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執筆者の写真明裕 橘内

2023年7月23日  聖霊降臨後第八主日礼拝

聖書交読 詩編86章11~17節(旧約p923)

司)11:主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。

会)12:主よ、わたしの神よ/心を尽くしてあなたに感謝をささげ/とこしえに御名を尊びます。

司)13:あなたの慈しみはわたしを超えて大きく/深い陰府から/わたしの魂を救い出してくださいます。

会)14:神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。彼らはあなたを自分たちの前に置いていません。

司)15:主よ、あなたは情け深い神/憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる。

会)16:わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え/あなたのはしための子をお救いください。

全)17:良いしるしをわたしに現してください。それを見て/わたしを憎む者は恥に落とされるでしょう。主よ、あなたは必ずわたしを助け/力づけてくださいます。



聖書朗読 マタイ13章36~43節(新約p26)

36:それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。

37:イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、

38:畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

39:毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。

40:だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

41:人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、

42:燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

43:そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」



説教 「輝くために」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日の福音書は、イエス様の「毒麦のたとえ」を扱っています。イエス様ご自身がたとえの説明をしておられる箇所ですが、このたとえが「世の終わり」について語っていることが明らかにされています。「毒麦を蒔いた敵」として悪魔が登場しますが、むしろここでは刈り入れの時に現れる天使の方に焦点が当てられており、世の終わりに恐怖のイメージはそれほどありません。しかも、その時は「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」時である、とまで言われています。このような輝かしい世界を描くたとえとその説明について、一緒に味わってまいりましょう。


まずは、この「毒麦のたとえ」を確認しておきましょう。このたとえは、天の国がどのようなところか、たとえで表現しているもので、24節から30節に記されています。ある人は良い種を畑に蒔いたはずでしたが、毒麦も姿を現しました。夜の間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いていったのです。僕たちは「行って抜き集めましょうか」と申し出ますが、主人は毒麦を抜くとき、一緒に麦も抜いてしまうことを恐れます。そこで提案したのは、刈り入れの時まで、両方とも育つままにする、ということでした。その上で、刈り入れの時が来たら、まずは毒麦を集めて燃やしてしまい、麦の方は集めて倉に入れるようにしたのです。


〇たとえは群衆に向かって、説明は弟子たちに、弟子たちの求めにこたえて 36節

このたとえ自体は、群衆に向かって語られたものでした。しかし、36節によると、『弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った』とありますので、その説明は弟子たちに、彼らの求めにこたえて行われたことがわかります。ですから、聞き手は、イエス様に招かれ、導かれて、イエス様に従っていこうとしていた人々でした。


〇たとえの細かい要素が何にあたるか説明 37-39節

37節以降でイエス様は、たとえの細かい要素が何にあたるか、詳しく説明しておられます。39節まで一遍に読んでみます。


37:イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、

38:畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

39:毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。


「良い種を蒔く者」は人の子である、と言われていますから、これはイエス様のことを指しています。「畑」は「世界」のことで、そこに「良い種」、すなわち「御国の子ら」も、また「毒麦」、すなわち「悪い者の子ら」も混在している、という世界観をイエス様は持っておられます。続いて「毒麦を蒔いた敵」は「悪魔」であるとし、「刈り入れ」は世の終わりのこと、その時に「刈り入れる者」は天使たち、と説明しておられます。このように、たとえの細かい点に至るまで、何にあたるか説明があるのがこのたとえの特徴です。


これをたとえと重ね合わせると、イエス様が御国の子らを世界に存在させてくださったのですが、眠っている夜の間に、敵である悪魔がやって来て、悪い者の子らも存在するようにした、ということになります。しかも、麦と毒麦がよく似ていて区別しづらかったように、御国の子らも悪い者の子らも似ているので、世の終わりの刈り入れの時までは混在したままにする、と読み取ることができます。


〇世の終わりに何があるか

続いて40節を見ていきましょう。


40:だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。


「そうなるのだ」とは、毒麦が集められて火で焼かれるのと同じように、毒麦にたとえられる「悪い者の子ら」も集められ、さばきを受けて滅ぼされる、ということです。その具体的な様子が、41節と42節に記されています。


〇人の子=イエス様が刈り入れのための天使を送る 天使が何をするか

41:人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、

42:燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。


人の子であるイエス様が、世の終わりに際し、刈り入れのための天使を送ります。「つまずきとなるものすべてと不法を行う者ども」こそが毒麦で、悪い者の子ら、ということになります。このようなものたちは、よりによってこっそりとイエス様の国に存在したのですが、天使によって集められ、燃え盛る炉の中に投げ込まれます。これが、彼らの受ける裁きになります。


改めて毒麦、すなわち悪い者の子らについて確認しておきます。ここでは「つまずきとなるものすべてと不法を行う者ども」と言われます。そのような存在は、神様によってつくられ、イエス様によって新しい命が与えられ、そのイエス様に従って生きようと真摯に願う人々にとって、つまずきとなる存在だ、ということになります。まっすぐに神様に向かって生きようと思っている人の歩む道を、妨げるのです。


また、不法を行う者も、私たちを害するものです。ここでは、神様の律法に背く存在のことが意識されています。律法には、神様と人間の関係についてのものと、人間同士の間柄についてのものがありますが、そのどちらにしても、それに背く存在があれば、人間存在を脅かすものとなります。人を戦争に向かわせる狂気といったものも、そのうちに入るかと思います。


しかし、そのような毒麦があったら人間が苦しむのに、それでもその共存を許されるのは神様の憐れみです。毒麦を抜いてしまおうとして、大事な人間を失ってしまうことを、決して神様は望んでおられません。正しい審判の時まで、麦と毒麦が共存していることを、神様は痛みを持って忍耐しておられます。神様もつらいところなのです。私たちも、毒麦との共存はしんどいのですが、神様も忍耐しておられるのですから、私たちも忍耐するのです。


そして、いずれ時が来て、刈り入れの時となり、イエス様は天使を遣わして、もうはっきりと区別がつくようになった麦と毒麦の峻別をなさいます。神様は天地創造の時、光と闇を区別なさいましたが、今や世の終わりに際して、昼の光の子である麦、すなわち御国の子らと、闇の存在である毒麦、すなわち悪い者の子らをはっきりと区別なさり、悪い者の子らだけを滅ぼされます。


このように、麦と毒麦の区別は世の終わりの時になされるので、それまでの共存の時代、私たちはまるで犯人捜しのように、毒麦探しをすることは許されていません。その判別は神様の側でなさることなので、私たちは計画していたイベントが失敗したり、教会の勢いが失われるようなときに、その原因を作ったのは誰か、などと詮索すべきではありません。そのように、お互い疑心暗鬼になって、誰が悪い、などと言ってしまうことこそ、毒麦を蒔いた悪魔の策略にまんまと引っかかってしまった姿です。私たちは互いを大事にし、つながりを保ち、謙遜に仕え合い、支え合うのです。


ただ、ここでは、そのようなつまずきをもたらす者、不法の者たちは「泣きわめいて歯ぎしりする」と人物のように描かれていますから、私たちは迷います。やはり私fたちの周りにいる誰かなのだろうか、と疑いの心も出てこないわけではありません。しかし、これら暗闇の存在が悪魔に由来するものだと考えるとき、先ほど触れた「人間の狂気」、それが人を恐ろしい戦争や犯罪へと追いやるのですが、そのような非人間的存在であると捉えることも不可能ではありません。それを人間の心が持ってしまう以上、その狂気だけ取り去ることは出来ません。憎しみでもいいでしょう、それを滅ぼしつくそうと思ったら、それを心に抱く人間ごと取り去らなければならないことにもなりかねません。では、その毒麦が麦と似ているとはどういうことか、となると、このところは本当に説明が難しいですし、慎重に語っていかなければなりません。今日の所は、この毒麦とは悪魔が人間の心に生み出す狂気や憎しみなどの負の心、といったぐらいに留めておいた方がよいのかもしれません。


〇正しい人々

最後の43節は、


43:そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。


と言われ、「そのとき」とは、世の終わりの刈り入れの時であることは明らかです。その時まで、麦と毒麦は共存し、私たちはその区別を一切神様の御手に委ねます。


ここで言われる「正しい人々」はもちろん、イエス様によって正しくされた人々のことです。そのような人々は、父なる神様の国、すなわち天国で太陽のように輝く、とされています。では、私たちはただただ、世の終わりの刈り入れの時まで、輝くのを待たなければならないのでしょうか。


私たちは今すでに、イエス様の十字架を信じて、それによって私の罪が赦され、洗礼を受けてすっかり洗い清められ、神様の前に正しくされた者として堂々と立つことができることを信じています。それは遠い将来に起こることではなく、今、現実のものとして私の身に起こっていることです。であるならば、神様は、世の終わりの前から、正しくされた者として、私たちが御前に太陽のように輝くのを許しておられるのではないでしょうか。


〇輝く

実はすでに今、私たちはイエス様によって、父なる神様の御支配、すなわち神様の国のうちに置かれています。ですから、イエス様を信じるなら、すでにこの地上の人生においても、太陽のように輝くことができるのです。考えてみれば、人間の心を暗く曇らせる狂気や憎しみといったものが取り去られれば、心は晴れ晴れとし、光が差して、自ずと明るく照り輝き出すのではないでしょうか。そのような、イエス様によって輝きを得た心は、内面のことだけにとどまらず、必ず外側にも現れ出て、その人の人生を輝かせていくはずです。そうなれば、もはや伝道、ということを難しく考えるまでもなく、その輝きは周囲の人々にとって魅力となり、憧れとなり、そのように生きたい、と思う人を惹きつけるものになるでしょう。何かと暗いニュースの続く中で、これは明るいニュースとなるのではないでしょうか。私たちはイエス様によって輝いて、生きることができるのです。


お祈りいたしましょう。

全能の父なる神様。

あなたの御前に出て礼拝の恵みにあずかることができ、感謝します。

あなたの憐れみのうちにイエス様との出会いに導かれ、

まったく正しいとは言えなかった者が、

イエス様の十字架により、正しくされ、

神様の御前に出ることができるようになった幸いを覚えます。

その私たちを、今この世界で、

太陽のように輝くようにしていてくださること、

これもまた、あなたの尽きない憐れみと慈しみによることです。

しかもそれは朝ごとに新しくされています。

周囲を見渡せば暗いニュースしか聞こえてこないような世界で、

私たちを輝いて生きるようにしていて下さって、感謝します。

その輝きを失わず、今週を丁寧に生きていくことができますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


【報告】

・先週は神学校日礼拝でした。

・午後1時から、三浦綾子読書会、第二回目が開催されます。読んでいるのは『道ありき』です。


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