聖書交読 1ペトロ2章19~25節(新約p431)
司)19:不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。
会)20:罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。
司)21:あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
会)22:「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」
司)23:ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
会)24:そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
全)25:あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
聖書朗読 使徒2章42~47節(新約p217)
42:彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
43:すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
44:信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
45:財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
46:そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
47:神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
説教 「何に熱心であるか」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
皆さんは今でも鉛筆をお使いでしょうか。ある鉛筆工場では、どうせ削られてしまう鉛筆であるにも関わらず、7回以上も丁寧に、表面の塗装をするそうです。それだけ熱心なのですね。どれだけ鉛筆を作るということを大事にしているかがわかります。
本日の聖書箇所を開くと、初期のクリスチャンの集まりが、何を大事にしていたかがわかります。42節に「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とありますが、彼らはこの4つに集中していたのです。43節以降は、その具体的な姿を描写しているとも受け取ることができます。
ここで「熱心であった」と訳されているのは「継続的に献身的に取り組む」という意味のことばです。「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」、これら4つのことに継続的に取り組んでいた。しかもそれは、献身的な取り組みだった、それに身を投じ、身をささげるほどの熱心な取り組みだった、ということが伺われます。
この継続的で献身的な取り組みに関して鍵となるのは、43節の「すべての人に恐れが生じた」という御言葉です。「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていた」ことから、このように神様に対する恐れ、畏敬の念が生まれていました。それは、ルターが小教理の十戒の項で繰り返し教えている、「私たちは、神様を畏れ、愛するべきです」という言葉と共通しています。まずは、神様を畏れるのです。そのことなしには、相互の交わりも、パンを裂くことも、祈ることもないのです。
「不思議な業としるし」という言葉の組み合わせは、どことなく出エジプトの偉大なる救いの奇跡を思わせるところもあり、使徒言行録では、使徒たちによる目覚ましい奇跡的な働きを表しています。それが、神様への恐れを生み出すのです。ひいては、その畏怖の念こそが、初代のクリスチャンたちの熱心さを引き起こしていたとも言えるのです。
続く44、45節は「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあり、先ほどの「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」という4つの熱心な献身的な取り組みのうち、「使徒の教え」、それから「相互の交わり」に当たると思われます。使徒たちはその当時の社会情勢に鑑み、信者たちがバラバラにではなく、一つになって、すべてのものを共有にして生きることがベストと考え、そのように教えました。もちろん信者側の、そのようにしたい、という自発的な思いも相まって、このような麗しい「相互の交わり」の姿、すべてを共有する姿が実現していきます。現代においては、社会は変化し、様々な社会サービスも充実していく中で、日本においてはここまでの共有の姿は見られなくなっていますが、だからこそ、「時間を共有する」ということはたいせつにしたいものです。このように同じ時間に同じ場所に集まり、この礼拝の時を共有することは、何にも代えがたい貴重なことです。
また、「分け合う」ということは、今の時代にも必要なことで、特に「受けた恵みを分かち合う」という事で考えると、昨年から継続で取り組んでいる目標、「変わらない主の恵みを共にわかち合おう」の実現のためにも、大いに継続的に、献身的に進めていくことが大事です。何かの恵みを受けた時、私がここで留めてしまっていたら、私一人の喜びで終わってしまいますが、それを周囲の人々に伝えたら、何人もの喜びへと増えていきます。そのような喜びの共同体は魅力的で、あそこに行くと、何だかいつもみんなが喜んでいる、ということになれば、自ずとそのようなところには人も集まってくるものです。
次の46節も文章が途中になっていますが、ここは1節ずつ見ていきたいと思います。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、」とあります。読めば読むほど眩しいと言いますか、今の私たちと違う、と思うかもしれません。コロナ禍にあって毎週の礼拝後の昼食会はお休みとなり、一緒に食事をする交わりの機会はなくなりました。現在少しずつ元に戻そうとしている段階です。そのような中で、ここに記されていることが理想に見えて、そうでない現実を否定するという心の動きも出てくるかもしれません。日本は一億総批評家と言いましょうか、野球でも、やれ監督のあの時の采配はどうとか、ここで見逃すとはバッターは何をしているのかとか、そう言った発言が多い傾向にあるように思われます。ちなみに、昨日三浦綾子さん関連の集会が教会を会場に行われましたが、あれだけ人気作の多い三浦綾子さんでも、多くの批評にさらされてたいへんだったそうです。それはそうと、私たちは、こと教会に関しては、批評家であるよりプレイヤーである方がいいでしょう。今の教会の状況を見て、それを傍観者のようにあれやこれやと批評するよりは、交わりの中に入って、自分のこととして何とかする、ということの方がはるかに健全です。
さて、この部分を分析してみますと、先ほど来指摘している4つの熱心さの要素のうち、「神殿に参る」に「祈り」の要素が見られ、そこに「パンを裂く」、そして一緒に食事をするという「相互の交わり」が見られます。
「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参る」ということに関しては、多少違和感もあるかもしれません。復活のイエス様によって新しくされた主の民は、目に見える神殿に参る必要があったのか。私たちにとって身近でない「神殿」という言葉からしても、やや偶像礼拝的と言いますか、せっかく踏み出した新しい世界から後戻りしているのでは、と思う節もあることでしょう。しかし、ごく初期の信者の群れにおいては、むしろ積極的に、後に私たちが「ユダヤ教の習慣」と見なしてしまうことに関して熱心である様子が見られます。それは、周りの人々への証しのためです。こんな話を聞いたことがあります。熱心にイスラム教徒の間でもキリスト教の伝道がなされていますが、1日に5回お祈りしなければならない生活から復活のイエス様によって新しい命をいただいて救われると、本人たちは解放されて喜んでいるものの、周りからは「怠惰になった」と思われるそうです。それでは証しにならないので、救いのために必要な業、ということではないけれども、救われたクリスチャンも一日に何度か、決まった時間にお祈りするように指導されるそうです。これも、神殿に参るユダヤ人クリスチャンと同じです。これから救われていく同胞たちのことを考えると、彼らに配慮してこのようにしていった方がよい、と判断したわけです。
「パンを裂く」ということに関しては、すぐにそれが今私たちが月の第一週目の主日に行っている聖餐式と重なり合うことがわかります。かつてはこのように、「家ごとに集まって」とあるように、各家庭に分かれて、聖餐式が持たれていたわけですね。もちろん、聖餐式だけではありません。礼拝自体、大きな礼拝堂に集まる、というのではなく、このように家ごとに集まって行なっていたと言われています。そこでは、人数は大事な要素ではありません。むしろ、そこで何がなされるか、ということの方が重要です。ユダヤ教の伝統に従って、聖書の朗読と祈りがなされていたことでしょう。それを、各家庭で行っていた。これは、コロナ後の、自由に集まることができるようになった後の教会の在り方においても、何か語るものがあります。本来各家庭で集まって行われていた礼拝が、時代や状況が変わってある一つの建物に集まって行われるようになった。ある時、特殊な状況下で、それにはリスクがあるということで、集まらない、という選択をするようになった。その状況が改善したからと言って、自動的に元のようにひとつの建物に集まって礼拝する、という形に戻すのが本当にいいことなのか。実際は考えてみる必要があるのかもしれません。
文章の後半、47節は、「神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」と記されています。目を引くのは、「民衆全体から好意を寄せられた」という描写です。誰のことでしょうか。それは、その当時ユダヤ教の中で新興勢力のように思われ、迫害されることもあったごく初期の信者の集まりでした。彼らは、周囲に迎合して、自分たちの主義主張を隠していたから好意を寄せられたのではなく、旗幟鮮明(きしせんめい)に、自分たちが熱心に、献身的に取り組んでいること・・・相互の交わり、パンを裂くこと、祈り、そして神様への讃美を打ち出していたままで、民全体から好意を寄せられていたのです。
それだけではありません。「主は救われる人々を日々仲間に加えてくださった」というのですから、驚きです。聖書を読んで、現状に照らし、こうであったらどんなによいことか、とある意味でうらやましく思う箇所のひとつではないでしょうか。
更に、またそれだけではなく、「一つにされた」とあることにも、注目しておきましょう。実際は、この「一つにされた」という部分は、口語訳にも新改訳にもなく、新共同訳において新たに採用された訳です。これまでの分の流れからすると、あってもおかしくない訳語です。というわけで、振り返ってみますと、本日の聖書箇所には、この「一つに」ということばが繰り返されていることがわかります。それは、44節「皆一つになって」、46節「ひたすら心を一つにして」、そしてこの47節「一つにされた」、ということで、実に3回も繰り返されています。
基本的に、聖書において繰り返しは強調を意味します。それは、「一つにならなければならない、それが理想だ」と押し付ける意味ではなく、むしろ、実際一つになるのは難しく、この時初代の信者の群れが一つになっていたのはまさに奇跡的だった、ということを伝えたかったのでしょう。事実、コリントの信徒への手紙第一では教会内に分裂があったことが赤裸々に描き出され、またガラテヤの信徒への手紙でも、急激に新しい福音の世界からもとの世界へ後戻りしていく人々のことをパウロは嘆いています。実際一つになることは難しかったのです。ユダヤ人たちが、日本人のように和を強調してひとつになりやすかった、と思う必要はありません。現代のイスラエルの状況が当時の状況とどのぐらい似ているかは何とも言えないものの、現代イスラエル社会においては、「主張すること」が重視されている、とも言われます。主張のはっきりしている人々が、そうやすやすと一つになれたとは思えません。
ですから、この繰り返し語られている「一つに」ということは、理想や努力目標ではなく、神様がこの時与えてくださった奇跡として感謝して受け止めることが大事です。こうならなければならない、と思うと御言葉の真意から外れる可能性があります。こうでないと、と思ったら苦しいですし、それでは私たちへの要求、ということで、律法になってしまいます。本来恵みの言葉であるはずのものが、重荷になってはもったいないと思いませんか。ここでは、神様には、この時の信者の集まりを一つにする力があった、と受け止めましょう。その同じ偉大な力は、復活のイエス様を通して、今の私たちの教会にも注がれているはずです。まずはそのことに感謝しようではありませんか。そのように、御言葉の語る恵みを受けて感謝する姿であれば、民衆全体から好意を寄せられたこの時の初代の信者の群れに近くなるのではないでしょうか。
お祈りしましょう。
私たちの主であり救い主であられるイエス様を死者の中から復活させられた全能の神様。
あなたの御名を賛美します。
使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心で、それらを大事にしていた初代のクリスチャンたちの姿を見ました。
私たちも、そのような先達たちの姿にならい、聖書に親しみ、共に交わり、聖餐式の恵みにあずかり、日々祈りながら過ごしていくことができますように。それを阻むような曲がった世の勢力から、私たちを守ってください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
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