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執筆者の写真明裕 橘内

2023年6月18日  聖霊降臨後第三主日礼拝

聖書交読 詩編100編(旧約p937)

司)1:【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

会)2:喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。

司)3:知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。

会)4:感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。

全)5:主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。


聖書朗読 マタイ9章35~10章8節(新約p17)

35:イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

36:また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

37:そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

38:だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

1:イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。

2:十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

3:フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、

4:熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

5:イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。

6:むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。

7:行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

8:病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。


説教 「イエス様のまなざし」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


聖霊降臨後第三主日の朝、私たちはそれぞれの生活の現場から呼び出されて主の前に出ております。そして御言葉を聞き、それぞれの場に遣わされていくわけですが、その私たちが住む世界とは、どのような姿をしているでしょうか。スポーツの世界では、海を越えた所で、大谷選手の期待以上の大活躍で大いに湧いていて、それを見聞きして励まされる、ということがあるかもしれません。その一方で、国内に目を転じると、コロナが5類扱いになって1か月以上、マスク生活からも徐々に離れつつある中、また次第にコロナの感染が増えつつあるとの報告もあり、気にすまい、と思いながらも、揺れる心は否定できません。必ずしも、自分のしたことが報われるとは限らない世の中で、留まることを知らない物価高もあり、どうしても先行き不透明、という印象もぬぐえないというのがいわゆる「現実」というものです。そのような世界に放り出されて、道しるべもないまま、さあ生きていきなさい、と追い立てられているような思いにすらなる中で、今日お読みいただいた福音書の言葉は、まさに福音として、私たちの飢え乾く心に染み入って来るようです。


イエス様の宣教の特徴は、会堂で教え、福音を宣べ伝え、病をいやされたことにありました。もうひとつ、イエス様のなさった大事なことは、「見る」ということでした。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(36節)のを見たからこそ、「深く憐れまれた」のです。イエス様のあたたかいまなざしを想像することができます。イエス様は、目の前の群衆の弱り果てた状態をよくご覧になられたのです。


その状態とは、飼い主のいない羊のようであった、と表現されています。これは、エゼキエル書でイスラエルの人々が「彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」(34章5節)と表現されているのにつながります。バビロン捕囚の時代から、イスラエルにはそのような悲惨な状況がありました。


だからと言って、それをこれ以上繰り返すまいと、イエス様はこの時の状況を「収穫は多いが、働き手が少ない」と受け止め、その解決として、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とお命じになられたのです。


このイエス様のまなざしは、そのまま現代の私たちに向けられています。この、まことに先行き不透明な世の中で、容易に不安に陥りやすい私たちこそまさに、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのです。同時に、イエス様は、働き手さえ十分いれば、必ず収穫はある、とかなり楽観的です。私たちは言うのです。「いえいえ、イエス様、この日本の宣教がどんなに難しいか、おわかりでしょう。コロナ前は、もうちょっと積極的に、福音を広めていこうと思っていたのですよ。しかし、コロナですっかりそれができなくなってしまいました」などなど。しかし、そのような、私たちの消極的な声に影響されることなく、イエス様は「収穫は多い」と断言してくださいます。それが希望です。


イエス様の時代に戻りましょう。今日の福音書の箇所は、9章35節と10章8節が深く関係しています。35節はこのような御言葉でした。


「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(35節)。


そのようにする中で、群衆の弱り果てている姿に直面されたのです。そのイエス様は、その状況の打開のために、働き人を送ろうとして、12弟子を選ばれました。その12弟子は12使徒とすぐに呼び変えられます。使徒とは、「遣わされた人」という意味です。イエス様のそばにいて学び、仕える弟子たちは、そのままイエス様のみこころに従い、使命を帯びて遣わされていくのです。では、つながりの深い10章8節の方を確認しましょう。


「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(10章8節)。


イエス様が教え、福音を宣べ伝え、いやしをされたように、使徒たちも教え、福音を宣べ伝える中で、いやしの働きをしていくのです。そのようにするときに、弱り果て、打ちひしがれていた人々が、立ち上がることができるのです。


また、今紹介した10章8節は、10章1節とも関連が深い御言葉です。


「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」(10章1節)。


イエス様ではないのだから、いきなりいやしをせよと言われても、それは無理だ、というのが人間の側の普通の反応でしょう。それをご存知だったからこそ、イエス様は良き準備をしてくださいました。イエス様は、これから派遣しようとする弟子たちを、「呼び寄せ」られました。ご自分の近くに置いてくださったのです。そしてさらに、「汚れた霊に対する権能をお授けになった」とあります。それはなぜか。理由は明確でありまして、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とはっきりと説明されています。できない、としり込みしがちな私たち人間に、ちゃんと備えをしてくださるのがイエス様のやさしさ、恵みです。今日神学校の卒業式がありますが、思い返せば神学校卒業から25年、この働きに必要な備えをイエス様が与えてくださったからこそ、今日までこの働きを続けて来られたと告白することができます。


イエス様は、私のような者をも、人々が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている状況を何とかするために、憐れんで用いてきてくださいました。この、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」という状態は、短く、10章6節では「イスラエルの家の失われた羊」と言い換えています。イエス様の12人の弟子たちは、イエス様に遣わされる使徒として、汚れた霊に対する権能を受け、いやしの働きをしていきます。その時に、イエス様ははっきりと、「イスラエルの家の失われた羊の所に行きなさい」との明確な指示をなさいました。これは、それだけ目の前の、現実に弱り果て、打ちひしがれている群衆のことを気にしてくださった、ということでしょう。理想を言えば、グローバルな視点に立ち、領域の外にも目を向けていかなければならないのだろう。しかし今は、とにかくこの目の前の弱り果てている人々のことをまず何とかしなければならない。これがイエス様の姿勢でした。これは私たちへのヒントになります。イエス様は、今現実に世の中の動きに翻弄されて目の前で弱り果てている私たちのことをまず気にかけて、助けてくださいます。だから、私たちもその助けを受けて、いやされて、私たちのごく身近な人に、手を差し伸べていくのです。さあ、私たちは誰のことを思い浮かべるでしょうか。それどころではない、今は自分のことで精いっぱいだ、という状況でしょうか。それでもいいのです。いずれイエス様のいやしがからだに十分行き渡って、立ち上がって、誰か他者のために生きる、という方向性に、必ず変えられていくはずです。


そうなったとき、私たちのメッセージの言葉は、「天の国は近づいた」という、短い、シンプルなものです。10章7節に、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と命じられている通りです。


今イエス様は、このように、弱り果て、打ちひしがれている人々に、「天の国は近づいた」と希望を語る人を求めています。このメッセージが告げようとしているのは、「この世で終わりではない」ということかもしれません。この世で終わり、死んだら無になる、という世界観ではやりきれない、何も達成してないのに何も残らないではないか、と嘆く人々に、天の国があるではないか、と天を仰ぐ希望を与えます。今私たちはイエス様からの良い知らせを聞いて、それを受け継ぎ、次の人へと、周りの人へと伝える、他者志向の生き方への道を開いていただきました。その私たちに、



「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」


と主は語られます。その声は、今も響いているのです。偉大なる収穫のための働き手が送られるよう、私たちも祈りましょう。そして、福音によっていやされた私が、それぞれの置かれた場所で、その大事な収穫のための働き手になる、ということに、主体的に取り組みましょう。今、イエス様の期待の目が、私たちに注がれています。


お祈りしましょう。


天の父なる神様。

御言葉を教え、福音を宣べ伝え、

病をいやすイエス様をお遣わし下さり、

感謝します。

このイエス様の十字架によって、

今の私たちがあることに、

改めて感謝いたします。

イエス様の温かいまなざし、

それこそが、

この変化の激しい世の中で弱り果て、

打ちひしがれる私たちへの福音です。

私たちを憐れんでくださり、

癒してくださっていることに感謝いたします。

この日本においても、

収穫は多い、と宣言してくださっていますから、

どうか収穫の主が、働き手を送ってくださいますように。

また、私たちを励まして、収穫のための働き手としてくださいますよう、

お願いをいたします。


イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン


【報告】

・先週は音楽発表会でした。昼食会がありました。

・本日は神戸ルーテル神学校の卒業式があります。




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