聖書交読 詩編50編7~15節(旧約p883)
司)7:「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。イスラエルよ、わたしはお前を告発する。わたしは神、わたしはお前の神。
会)8:献げ物についてお前を責めはしない。お前の焼き尽くす献げ物は/常にわたしの前に置かれている。
司)9:わたしはお前の家から雄牛を取らず/囲いの中から雄山羊を取ることもしない。
会)10:森の生き物は、すべてわたしのもの/山々に群がる獣も、わたしのもの。
司)11:山々の鳥をわたしはすべて知っている。獣はわたしの野に、わたしのもとにいる。
会)12:たとえ飢えることがあろうとも/お前に言いはしない。世界とそこに満ちているものは/すべてわたしのものだ。
司)13:わたしが雄牛の肉を食べ/雄山羊の血を飲むとでも言うのか。
会)14:告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。
全)15:それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」
聖書朗読 マタイ9章9~13節(新約p15)
9:イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
10:イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
11:ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
12:イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
13:『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
説教 「招きの声に従って」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
先週は三位一体主日で、また感謝なことに、洗礼式がありました。その三位一体主日が実質的に聖霊降臨後第一主日なので、今日は聖霊降臨後第二主日となっております。今年のこの聖霊降臨後の、緑が典礼色の季節は、カファルナウムにおけるイエス様のお働きから始まります。そこの収税所に座っていたマタイに、イエス様は声をかけられます。カファルナウムは小さな町でしたから、マタイはこの時までにもイエス様に会ったことはあったと思います。しかし、この日、「わたしに従いなさい」と声を掛けられたことが、マタイの生涯を全く違ったものに変えてしまったのです。
裕福だったと思われるマタイにとって、すべてを投げ打ってイエス様に従うことにどれほどの利点があったか。しかも、ペトロらのような漁師と異なり、徴税人の場合、後でその職業に戻ることはほとんど不可能だったと言われます。そのようなリスクを背負ってまで、マタイはイエス様に従っていきました。
その招きの声に、何とも抗しがたい権威があっただけでなく、マタイの中に、自分の人生を変えたい、新しい自分になりたい、という強い願いがあったことも確かでしょう。
その願い通り、マタイはイエス様と深い交流を持ち、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という恵み深い言葉を聞くことができたのです。
ではその様子を見てまいりましょう。まず10節です。
10:イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
イエス様が食事をしておられた「その家」とは、文の流れからすればマタイの家のことです。そこにはイエス様やその弟子たちのほかに、大勢の人々がやって来ていました。その中にはマタイと同じ徴税人がいましたが、「罪人」と呼ばれる人々も含まれていました。当時罪人とは、特にファリサイ派の人々が重視するきよめの規定などを守ることができない人のことを指していました。そのかなめは安息日を守ることでしたから、何らかの意味で安息日を守ることができない人々、あるいはもともと守っていない人々、と考えることができます。
では具体的にどのような人々が罪人と思われていたかと言うと、まずは安息日を守らない異邦人、すなわち外国の人々、ということになります。今の世界では、外国の人々をそのように見ることには遠慮があります。ですが、イエス様の当時のイスラエルでは、主にこのファリサイ派の人々によって、外国の人々は異邦人ということであからさまに嫌悪されていました。このファリサイ派とは、分離派とも呼ばれるような存在でしたので、自分たちをきよく保つために、外国の人々から距離を持とうとしたのです。
そのほかには遊女たちもこの罪人の中に入っていました。実質的には、マタイをはじめとする徴税人も、この罪人のくくりの中に入れられます。
マタイは、このカファルナウムという国境近くで交通の要衝の地にある、今で言う税関のような収税所で働いていました。その仲間たちが、この時一緒にいたのでしょう。先ほどの、ファリサイ派の人々の外国の人々との距離感によると、徴税人とはその仕事柄、外国人と関わることが多い仕事だったようで、それゆえ汚れていると思われていたようです。また、税をローマのために取り立てていたので売国奴のように思われていたこともありました。そこに重なる不正のイメージ。それが、徴税人の評価を著しく低くしていました。
そのような人々が集まってのこの食事は、マタイがこれからイエス様に従って新しい生活へと向かうに際しての送別の食事であったとも言われます。そうすると、11節には
11:ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
と、ファリサイ派の人々がイエス様を批判していることが記されていますが、マタイにとってはたいへん重要な、信仰的な会食であったことが伺えます。
そもそもどうしてファリサイ派の人々がこの会食のことを知ったのか、ということですが、当時は家の造りにしてもどこかしら開いている部分が多く、外から全く見えないで何かをする、ということは考えにくい状況でした。逆に言えば、イエス様は別に、この徴税人や罪人たちとの会食を、こそこそと隠れて行っていたのではありません。何の恥ずかしいこともなく、堂々と、喜んでしておられたのです。その意味では、イエス様は彼らとの交わりを楽しんでおられたのです。
それにしても、マタイは新しい生活への期待を胸に、こんな私にもイエス様が目をかけてくださったとして、喜んでいたのに、厳格で批判的なファリサイ派の人々がそれに水をかけたような形になっています。それを感じ取ってか、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(12節)とマタイをはじめとする徴税人、罪人たちを弁護します。
今から25年近く前、神戸ルーテル神学校の卒業式を前に、アメリカにルーテル教会の神学校を見学に行った際、現地の大学院で学んでおられた正木直道先生にお世話になり、ある日ルーテル教会の礼拝に車で連れていっていただいた時、「教会は体育館のようなものか、病院のようなものか、どちらだと思いますか?」と質問されました。そんなことを考えてもみなかったので、どちらなのか、答えるのに困っていましたが、答えは「病院」でした。どうしても教会が活動中心になり、ややもすると礼拝よりも、その後の諸活動の方がメインになってしまう危険性がある中で、私たちが福音を聞いてくつろぎ、癒されるのが教会だ、ということでした。含蓄の深い、非常に印象的な答えでした。
ここに出てくる徴税人や罪人だけでなく、私たちもまた病人で、医者であるイエス様を必要としています。そして、イエス様は医者なので、私たちをすっかりいやしてくださいます。イエス様が救い主であるとは、いやし主であるということにほかなりません。ですから、「福音によって救われる」とは、言い換えれば「いやされる」ということであって、その意味では、「いやしのための福音」ということになります。
最後の13節は、旧約聖書からの引用もあり、ある意味でイエス様の決め言葉になっています。
13:『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
この中の『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』が、旧約聖書のホセア書6章6節からの引用になっています。そちらでは、「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく・・・」と文章が途中となっています。ホセア書において、「わたし」は主なる神様を指しますが、マタイの方の「わたし」はイエス様のことと考えるのが自然の流れであると思います。ホセア書の方の「喜ぶ」は、「求める」と訳すことができる言葉ですし、同じく「愛」と訳されている言葉は「憐れみ」とも訳されますので、日本語訳で見るほど意味の違いは大きくありません。すでに旧約聖書の中で、いけにえよりも憐れみの心が大切にされ、律法を表面的に守ることが大事なのではない、ということが言われている、重要な御言葉です。
その憐れみを受けた、このマタイが「福音」書を書いた。そこに、意味があります。まさに、イエス様のいやしの福音を受け取った人物の書いた福音書です。私たちもこのいやしの福音を受け取り、イエス様のいやしをいただいて、すこやかに過ごしてまいりましょう。音楽は、私たちの心、また魂に直接触れ、慰めます。イエス様が与えてくださるいやしの、具体的な姿です。そのような素晴らしい賜物が与えられていることに感謝します。今日は午後に音楽発表会の時も与えられていますから、楽しみですね。そのような機会に、イエス様のいやしの恵みが存分に注がれることを願います。いやされた私たちには、イエス様の「わたしに従いなさい」というあたたかな招きの言葉が響いてきます。イエス様のいやしを受けて、その招きの御声に従って歩んでまいりましょう。
お祈りしましょう。
主なる神様、あなたは私たちに、祈る心を与えてくださいました。
どうかあなたの憐れみによって、私たちの願いに耳を傾け、
全能の御力によって、苦難に会う時に守り、
悩む時に強めてください。
主の導きに従って、
この世のものに心を奪われず、
常に永遠の賜物を失うことがないようにしてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・本日洗礼式がありました。礼拝後は昼食会があります。
・来週は音楽発表会です。昼食会があります。
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