聖書交読 使徒1章1~11節(新約p213)
司)1:1章 1-2節 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
会)2:1章 3節 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
司)3:1章 4節 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
会)4:1章 5節 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
司)5:1章 6節 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
会)6:1章 7節 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
司)7:1章 8節 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
会)8:1章 9節 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
司)9:1章 10節 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
全)10:1章 11節 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
聖書朗読 ヨハネ14章1~14節(新約p196)
1:「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
2:わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
3:行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
4:わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
5:トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
6:イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
7:あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
8:フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
9:イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
10:わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
11:わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
12:はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
13:わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
※本日は交換講壇で御影ルーテル教会の説教はシスター・ギゼラです。そのため、ここには、本日の聖書交読の箇所に基づく、橘内師の三田フェローシップ・キリスト教会での説教を掲載します。
説教 「天に上げられたイエス様」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
今日はイエス様が天に上げられたことをお祝いする、昇天主日です。それに合わせ、イエス様の昇天の次第を記す使徒の働きの1章1節から11節を開いております。その中でも特に、イエス様の昇天について記している箇所について、御言葉が語っていることに耳を傾けていきたいと思います。
まずは2節を振り返ってまいりましょう。
「それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。」(2節)
ここで、「天に上げられた日」と、イエス様の昇天のことがはっきりと記されています。ちなみにその前の「お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後」というのは、マタイの福音書の最後で、
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章 18~20節)
とイエス様が使徒たちにお命じになった後のことを指していると思われます。これは、イエス様による大宣教命令と呼ばれています。この使徒の働きの著者はルカであると言われていますが、ルカはこの大宣教命令を、聖霊によって命じられたものと解釈しています。そのことがあって後、イエス様は天に上られます。
それは、イエス様のなさった救いのわざが正しかったと神様に認められたことを意味しています。天に上げられるとは、神様の領域である天にイエス様が行かれた、あるいは帰られたことを表しています。人々の救いの御計画の実現のために、イエス様は天から降りてきてくださいました。ということは、次にお戻りになられるときは、その御計画を実現し、目的を果たした時のはずです。イエス様が苦しみを受け、十字架にかけられるということが私たち人間を罪から救うのに十分であることを神様がお認めになられたからこそ、イエス様は死の世界に押しとどめられることなく、復活させられたのであり、そこにイエス様の神様としての栄光が現れた以上、もう父なる神様はイエス様を地上に留めておくことをせず、帰って来なさい、ということで天に上らせ、使徒信条にあるように、ご自分の右の座につかせられたのです。そして、もうひとりの助け主としての聖霊を送り、聖霊による新しい時代の幕上げをご用意なさったのです。
次にイエス様の昇天のことが出てくるのは9節以降です。9節から、1節ずつ振り返ってまいりましょう。
「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。」(9節)
イエス様の昇天が、誰もいないところで、ひっそりと起こったのではない、ということがここで明らかになっています。これは、イエス様の復活と好対照をなしています。イエス様の復活はもちろん事実なのですが、その瞬間を目撃した人がいないため、使徒たちでさえ、それをなかなか信じることができませんでした。それを確信させるため、イエス様は使徒たちの前に何度も現れなければなりませんでした。それに対し、イエス様の昇天は「使徒たちが見ている間に上げられた」と記されている通り、使徒たちの目撃のもと起こった、確かな出来事だったのです。これについては、疑いようがありませんでした。しかも、単にイエス様は見えなくなったのではなく、上空に上って行かれたことを示唆しています。その様子は、イエス様が神様であることを強く意識させたのではないでしょうか。
続く10節に目を移していきましょう。
「イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。」(10節)
使徒たちが見つめていた「天」ですが、その意味は「神様の領域」ということですから、必ずしも「上空」ということではないのですけれども、9節で雲に包まれるイエス様の様子が描かれていましたが、それからすると、やはり使徒たちが、上空を見上げてイエス様を見送っていたことがうかがわれます。ルカはここで、イエス様の昇天が非日常的な奇跡であったこと、天に上られたイエス様が人間を超えた存在、神であったことを表そうとしていますが、極めつけは「白い衣を着た二人の人」ということで、天使の現われについて記しています。これは、「輝く衣を着た二人の人」ということで、イエス様の復活の後現れた天使についての表現と類似しています。これは、イエス様の昇天が特別な出来事であることを如実に物語っています。
このように、イエス様の復活の後にも、また昇天の後にも現れた天使と思われる存在ですが、彼らはもとはといえば神様のメッセンジャーですから、出会った人々にメッセージを伝えます。ルカによる福音書によると、復活の後は、イエス様のお墓を訪れた婦人たちに、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」とメッセージを告げます。昇天の後では、11節ですが、「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」と告げています。
共通しているのは、まず問いかけをしていることです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」また、「どうして天を見上げて立っているのですか」と天使たちは問いかけます。しかし、これは純粋な問いではありません。むしろ、「それは無駄なことである、必要のないことである」という主張を伴う言葉です。「どうしてもう復活して生きておられる方を、あたかもまだ死んでおられる方であるかのように、死者の中に捜すのか。それはまったく無駄なことである」。また、「どうして天を見上げて唖然として立ち尽くしているのか。その必要はない」ということを、本来は告げようとしているのです。そして、そのあとには、約束が続きます。復活の後は、マタイの福音書によると、「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」という約束がなされています。昇天の後では、「イエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」と、約束されています。どちらも、再会の希望です。復活の後、確かに使徒たちは、ガリラヤでイエス様に再会できました。ですから、イエス様が天に上られた後も、もうこれでイエス様にお会いすることは出来ない、と嘆き悲しむ必要はなく、確かに再会出来る、と確信できるのです。
これは、イエス様が再び来られる、再臨の約束でもあります。イエス様は一度、弱々しい赤ちゃんの姿で、救い主としてこの世に来られましたが、後には全世界の王として、再び来られると約束されています。世に再び臨まれる、ということで「再臨」と呼ばれていますが、まさにここに、その再臨の約束がなされているのです。
このように、イエス様の昇天が、イエス様の再臨の約束につながることを見てまいりました。最後に、またイエス様の昇天のことに戻って、それをイエス様が「去っていく」という観点で、改めて考えていきたいと思います。
使徒たちとしては、復活のイエス様に再会して、そのままずっと一緒にいた方が、どんなによかったことでしょうか。でも、イエス様はこうおっしゃっているのです。
「実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。」(ヨハネ16章7節)
これは、「私が去る方が、あなたがたの益となる」ということであって、なかなか言えないことだと思います。でも、これがイエス様の愛なのです。こう続けておられます。
「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなた方の所に来ないからである。」(同節)
イエス様は使徒たちをこよなく愛して、その益となることだけを考えておられました。そこで、御自分がずっといるよりも、弁護者、すなわち聖霊を送ることを望まれたのです。その方が良い、と考えられたのです。その聖霊は、
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」
と8節にあるように、使徒たちを力強い証しをする存在に変えていく偉大な神の力です。イエス様は、私たちにもそのような力を与えようと、今も私たちに、聖霊が臨むようにしてくださっています。その辺りのことは、来週が聖霊降臨祭、ペンテコステですので、詳しくお話があろうかと思います。
今私たちの主であるイエス様は、天におられます。私たちの心も、あたかも天に駆け上るかのようです。地上の目先のことで簡単に不安になったり、心曇らせたりする私たちではありますが、何しろ私たちの国籍は天にあるのですから、目を天に向けて、希望にあふれて毎日を送りたいものです。その天から、私たちを迎えに、イエス様は再び来られるのです。
お祈りしましょう。
全能の神様、私たちはひとりの御子イエス・キリストが天に昇られたことを信じます。どうか私たちも心と思いを天に昇らせ、絶えず主と共におらせてください。
この地上では困難が多く、不安も心に押し寄せますが、いつも再臨のイエス様に再会できる希望を心に抱き、上を見上げて歩み続けることができますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
【報告】
・本日は交換講壇です。三田フェローシップ・キリスト教会からシスター・ギゼラがご来会、代わりに橘内師が三田フェローシップ・キリスト教会へ行かれています。
・来週は、ミネアポリス・フェローシップ日本人教会に派遣される岡本告牧師がご来会、説教と宣教のアピールをしてくださいます。
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