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執筆者の写真明裕 橘内

2023年5月28日  聖霊降臨祭 礼拝

聖書交読 民数記11章24~30節(旧約p232)

司)24:モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。

会)25:主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。

司)26:宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。

会)27:一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。

司)28:若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。

会)29:モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」

全)30:モーセはイスラエルの長老と共に宿営に引き揚げた。





聖書朗読 マタイ28章16~20節(新約p60)

16:さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。

17:そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

18:イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


今朝は御影の礼拝では岡本牧師の説教のため、園田伝道所での橘内牧師の説教を掲載します。


説教 「ねたみを越えて」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日は聖霊降臨祭、ペンテコステです。イエス様は地上でお出会いになる人々の助け主として働かれましたが、印象深く、「父なる神様はもうひとりの助け主を与えてくださる」「そしてその助け主があなたがたとずっとともにいるようにしてくださる」と約束なさいました。ヨハネの福音書、14章16節のことです。ここで言われる「もうひとりの助け主」こそ、私たちひとりひとりの内側に住んでくださる聖霊です。ヨハネはそのほかにも、人格としての聖霊についていろいろと述べています。その助け主である聖霊が、私たちのもとに来てくださったことを、今日ともに確認し、ともに喜びたいと思います。


午前中は御影の礼拝でミネアポリスの宣教に行かれる岡本告先生のお話しでした。午後の園田伝道所での礼拝は、聖書交読の箇所から、語らせていただきます。旧約聖書時代の聖霊について述べているところです。

まず、25節を振り返ってまいりましょう。


25:主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。


ここで明らかにされているのは、この当時、モーセに霊が授けられていた、ということです。これは、聖霊のことであると見て間違いないでしょう。主なる神様は、働きのさらなる拡大を願い、モーセだけでなく長老たちも、聖霊に押し出された力強い働きをなしていくように、との願いをもって、霊の分与をなさったのではないでしょうか。ここではむしろ、聖霊の賜物の分与、ということだったと考えた方がふさわしいかもしれません。


霊の働きは顕著で、「霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になった」とあります。これは旧約における聖霊の働きには共通してみられることで、例えばサウルも、イスラエルの初代の王様になるべくして油注がれたとき、主の霊が臨み、同じように預言状態になり、「サウルも預言者なのか」、と驚かれています。


ただし、次の「続くことはなかった」というのが、旧約時代の限界を示しています。そうなのです。聖霊の働きは、永続的ではなかったのです。霊の働きが与えられる人も限定的であれば、その期間も限定的だったのです。それから比べたら、私たちは当たり前のように、聖霊の働きを常に、永続的に受けることができていますので、これはいくら感謝してもしきれないほどの恵みです。まさに、今年のみことばにあるように、主の絶えることのない慈しみと、尽きることのない憐れみがあるからこそ、実現したことです。


続いて、26節で話が動きます。


26:宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。


実は24節で、モーセは「民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた」とあるのですが、その範囲外で、さほど重要とも思われていなかったのかもしれない二人の人物までもが、残っていた宿営で預言状態になった、というのです。ここでは、70人に選ばれなかったことと、宿営の外ではなく、宿営の中で預言状態になった、ということで、二重の意味で枠を超えた出来事であったことが示されています。


では、次は27節と28節を続けて読んでみます。


27:一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。

28:若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。


どうしてもこのような、枠に収まらないような出来事が起こると、それを問題視し、見逃すことなく暴こうとする動きが起こります。「一人の若者が・・・告げた」とありますから、正義感の強い、血気盛んな青年だったかもしれません。モーセに選び出された70人ならともかく、そうでないものが、どうして預言状態に入っているのか。これはあってはならないことだ。いや、間違っていることだ。早速報告せねばなるまい。そのように思ったのかもしれません。


モーセの従者で、のちにはモーセを継いでイスラエルのリーダーとなり、彼らを約束の地に導き入れることになるヨシュアでさえ、この時「今起こっていることはよくない」と判断しました。だからとっさに、「わが主モーセよ、やめさせてください」と、モーセを「わが主」とまで呼んで、切実に願ったのです。


ですが、ここでモーセは、ヨシュアの中にあるひとつの思いを見抜いていたようです。29節を見てみましょう。


29:モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」


モーセは、「良かれと思って」といった感じのヨシュアの発言の背後に、「ねたむ心」を見抜いていたのです。ある私の知り合いの牧師は、「ねたみこそ、すべての罪のはじまりである」と言いました。確かに納得できるふしがあります。人間が神様に背を向けた、その最初の最初の出来事を思い起こしてみましょう。サタンがエバをそそのかし、アダムともども、神様に背を向けるように仕向けるというあの恐ろしい出来事。もしかしてそれは、なぜ人間だけが愛され、祝福されているのか、こんなにも不完全なのに、というような、ねたみの心が発端であったかもしれないのです。そう思うと、「ねたみこそ、すべての罪のはじまり」という言葉に、大いに納得するのです。


のちの偉大なイスラエルのリーダーさえ、心にあるねたみを隠しきれませんでした。押さえておくことができなかったのです。その点では、彼もまた、神様の前ではひとりの罪人に過ぎませんでした。そのように人の罪を指摘している私自身も、牧師とは言え、どこかで〇〇という牧師が大きな働きをしていると聞けばなぜ私ではないのかとねたみ、〇〇という大きなイベントの講師が〇〇牧師に決まったと聞けば、また私もいるのに、と妬む。そのような小さな罪人に過ぎません。


しかし、それでも絶望してうなだれることなく過ごしていられるのは、私を造ってくださった神様が、私を愛するがゆえに救い主イエス様を送ってくださり、私を救ってくださって、なおも助けようと、いつも私のかたわらにいてくださる聖霊を送ってくださっているからです。


モーセの「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」という言葉には、主なる神様によって、ねたむ心から解放され、本当によいことは何なのか、ということに目を向けることができるにようになったリーダーの姿を見ることができます。モーセは、2人の者が別に預言をしていた、すなわち霊の働きを受けいていたからと言って、それが悪いとか、ねたましいとか、思うことはありませんでした。むしろ、長老ばかりか、民すべてが預言者になればよい、すなわち、聖霊の働きを受けたらよいのに、ぐらいの広い心を持っていました。今この願いは、単に一人の人のささやかな願い、というのを越えて、神様の御心と一致し、実現しました。モーセの願い通り、今や信じる者すべてに、聖霊が注がれるようになったのです。神様のお働きは偉大です。ひとりの人の、ふとした願いを捨て置かず、ちゃんと実現させてくださった。それで今があり、私たちはこうして、一人一人が、助け主である聖霊の働きを受けて、力強く歩ませていただいているのです。





お祈りしましょう。

全能の神様、あなたはこの時に聖霊を降し、そのみ光によってみ民の心を照らしてくださいました。どうか私たちも同じ聖霊によって万事を誤りなくわきまえ、常にそのみ助けを喜ぶことができますように。


イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


【報告】

・先週は三田フェローシップ・キリスト教会との交換講壇でした。

・本日は、御影の教会では岡本告牧師の説教でした。

・来週は洗礼式があります。昼食会があります。

・6月の園田伝道所礼拝は、都合により第4週目のみとなります。


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