。いや、これが実は大きな恵みであるのです。


42節は全体として、私たち小さな者が誰かに、この現代版「冷たい水一杯」を提供する機会を差し上げる、というようにも読むことができます。私たちが、ぜひこれからイエス様を知ってほしいと心に思うあの人、この人に、「冷たい水一杯いただけませんか」とお願いするのです。私の方が一方的に、「伝えてあげよう、教えてあげよう」というのではない。むしろ、「困っているので助けてください」という姿勢で向き合うのです。その時、相手が私たちがイエス様に付き従っている者であるとわかったうえでもなお手を留め足を止め、私たちのために時間を使い、犠牲を払って付き合ってくださるときに、その方にはイエス様のでした受けるのと同じ報いがある。すなわち、その人が夢想だにしなかった、輝かしい天に招かれて、「よくやった、忠実な良い僕だ」とイエス様に迎え入れられることになる、というのです。何とワクワクすることでしょうか。そのような夢を抱いて、イエス様を中心にして、いつも視野を広く保って、つながりづくりをしてまいりましょう。


お祈りします。

全能の父なる神様、

今朝の御言葉の時をありがとうございます。

イエス様こそが、あなたと私たちの間に入って下さり、

つながりを作って下さる方であること、

感謝します。

そのあなたを中心に、いつも歩めますように。

兄弟姉妹を愛し尊敬して、

イエス様に触れ、イエス様を受け入れて生きることができますように。

私たちに、イエス様の弟子だということで、冷たい水一杯でも提供してくださる方が、

一人でも増えますように。


イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


【報告】

・本日昼食会があります。

・来週は三田フェローシップ・キリスト教会より、黄(ファン)宣教師が証しに来てくださいます。


閲覧数:17回0件のコメント

Comments


bottom of page