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執筆者の写真明裕 橘内

2023年5月14日  復活節第六主日礼拝


聖書交読 詩編66編8~20節(旧約p898)

司)8:諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。

会)9:神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。

司)10:神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。

会)11:あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ

司)12:人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた。

会)13:わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。

司)14:わたしが苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように

会)15:肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を/雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。

司)16:神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。

会)17:神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます。

司)18:わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。

会)19:しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。

全)20:神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした。


聖書朗読 使徒17章22~31節(新約p248)

22:パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。

23:道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。

24:世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。

25:また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。

26:神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。

27:これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

28:皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。

29:わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。

30:さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。

31:それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」


説教 「確信の源」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


22:パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。


パウロは伝道旅行の途上で、ギリシアのアテネを訪れます。その時、パウロの関心はアテネの人々の信仰心でした。よく観察したうえで、パウロは「あなたがたは信仰のあつい人々だ」と評価しています。しかしそれはあくまで、聖書の神様ではない、彼らが神様だと思っている存在に対する熱心さでした。実は「信仰のあつい」と訳される言葉には、「迷信深い」という意味もあるのです。ただここでは、パウロにはそれを責める気持ちはなかったように思われます。


23:道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。


むしろ、23節によると、その信仰心を一つのチャンネルとして、接点として、何とか聖書の神様に対する信仰を伝えたい、という思いがあったように思われます。「知られざる神」まで大事にしている信仰心のあついあなたがたに、せっかくだから、その方が誰なのか、ということを伝えましょう、そうすれば、誰なのかわかって信仰できるようになりますよ、ということです。


では、24節を見てみましょう。


24:世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。


ここでパウロは、聖書の神様をひとことで「世界とその中の万物とを造られた神」と紹介しています。これは、言い換えれば「創造論」ということです。その観点で、神様をこのユダヤ人ではない、異邦人であるアテネの人々に紹介しています。これは、この神様が人間に与えてくださる「救い」に関する方面から、すなわち「救済論」からアプローチしていく方法とは異なっています。パウロとしては、アテネの人々の中に、あつい信仰心、という接点を見つけ、そこから伝道していこう、というときに、創造論を押していった方が入りやすい、受け入れられやすい、と考えたわけです。ただし、すぐパウロは鋭く、真理の指摘に入ります。まずこの創造の神様を「天地の主」と言い換えた上で、そのような神様は「手で造った神殿などにはお住みになりません」と断言しています。現在の状況の否定にもなりますが、この辺りは、「そんなことを言ったらアテネの皆さんは気を悪くするだろうか」とは考えていないようです。伝道するからと言って、決してアテネの人々におもねるわけではないのです。


次の25節は24節の続きです。


25:また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。


前半の部分、否定の部分を、パウロがどのような表情で、どのような口調で語ったのか、今となってはわからないのが残念です。アテネの人々は間違っているのだ、として強い口調で語ったのか、それとも、丁寧に、優しく諭すように伝えたのか。どちらもあり得るような気がいたします。後半は、何かを否定しているわけではなく、神様がどのような方かを伝えている部分です。ここはそれほど厳しい口調ではなかったことでしょう。「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」というのは、アテネの人々にも受け入れられやすく、パウロの話を聞きながら、「そうだ、そうだ」あるいは「なるほど」と言ってもらえたのではないでしょうか。


続く26節、「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」というパウロの教えも、「一人の人からすべての民族を造り出して」という部分を除けば、アテネの人々にはわかりやすく、受け入れられやすかったようにも思います。地上の到るところに人を住まわせ、季節を決めて時を進められる方がおられる、という感覚はある程度パウロのようなユダヤ人と共有できる部分があったのではないでしょうか。日本人として考えても、ある程度納得できるようにも思います。あとは、「ひとりの人からすべての民族が造り出されたのは本当か」というあたりと、「居住地の境界が神様によって定められた」というあたりです。パウロは創世記に従って、アダムひとりからすべての民族が造り出された、と主張しますが、この辺りはどう受け止められたのか、受け入れられない人もいたのではないか、という気もします。ただ、この時代にはすでに、ギリシア語に訳された創世記がありました。ギリシア人の中のインテリの中には、それを読んでいる、という人もいたでしょう。この、アダムからすべての民族が造られたという話知っている、という人もいたかもしれません。また、神様が「彼らの居住地の境界をお決めになりました」と言うところに関しては、アレキサンダー大王が領土を拡大していったという民族の記憶を大事にしている人には、「神様ではない、アレキサンダーが境を定めたのだ」という気持ちがあったかもしれません。アテネの人々との接点を求めながらも、すべてが受け入れられたとは限らなかったのです。


27節に目を転じますと、「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」とあり、ここでもパウロはあくまでアテネの人々に寄り添おうとしています。ここでのテーマは、「私たちから遠くない神様」ということです。まず、神様が人に御自分のことを求めてほしいと願っておられること、それから、求めさえすれば神様を見出すことができること、これがパウロの主張でした。これはアテネの人々に何とか聖書の神様のことを知ってほしい、というパウロの願いの表れであって、この方こそ、あなた方が「知られざる神」と銘打って祭壇を立てて崇めていた方なのだ、という主張でもあったのです。そして、決めの言葉は、「実際、神はわたしたち一人一人から遠く遠く離れてはおられません」となっています。ここは、もとの文章でも「遠く離れる」が否定されて「遠く離れていない」と書かれています。「近い」と言うのと「遠く離れていない」と言うのはどう違うのでしょうか。「近い」と手放しで、楽観的に言うことまではできない。しかし、かと言って遠いというわけでもない。その辺りの微妙なニュアンスがあったのではないでしょうか。あるいは、遠いかどうかという距離のことよりも「離れてはいないのだ」という親しい関係の方を伝えたい、ということもあったかもしれません。もちろん、「遠く離れていない」と言う方が強調表現となり、印象に残る、ということもあったでしょう。


パウロはここで、もっとアテネの人々の心に近づいていこうと、敢えてギリシアの詩人たちのことばを引用してきます。パウロが何か引用するとすれば旧約聖書から、と限られたわけではなく、伝道のためとあらば、信条の異なる異邦人の詩も引用してくるわけです。勿論、それを可能としたパウロの見識の広さ、深さもありました。


28節で引用されている詩ですが、2つありまして、前半の『我らは神の中に生き、動き、存在する』はクレタ島のエピメニデス(BC600年頃)の詩だと言われています。後半『我らもその子孫である』の方は、キリキヤの詩人アラトス(BC300年)の詩から取られていると言われています。前半はやや汎神論的にも見えて、日本人にも馴染みがあるかもしれません。日本での伝道を考えたら、このようにパウロが相手との接点を求め、相手に合わせて語っているところは大いに参考になります。後半は、もとは「私たちはゼウスの子孫である」と言われていました。そのギリシアの神である「ゼウス」を「神」と置き換えて、私たちはこの神様の子孫である、と神様と人間の連続性について触れています。パウロとしては、もともとイエス様が人間の姿で来られたのに、神のように信じられているのを嫌って迫害していたわけですから、神様と人間とのいかなる連続性も避けたかったはずです。それなのに、敢えて正統の神学のギリギリの線で、パウロは何とかしてギリシア人とのつながりを模索したのです。これは、救いのためとあらば、ギリシア人にはギリシア人のようになる、というパウロの伝道の精神が表れています。


29節、「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」については、物の本によりますと、神の子孫であるなら、神である方を偶像と同じにしてはならない」という、パウロの見事な論理であること、パウロが「人間が神の形に造られた」という創世記の神学を下敷きとして語っていることが指摘されていました。再びここではパウロの口調は現状の否定となっています。すなわち、「神である方を、人間の技や考えで作った金、銀、石などの像と同じものと考えてしまっている」というのが残念ながらギリシアのアテネの人々の現実でありパウロはそれをここで否定している、ということです。このように、パウロはアテネの人々との接点を大事にして、大いに譲歩し、場合によっては異教のギリシアの詩まで引き合いに出しながら語っている部分と、はっきり言うべきところははっきりと、違うと言っているところと、両方あることがわかります。




30:さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。


神様の存在が遠い、と思うこともある私たち人間に、実は神様は、「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるように」していてくださったのですから、驚きです。それにもかかわらず、神様を人間が作る像と同じように考えてしまっていた人間を、神様はその尽きることのない憐れみによって大目に見て来てくださったのですが、パウロの時代にすでに、「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と言われています。すなわち、方向を変えて、神様を神様として信じるようにと求めておられるのです。


31:それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」



その理由は、「先にお選びになった一人の方」、すなわちイエス様によって「この世を正しく裁く日をお決めになったから」と言われています。この日は、イエス様を信じて歩んできたことが正当に認められ、永遠の命の約束がいよいよ実現する日です。神様はこのイエス様を死者の中から復活させて、すべての人にそのような救いの完成の日の確証をお与えになられました。このように、信じるための確証は神様の方がご用意くださっています。すなわち、確信の源は神様なのです。ですから、あとは神様にお任せして、安心して過ごすことができるのです。


お祈りしましょう。

世界の造り主、父なる神様。

あなたがお選びになられた一人の方、イエス様を復活させられることによって、私たちに信仰の確信を与えてくださり感謝します。

私たちから遠く離れておられないあなたは、私たちが求めさえすれば、見出すことができる方です。そのことに感謝します。

どうか迷いやすく、不安に陥りやすい私たちが、いつも神様を近くに感じて、安心して過ごしていけるように、日々助けてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


【報告】

・コロナが5類扱いに変わりましたので、マスクの着用も個人の判断にお任せします。


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