聖書交読 詩編118編19~29節(旧約p958)
司)19:正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
会)20:これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
司)21:わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。
会)22:家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
司)23:これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
会)24:今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
司)25:どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
会)26:祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
司)27:主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。
会)28:あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。
全)29:恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
聖書朗読 マタイ21章1~11節(新約p39)
1:一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2:言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
3:もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
4:それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
5:「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6:弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
7:ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8:大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
9:そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
10:イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
11:そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
説教「人生のエルサレムに入る」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日は、エルサレムに入られるイエス様のために大勢の群衆が木の枝を切って道に敷いた出来事から、「枝の主日」と呼ばれます。その時、イエス様は「ダビデの子にホサナ」,という歓喜の声に迎えられたのです。「ホサナ」とは、旧約聖書の詩編などに由来する言葉で、「今救ってください」といった元来の意味から、イエス様当時には喜びと賛美の声に変っていて、「ダビデの子に祝福あれ!」といったような叫びになっておりました。
しかし、ご存知のように、その声は数日後には一転して「十字架につけろ」という呪いの声となり、イエス様はこのエルサレムで十字架のご最期を遂げられます。イエス様にとってエルサレムに入るとは、このように受難のクライマックスを迎えることでした。
私たちもこれと似た経験をすることがあります。まさに人生のエルサレムに入る、とも言うべき体験です。
私たちは一度受け入れられるような経験をするものの、その喜びも束の間、実はその裏に誤解と無理解が横たわっていることを知るようになるのです。この世は私たちの存在を喜んでいるようであり、温かく迎えているようでありながら、私たちがそこで本気になって何かに取り組もうとすると、急に手のひらを翻すように冷たい態度になり、そこまで真面目に生きなくともいいではないか、面白おかしく生きたらいいのだ、と言い捨てます。その中で私たちは失望し、孤独感を味わうことになります。
これはイエス様がエルサレムで体験されたことと共通しています。イエス様があれだけ熱狂的にエルサレムに迎え入れられたのは、実は大きな誤解に基づいていました。せっかくゼカリヤ書の預言通り、柔和なろば、しかもろばの子に乗ってエルサレムに入られ、馬に象徴されるような猛々しい、王のようなイメージを持たれないようにしていたのに、群衆はてっきりイエス様がイスラエルを軍事的にローマの属国であることから解放する王であるかのように扱ったのです。大きな期待を込めて、と言えば聞こえがいいですが、結局は誤解していたわけで、それが思っていたのとは違うとなると、急に態度を変え、イエス様を十字架へと追いやるようになるのです。しかも、その時には「あなたが救い主なら」といったような、イエス様に対する無理解ぶりも露呈していました。
このように、イエス様にとってエルサレムに入るとは受難の極みを体験することでした。同じように、私たちももし人生のエルサレムに入る、と言うならば、それは格好のいいことではなく、私たちも自分たちの人生で苦しみを経験する、ということにほかならないのです。
ほかにも、このエルサレムについて、何か心に留めておくべきことはないでしょうか。私はここで、エルサレムまでの高低差と言いますか、その高さのことは押さえておかなければならないと思っております。エルサレムに行くには山を登って行かなければならない、ということです。
旧約聖書の詩編には、一連の都上りの歌、という詩編があります。120編から始まります。エルサレムへの巡礼の歌と言われますが、そこまで上っていく困難な旅路のことが想定されています。旧約聖書の有名な登場人物、イスラエルの王であったダビデに関しては、ヘブロンの山に上り、更にエルサレムの山も上って、それで王になった、と言われることもあります。そのような困難な体験を通して、王へとつくりかえられていった、とも言えるかもしれません。
イエス様がどのような道のりをたどってこの時エルサレムに至ったかは、100%明らかであるとは言えませんが、丘を下ってエルサレムに入っていった、と言われることもあります。しかし、その前にはその丘まで登る、ということが必ずあるわけです。また、もしイエス様がエリコからエルサレムまで登って行ったと仮定するなら、海抜マイナス200メートルの地帯からぐっと上って標高800メートルほどの地点まで、約1000メートルも登ることになり、かなり険しい道のりであることになります。当時はそのような道を皮のサンダルで上ったのですから、足の裏を岩や石で痛めることもあったのではないでしょうか。旧約聖書では、足を油に浸す、という表現があり(申命記/ 33章 24節)、岩場を歩いて痛めた足をいやすために油が重宝したことが暗示されています。そのぐらい過酷な旅をすることもあったのです。
人生を登山にたとえることがあるように、エルサレムに上るということは、まさに人生の苦しみを象徴しています。偉大なる神の都、平和の町に入るという栄光とともに、もし人生のエルサレムに入る、と言うなら、それは人生の、山登りにも似た困難を表すことになります。
もうひとつ加えるなら、改めてイエス様の御最期を振り返りたいと思います。せっかく苦労して山を登って、大歓声で迎えられても、イエス様は疎外されて、エルサレムの城壁の外、すなわち町の外で十字架にかけられたと言われます。神様と人、また人と人とのつながりづくりを実現するイエス様は、エルサレムの、人が住んでいた居住区から離れたところで、つながりが切れた状態で十字架にかかられたのです。
私たちも似た経験をするのではないでしょうか。まさにコロナの時、私たちは物理的にも心理的にも他者とのつながりを絶たれて孤立せざるを得ませんでした。結局はひとりなんだな、ということをしみじみと思って寂しい思いをした、という人は決して少なくないと思います。
現代は孤立、孤独の問題が深刻化しているとして、内閣官房/孤独・孤立対策担当室が設置されるほどの世の中です。「孤独・孤立の実態把握に関する全国調査」はまた「令和4年人々のつながりに関する基礎調査」という名称も持ち、その結果は、調査対象の4割近くが何らかの孤独感を感じており、「孤独感が”しばしばある・常にある”と回答した人の割合が最も高いのは、30歳代で7.2%となっている」とのことでした。
イエス様はまさに、このように孤独にさいなまれる人々のために、ご自分が疎外され、孤立して十字架の上で孤独感を味わい尽くし、命を注ぎだしてくださいました。また、私たちに先んじて、私たちが後に通ることになる苦難を味わって下さいました。だからこそ、私たちのことを理解して下さるのです。
そして、単なる共感にとどまらず、私たちの身代わりとしてのイエス様の十字架は、単に私たちに慰めを与えるのにとどまらず、私たちを罪による神様との断絶、それに基づいて決定的に神様に疎外されることから私たちを救います。そして、一切のつながりが絶たれて孤独のどん底に落とされた方が、人生のエルサレムに入り、その中を歩む私たちに伴ってくださり、命を与えてくださるのです。ですから、たとえ人生のエルサレムに入っても、私たちは勇気を失わないのです。
お祈りしましょう。
人類を深く愛し、救い主、御子イエス様をこの世に遣わされた全能の神様、
御子は私たちと同じ肉体を取り、
己を低くして死に至るまで、
十字架の死に至るまであなたに従われました。
どうか私たちに恵みを与えて、
御子の苦しみの模範に従わせ、
またそのよみがりにあずからせてください。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン
【報告】
・本日昼食会があります。
・3時半からは神戸ルーテル神学校・聖書学院の入学式です。
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