聖書交読 詩編31編2~7節(旧約p861)
司)2:主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。
会)3:あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。
司)4:あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き
会)5:隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。
司)6:まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。
全)7:わたしは空しい偶像に頼る者を憎み/主に、信頼します。
聖書朗読 使徒7章55~60節(新約p227)
55:ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
56:「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
57:人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、
58:都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
59:人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
60:それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
説教 「天を見つめて」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
現在復活節を過ごしておりますが、普段の福音書を離れて、使徒言行録を開いております。普通なら旧約聖書が読まれる所で、この復活節のみ、使徒言行録が読まれるのが特徴です。キリストの復活によって新たな力を得て進む初代のクリスチャンの群れについて書かれているところが選ばれています。ですから、今日の具体的な話題はステファノという人物の殉教ではあるのですが、それも、復活の希望というテーマが背後にあっての出来事ということで捉えていただければと思います。
この箇所を通してわかることは、初代のクリスチャンたちの置かれた状況です。先週の箇所では、救われる人が日々仲間に加えられたとか、彼らが一つにされていたことなどが描かれていました。ですが、それは理想的な、平穏な情勢の中で起こったことではなく、一つ間違えれば、教会の中で重要な役割をしていた人が捕らえられ、殉教してしまうような状況下であった、ということなのです。殉教というと、ローマ帝国によるキリスト教の迫害を思い浮かべますが、この時期は、ユダヤ教コミュニティーの中での迫害です。理解し合えると思ってしまいがちな同胞からの迫害ですから、この出来事を通して、同じユダヤ人なのに分かり合えないのだ、と無力感は大きかったと思います。
本日の説教題は55節の「天を見つめ、」という言葉から取られています。この節と、文章がつながっている56節を続けて読んでみます。
「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。(55,56節)
まず前提として、このステファノが、キリストの復活によって新しい命をいただき、復活の希望を持って生きていた信仰者でした。具体的には、使徒たちが神様の言葉をないがしろにしてまで食事の世話をするのは好ましくないとして、その仕事を任せられた人物で、そのような人物が7人選ばれたのですが、その筆頭として名前が上げらているのがこのステファノです。同じ使徒言行録6章5節では、わざわざ「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」と紹介されています。
この背後には、弟子の数が増えて、ギリシア語を話すユダヤ人と、ヘブライ語を話すユダヤ人との間にいさかいが起こったことがありました。使徒言行録6章1節を見ますと、「弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」と、そのあたりのことが説明されています。そのことを受けて、よく知られている御言葉ですが、2節以降で、「12人」と呼ばれる使徒たちが、「神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなた方の中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」と提案しています。ステファノは使徒たちの言葉にあるように、「”霊”と知恵に満ちた評判の良い人」という基準を十分満たしていたのです。
ステファノたちの出現によって、ごく初期の教会は順調に歩みを進めたかに見えましたが、日本で言えば、「出る杭は打たれる」と言ったようなことが、ステファノの身に降りかかります。使徒言行録6章8節によると、「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」のですが、「”霊”と知恵に満ちた評判の良い人」という条件をクリアするばかりか、「信仰と聖霊に満ちている人」と紹介され、改めてここでは「恵みと力に満ちている」とまで言われたこのステファノが、何と同胞のユダヤ人からの反対にあうのです。このようなステファノに対する誤解や無理解、そして偽証人まで立てて彼を逮捕する様子は、私たちの主であり救い主であるイエス様の姿を彷彿とさせます。使徒言行録の著者であるルカはあえてここで、十字架での死に向かっていかれるイエス様の姿にステファノを重ね合わせて描いているかのようです。
使徒言行録の7章に入って、ステファノが何の原稿も開かずに、イスラエルの歴史を振り返って滔々と説教をしていく姿に、彼が食事のお世話の仕事という枠にとどまらない、説教者としての立派な姿を見て、まさにその信仰と聖霊に満ち、かつ恵みと力に満ちている様子を目の当たりにして心打たれるところ、今日の聖書箇所の直前、7章54節に「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」とあるのを読むと、人々の狂気ここに極まれり、と思わざるを得ません。しかしステファノはその様子に恐れをなすどころか、却って聖霊に満たされ、なお天を見つめるのです。このように、使徒言行録における聖霊は、信仰者のうちに働いてその人を支える力として描かれます。復活のイエス様を信じて、イエス様と同じ姿になる洗礼を受けて、約束の聖霊を受けるのです。その聖霊に励まされて、ステファノは天を仰ぐのです。そこで彼は、神様の栄光と神様の右に立っておられるイエス様を見ます。そのイエス様は、つい先ほど私たちが使徒信条によって「十字架につけられ、死して葬られ、よみにくだり、三日目によみがえり、天にのぼり、父なる全能の神の右に座し給えり」と告白した、復活のイエス様なのです。
ここでは、自分の殉教を前に、恐怖を振り払うかのごとく天を見つめるその敬虔なる姿勢が大事なのではありません。天を見つめて、彼が何を見たのか、ということです。その視線の先にはステファノの救い主であり、私たちに救い主であるイエス様がおられました。人生最大の危機に瀕し、それでもなおイエス様の姿を仰ごうとするところにその重要性があるのです。そしてもう一つ大事なのは、彼が見たままを口にしたことです。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と彼は告白しました。まさにそれは、コリントの信徒への手紙二4章 13節で「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます」と書かれていることと、「見る」と「信じる」の違いこそあれど、つながる部分があるように思います。また、今年の目標にあるように、「わかち合う」こと。この時、ステファノが、自分が見たことを語らなければ、その恵みはステファノの中だけで完結してしまうところでした。しかし、見て、信じて、それで語った。そのようにしたときに、何と人生のいちばん暗闇深い瞬間に、輝かしい復活のイエス様を見て確信するという、その得難い経験が、他者に伝わったのです。その後のどれだけの人々が、このステファノの経験によって慰められ、励まされ、力を得たことか。ある人は彼と同じように捕らえられ、まさに同じように人生の光が消されそうになるその瞬間に、そうだ、ステファノはあの時天を見つめて復活のイエス様を目にした、私も同じように天を見つめよう、と最後の力を振り絞って天を見上げたかもしれない。ステファノが最後に口を開いたことで、彼の証しの言葉は多くの人々への励ましとなったのです。
続く57節も、58節と切れ目がありませんので、一緒に振り返りたいと思います。
「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、
都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。」(57,58節)
ここで突然「サウロ」という名の若者が登場します。後のパウロであることはご存知のことでしょう。ルカは8章に入って彼がステファノの殺害に賛成していたことを明らかにしているものの、慎重に、実際には手を下していないことを、彼が荷物番であったことを報告することで明確にしています。この、旧約聖書の著名な登場人物であり、イスラエルの初代王であったサウルと同じ名前をいただいていたこの若者が、この時目の前で起こっていることをどのように見ていたのか。頭では、「これはユダヤの律法にのっとって正当に行われていることだ」と必死に理解しようとしながら、心の中では何か割り切れない思いがあったのではないでしょうか。のちに彼が回心して復活のイエス様を信じるようになる基礎は、実にこの時に据えられていたのではないでしょうか。
そのように、若きサウロに影響を与えたと思われるのが、続く59節、また60節に記されている、ステファノの最期の言葉です。59節を見ると、「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』」と言った」、とあります。この時サウロは、どうしてこの人はここまで平安なのだろう、と感じたのではないでしょうか。何しろ彼の心の中には、「なぜ同じ唯一の神様を信じるユダヤ人なのに、人間の姿をして現れたイエスなんぞをメシアだと信じる人々がいるのか。そのような人々は根絶やしにしなければならない」といったような、全く穏やかならぬ思いが渦巻いていたのです。人はそのように、心の中に燃えさかる火に従って、そのどうにもこうにも制御できない衝動に突き動かされて生きるものなのだ、などと彼は思い込んで自分を納得させようとしていたかもしれない。なのに、目の前にいる人物はどうか。周囲の激しい憎悪の中で、まさに不当に命の灯を吹き消されようとしているのに、それに抵抗することもなく、呪いの言葉を叫ぶわけでもなく、達観したかのように自分の人生の終焉を受け入れ、「わたしの霊をお受けください」などと口にする。しかも、「主イエスよ」などと呼びかけて。そのような呼びかけは、私たちユダヤ人は絶対にしないものだ。言いようによっては、信じてきたその主イエスとやらに迷惑を掛けられているようなものなのに、なぜ信じるのを放棄しないのか。その穏やかさの中に、山のように動かないものを、ステファノの最期の姿に感じていたかもしれません。そのような静かなる確信を私も得たいと、若きサウロは思ったかもしれません。
最期の最期にステファノが叫んだ叫び、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」は、まさにイエス様が十字架の上で祈ったあの祈りのエコーです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という私たちの主であり救い主であるイエス様の祈りは、新共同訳ではテキストの伝承に異論があるとして括弧の中に入れられていますが、ステファノの祈りの土台として、当然実際にイエス様が祈られた祈りでありましょう。まさにそれは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(第一ペトロ2章23節)という姿勢そのものでした。恐らく伝え聞いていたイエス様のその祈りに深く心ゆすぶられていたステファノは、自らも周囲の無理解と怒りの中で息絶えようとするときに、イエス様のように、「周囲の人々の罪の赦しを願う祈り」を祈ったのです。
世の中には「辞世の句」というものがありまして、例えば明智光秀の娘でクリスチャンであった細川ガラシャは、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠み、「死ぬべき時を知っていてこそ、花は花となり、人間が人間たりえるのだ」という意味から発展して、「花も人も、散りどきを知っているからこそ美しいのだ」と解釈されているそうですが、人が貴重な一度限りの人生の最後に何を語るかは、その人の人となりをすべて映し出すと言っても過言ではない程、重要であることは間違いありません。その、人生最後の言葉の中に、「罪」という、どちらかと言えばそのようなケースには避けたい言葉を持ち出してきている。ステファノは、「いいよいいよ」という馴れ合いで赦しということを持ち出してきているのではなく、罪は罪として、すなわち、このように無実の罪で自分の命が奪われていくことをはっきりと罪である、と定義しています。その上で、その罪を「彼らに負わせないでください」と、赦しを願っているのが重要な点なのです。
このようにできたのは、一重にステファノが「天を見つめて」いたからにほかなりません。そこに復活のイエス様を見たからこそ、今消えゆこうとしているこの世の命で最後なのではなく、自らにも復活の希望、永遠の命の約束があることを信じて、悔いることも、嘆くこともなく、罪の赦しを願うという、究極的なプラスの、前向きな思考の方向性をもって、安心して眠りにつきます。私たちも同じく天を見つめて、復活のイエス様を仰ぎ、永遠の命の希望に生きていきたいものです。
お祈りしましょう。
私たちの主であり救い主であるイエス様を死者の中から復活させられた父なる神様。
あなたの御名を賛美します。
「父よ、彼らをお赦し下さい」と十字架上で祈られたイエス様のように、
そして、「その罪を彼らに負わせないでください」と祈ったステファノのように、
私たちもあなたから赦しの心を与えられ、
天を見つめて復活の希望、
永遠の命の確かな約束をいただき、
この地上での歩みを続けることができるように導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
【報告】
・昼食会があります。
・5月11日は合同婦人会です。ゲストは岡本依子先生で、10時半より母の家ベテルでの開催です。
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