聖書交読 イザヤ25章6~9節(旧約p1098)
司)6:万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
会)7:主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし
司)8:死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
全)9:その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
聖書朗読 マタイ28章1~10節(新約p59)
1:さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2:すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
3:その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4:番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5:天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
6:あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
7:それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
8:婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9:すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10:イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
説教 「救い主に会える」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
今年もイースターの時を迎えました。私たちの希望の基となる日です。まだ洗礼を受けたばかりのころだったと思いますが、東京の教会におりました頃、青年たちで板橋の高齢者施設を訪問して賛美をさせていただいたことがありました。私はフルートを担当しましたが、その時私たちを紹介してくださった施設の方が、大きな声で開口一番、「クリスマスはキリストの復活のお祝いの日ですね!」とおっしゃって、私たちはどう反応してよいものか、顔を見合わせたことを覚えております。普段なじみのない教会とやらからやってきた私たちに合わせて、一生懸命言ってくださったのだと思いますが、実際は、このイースターが、復活祭と言われるように、キリストの復活を祝う日です。そして、私たちが復活の希望をいただくことができる日なのです。ご一緒に、キリストの復活についての聖書の言葉に聞いてまいりましょう。
今日の福音書の箇所では、イエス様にお会いできるという約束が2回繰り返して語られています。それだけ確かな約束であることがわかります。まず一度目は、イエス様が復活され、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(7節)と言われております。これは天使の言葉とされています。二度目は「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)とあり、これはイエス様ご自身の言葉です。約束が二度繰り返されているだけでなく、何と言ってもイエス様から直接お言葉をいただけたのが嬉しいことです。これはまさに今日の聖書箇所の中の良い知らせ、福音とも言うべきことではないでしょうか。
7節の「お目にかかれる」、そして10節の「会うことになる」ですが、いずれも「見る、会う」という言葉で、未来のこととして書かれています。未来形で書かれている、ということです。日本語ですと、未来形というと「お目にかかれるでしょう」「会えるでしょう」となって、何となく定かでないことのような印象があります。ですが、先のことだから起こるかどうか定かでない、というのではなく、未来に確かに起こることとして書かれていると言われます。それだけの確実性があるとして、少し言い換えますと「お目にかかることができる」「会うことになっている、会うことに決まっている」とも言える表現になっているのです。
加えて、ここで大事なキーワードとして、イエス様の宣教活動の拠点でありました「ガリラヤ」、「わたしの兄弟たち」といった言葉がこの約束には加えられています。「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」、「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」というところです。私たちもまた、弟子たち同様、私たちにとっての「ガリラヤ」に行って、イエス様にお会いできます。しかもその時、私たちは弟子たち同様、「わたしの兄弟」と、イエス様に呼んでいただけるのです。
私たちにとってのガリラヤとはどこでしょうか。ガリラヤをイエス様の宣教活動の拠点と紹介しましたが、それだけでなく、イエス様がたいへん親しまれた地であると言えると思います。イエス様がその地上での歩みにおいて、実際にその足で歩まれたガリラヤ。私にとってのガリラヤも何も、実際のガリラヤに行くのだ、そこでイエス様にお会いできるのだ、という言い方もできるでしょう。人気ドラマでも、そのロケ地や撮影場所を巡る、いわゆる聖地巡礼がなされるわけですから、本当の意味での聖地、イエス様が歩まれたイスラエルを旅する、そして霊的な意味で、イエス様に触れると言いますか、イエス様にお会いするがごとく、その地で深くイエス様を黙想する、ということも実際にあろうかと思います。
それだけでなく、いや、それ以上に、私たちが御言葉でイエス様にお会いするような経験をする、ということを大切にするなら、私にとってのガリラヤ体験とは、御言葉体験に他ならない、ということになるでしょう。私たちはより一層、御言葉の時を大切にし、まさにその中でイエス様にお出会いする、ということを求めるのです。
またあるいは、イエス様が愛された場所、それは教会だ、ということになるかもしれません。エフェソ書の5章では、最近は先月の増田典子さんの結婚式を通して深く学ぶことになりましたが、いかにイエス様が教会を愛されたか、ということが述べられています。であるなら、ある意味で教会はイエス様にとってのガリラヤである、それは私たちにとっても同じことで、私たちがガリラヤでイエス様にお会いできるということは、教会でイエス様にお会いできる、ということにもなるのです。教会はキリストの体ですし、この度は4月の第一週の礼拝と、受苦日礼拝で、一週間に二度も聖餐の恵みにあずかる機会を得ました。まさにその場にイエス様ご自身がおいでになり、ご自身の体と血とを、私たちにお与えくださったのです。まさに、ここに、イエス様がおられる。そのような教会で、イエス様に私たちはお出会いするのです。
イエス様が弟子たちを「わたしの兄弟」とお呼びになったことに関しては、私たちが主体的に御言葉を読み、私に宛てて書かれた書であると受け止める時、「わたしの兄弟」の枠は時空を越えて広がり、その中に私もいる、ということを見出します。私たちもまた、イエス様の兄弟と呼んでいただける恵みです。ここで兄弟とだけ書いてあることに寂しさを覚える必要はありません。もちろん兄弟姉妹のことです。御言葉を通してイエス様に親しんでいくとき、私たちはイエス様の兄弟と呼ばれ、まさに御言葉通り、イエス様と「会うことになる」のです。
イエス様とお会いすることを楽しみにしておられた方として、今日は最後に、先に天に召されたシスター・エーデルトラウトのことをご紹介したいと思います。シスター・エーデルトラウトのことを思い起こしますと、母の家ベテルにお尋ねしたときは、毎回、例外なく、満面の笑顔で迎えてくださいました。昨日シスターの愛された母の家ベテルでお別れ会が開催されました。日本フェローシップ・ディコンリー伝道会代表役員、アンドレアス・ファイファー先生の「思い出」の中で、シスターが天に召された2021年12月22日の二日前に、ファイファー先生の教会の集会に来られて、その集会の終わった夜、「主よ、来てください」と祈られたエピソードが紹介されました。ファイファー先生いわく、シスターはイエス様と顔と顔とを合わせてお会いするのを楽しみにしておられた。死を恐れる人が多い中で、その先にある希望をしっかり見つめておられた、とのことでした。そのような方が身近におられた幸いを感じたことでした。今私たちには、実際に復活の希望に生き、イエス様とお会いするのを楽しみにして生涯を送られた素晴らしい証人、証し人がおられます。私たちもそのあとに倣い、イエス様にお会いするのを楽しみにして、この世でどんなに荒波にもまれようと、勇気を失わずに進んでまいりましょう。
お祈りいたします。
御子イエス様を、その大能の力によって死者の中から引き上げられた父なる神様、
あなたの偉大なるお名前を賛美します。
今朝、この復活の朝をありがとうございます。
私たちにも復活の希望を与えてくださいました。
イエス様と顔と顔とを合わせてお会いできる日を夢見て、
それに支えられて、毎日の歩みを続けていくことができますように。
復活のイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・本日はイースター礼拝です。イースター献金をおささげしましょう。昼食会ののち、午後は1時から住吉霊園教団納骨堂にて墓前礼拝です。
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