聖書交読 詩編8編(旧約p840)
司)1:【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
会)2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
司)3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
会)4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
司)5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
会)6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
司)7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
会)8:羊も牛も、野の獣も
司)9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
全)10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。
聖書朗読 2コリント13章11~13節(新約p341)
11:終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
12:聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
13:主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
説教 「手厚い守り」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
今年も三位一体主日を迎え、待降節(アドベント)に始まった教会の暦の上での一年も半分が過ぎました。その節目の時に、喜びの洗礼式を迎えることができ感謝です。しかも、三位一体の御名によって授けられる洗礼が、この三位一体主日に執り行われる恵みを感じます。
今日の聖書箇所は、三位一体主日の聖書日課の使徒書の箇所です。パウロの勧めと、祝祷が記されています。その祝祷の部分に、三位一体が深くかかわっているのですが、まず、勧めの部分を1節ずつ見ていきましょう。11節からです。
11:終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
パウロの勧めは「兄弟たち」と呼びかけられていますが、もちろん兄弟姉妹たち全員への呼びかけです。パウロはこの書簡の終わりに、わざわざ「終わりに」と念を押して強調して、勧めをなしています。この節の中には、5つの勧めがあります。そのあとに、約束が述べられています。勧めとは言いましたが、実際の形は命令です。命令があって、約束がある、というのは、旧約聖書の伝統でもあります。
最初の「喜びなさい」とは、命令されてできることなのでしょうか。それは続く、「完全な者になりなさい」という勧めも同じです。「喜びなさい」の方は、厄介な私たちの「気分」というものに邪魔されて、いくらこちらが「喜びたい」と思っても、どんよりと気分が晴れないときにはあるものです。そのような時には、どうしたらいいのでしょうか。その場合、これが「申し出」ではないことに、心を留めてみてはどうかと思います。「もしよかったら、喜んでみてはどうですか」という申し出ではないのです。ここでは「喜びなさい」と言われている。今パウロの言葉と思って読んでいますが、これを権威ある神様の言葉と思って読んでみてはいかがでしょうか。神様が「喜びなさい」と命じておられる。そうであるなら、私たちがそれに抵抗することはできません。
続く「完全な者になりなさい」も同じです。一体誰が、自分で思い立って、「そうだ、今度は完全な者になってみよう」といった感じで、完全になることができるでしょうか。普段から私たちは、自分がいかに不完全であるかということを、嫌と言うほど知っています。むしろそれは痛感している、と言ってもいいほどです。私たちは、自分たちから出てくるもの、例えば何かの作品とか、それは文章でも、音楽でもいいのですが、自分でコントロールできると思いきや、それらすら完全に仕上げることが難しい存在です。そうであるならなおのこと、私たち自身を完璧にするなど、自分が決断したぐらいでできるはずがありません。なぜこのような勧めがあるのか。しかし、先ほどの「喜びなさい」と同様、これを神様の権威ある命令と思って受け取る時に、私たちにはもう言い逃れはできないのです。
私たちはここで、聖なる三位一体の神様の要求が、ここまで高いことを知らされます。その前には、私たちはただただひれ伏し、「そこまでできない私です」と弱々しく告白するしかないのです。神様の言いつけを守ることのできない私たち。その先に待つのは絶望でしかありません。
しかしあまりにもいつくしみ深く、また憐れみに富んだ父なる神様は、私たちがそのまま絶望に閉じ込められ、ご自分と私たちの間に深い隔てができたままでいることをお望みになられませんでした。そこで、御子イエス様を送って下さり、その十字架によって私たち人間との間に橋をかけてくださって、交わりを回復してくださったのです。本来なら、「励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」といった勧めさえ、私たちの罪深い性質が持つ妬みであるとか、無関心といったもので、到底達成し得なかったようなものを、三位一体の神の御名による洗礼によって洗いきよめてくださり、私たちを聖霊によって新たにし、御言葉が命じる内容を実現することができるようにしてくださいました。すなわち、御言葉の持つ偉大な、創造的な働きによって、私たちを互いに励まし合うことができ、思いを一つにすることができ、また、平和を保つことができるような、全く新しい存在へとつくりかえてくださったのです。
続く12節にも、ひとつ勧めと言いますか、命令が残っています。
12:聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
ということですが、これに関しては、時代背景や地域性というものがあり、現代の私たちには課せられていないと理解されることが多いようです。後半の「すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです」は、パウロの書簡の最後の方に見られるあいさつで、「すべての聖なる者があなたがたにあいさつしています」ということです。このあいさつに、当時は「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」という言葉にあるように、口づけが伴っていたので、そのつながりで、ここに一緒に書かれているのでしょう。「すべての聖なる者」とは、パウロと共にいて、このコリントの信徒たちのことを思い、あつく祈っている仲間のクリスチャンたち、言い換えれば神様によって聖なる者としていただいた人々、ということになります。
そして、最後の、三位一体の祝祷となります。今日は冒頭にも触れましたように洗礼式がありました。その洗礼に関する、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイによる福音書28章 19~20節)という命令と、この「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(コリントの信徒への手紙二13章 13節)という祝祷は、著者は違っていても共鳴しています。
私たちには、主イエス様によって実現した恵みがあります。これは、「大地の恵み」といった漠然としたものではありません。この「恵み」ということばが「主イエス・キリスト」という呼び名と共に用いられる時、それは明確に、十字架の出来事によって実現した、救いの恵みを指しています。復活のイエス様と出会い、奇跡的な回心の体験をしたパウロは、自分が救われた時の圧倒的な恵みを思い起こし、溢れるような熱意を持って、思わず、まずは「主イエス・キリストの恵み」と叫んだのです。
また、その背後には、このイエス様をこの地上に送って下さった父なる神様の深い愛がありました。そして、その両者をつなぐのは、聖霊なる神です。「聖霊の交わり」とは、一般的に「聖霊の与えてくださる交わり」と解釈されます。それは父なる神様と御子イエス様の間をつなぐ交わりであり、この三位一体の神様と私たちをつなぐ交わりでもあります。このように、聖なる三位一体の神様は、私たちを幾重にも取り囲み、手厚く保護してくださる方です。そしてこの方の御名によって、私たちは洗礼を受け、神様の子どもとしていただきました。この方の守りの中で、私たちは日々を歩むことができるのです。
お祈りしましょう。
永遠にいます全能の神様、
あなたはしもべらに恵みを与え、
まことの信仰をもって、
栄光ある三位一体の神をあがめることができるようにしてくださいました。
どうかこの信仰に堅く立って生き、
すべてのわざわいに打ち勝つことができますように。
本日洗礼式があったことを感謝します。
洗礼を受けられた谷口さんの上に主の守りと祝福がありますように、
私たちも、洗礼を受けた日を思い返し、
その命の約束に深く感謝し、
新しい私にしていただいている恵みを覚えることができますように。
また、罪の赦しの確証としての聖餐式も用意されていることに感謝します。
主イエス様の恵みと、神様の愛、それに聖霊の交わりという手厚い守りのもとで、
平安に暮らせる恵みを覚えます。
今週も主が伴ってくださり、
困難多きこの世の歩みを進むことができますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・本日洗礼式がありました。礼拝後は昼食会があります。
・来週は音楽発表会です。昼食会があります。
神様により御影ルーテル教会が与えられたこと、イエス様の恵みにより洗礼へと導かれたこと、橘内先生、玲子先生の尊い働きに、心より感謝いたします。教会の皆さんの愛に溢れる交わりが、これからも世の光であり続けますように。