top of page
執筆者の写真明裕 橘内

2023年4月23日  復活節第三主日礼拝

聖書交読  詩編116編1~7節(旧約p956)

司)1:わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き

会)2:わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。

司)3:死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして

会)4:主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」

司)5:主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。

会)6:哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。

全)7:わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。


聖書朗読 使徒2章2章36~41節(新約p216)

36:だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

37:人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

38:すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

39:この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

40:ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。

41:ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。



説教 「私たちは何をしたのか」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


今年の復活節は、聖書日課から使徒言行録を開いております。二回にわたってペトロの説教を読んでおります。本日の箇所は、先週の箇所の続きです。先週の箇所で、イエス様を十字架につけて殺してしまった人間の罪が鋭く指摘されていましたが、本日の箇所でも同様に、「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」(36節)という表現がなされています。この節全体をもう一度読んでみます。


36:だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」


ここに記されているように、イエス様を十字架につけて殺してしまったこと、これがまさに私たちがしたことでした。私が実際に手を下したわけではないにしても、私の中にある罪こそが、イエス様を十字架の死へと追いやったのだ、というペトロの受け取り方が明確に示されています。


しかし、そのようなことがあろうとも、神様はイエス様を死者の中から復活させて、主とし、メシアとなさったのですから、私たちは後悔してくよくよしたり、自分を責めたりしている場合ではありません。むしろ心を入れ替えて、イエス様を主、また救い主として自分の人生の中に受け入れていくのです。そのような新しい方向へと動き出すために、ペトロは敢えてここで厳しい表現を使っているとも考えられます。ペトロの意図した通り、聞いていた人々は「大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」とあります。そこで開口一番ペトロが勧めた「悔い改めなさい」こそが、イエス様を主、また救い主として受け入れて歩む私たちの新しい方向性への促しであったのです。


もちろんそれは、赦しを受け取って、新たに歩むことでもあります。ですので、「あなたがたがイエス様を十字架につけた」と、私たちがしたことを責められている、ということでもないのです。罪の赦しが土台にあって、その上で、安心して新しい方へ向かっていく、ということにもなるのです。


ここで、神様がイエス様を「主、またメシアにしてくださった」とありますが、このようにイエス様を「主であり、メシアである」と2つの称号、あるいは肩書、尊称で表すことはペトロの説教の主題であり、初代教会の信仰告白であったと言われます。単に「主」でもない。また、単に「メシア」というだけでもない。その両方、「主であり、メシアである」、ということです。この「メシア」とは、救い主、という意味であって、「キリスト」と同じです。この部分を、「主ともキリストともされたこのイエス」と訳している翻訳もあります。


この告白ですが、ペトロ自身が、「あなたがたはわたしを何者だというのか」とのイエス様からの問いに対し、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えていることはご存知の方も多いことでしょう(マタイ16章15,16節)。その時の確信を、ずっとペトロは大事にしてきたわけですね。


ここでの「主」というのは、単に人生のあるじ、という意味を超えていると考えられます。イエス様は旧約で言われていた「主なる神」とイコールである、とまでペトロは考えていたふしがあります。そのような偉大な方が、私たちを救ってくださった救い主なのです。


37節には、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」とあります。


「大いに心を打たれ」とは、「心を刺し貫かれ、悲しんで」という意味です。「感動する」の意味での「心を打たれる」と受け取ると理解が変わってしまいます。ここでは「心理的に影響を与える」という意味の言葉が使われていて、それには「心配や良心の呵責といったものを伴う鋭い心の痛み」が関係しています。それで、思わず「わたしたちはどうしたらよいのですか」と言っているようにも見えます。たいへん深刻な心の叫びであるように思われる半面、思い返してみると、人々はかつて洗礼者ヨハネにも同じ反応をしていることがわかります。もちろん同じ人々だったとは限りませんが、かつて、荒れ野に洗礼者ヨハネが現れ、自分のもとに洗礼を授けてもらおうとして群衆が押し寄せてきたのを見、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」という厳しい言葉を皮切りに教えた後、やはり群衆は「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねているのです。このあたりのことは、ルカ3章7~10節に記されています。その問いに対して、実に懇切丁寧に洗礼者ヨハネは答えていくのですが、だからといって、その聞いた者たちはイエス様がいらないほど正しい人になったかというとそうではなく、むしろその罪によって、イエス様を十字架につけてしまう側になったわけです。その時も、このペトロの説教を聞いた後も、「どうしたらよいのですか」とはどの程度の真剣さで言われた言葉だったのか。聞くだけ聞いておいて、やっぱりやらない、という程度だったのか。でも、私たちはこれを真剣な問いにしたいですね。私たちは何をしたのか。そして、何をなすべきなのか、そのことを真剣に考えるのです。


続く38節に目を移してまいりましょう。「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と語られています。「悔い改め」が先に来ていることに注目しておきましょう。ルターによる『95か条の提題』の冒頭を思い起こします。こんな文章でした。


「私たちの主であり、師であるイエス・キリストが、『あなたがたは悔い改めなさい・・・』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」。


悔い改めを重要なことであると位置づけている点では、この箇所のペトロの信仰と共通しています。


また、この部分を慎重に読むと、「悔い改めは全体に、洗礼は個々に」という区別が見えてまいります。ここでは、悔い改めは具体的に「イエス様を十字架につけた罪を悔い改める」ということになるのですが、これは聞く人全体に求められています。それに対して、洗礼に関しては、「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、」となっていて、個々人で決断すること、周囲に流されるのではなくて一人一人がしっかりと自分のこととして受け止めて判断すること、と言われています。


この「悔い改め」ですが、それは「つくり変えられること」と言い換えることができます。あるいは、「心を入れ替える」とも表現できます。それは、以前のものの考え方を見直すことでもありますので、その意味でも単なる後悔ではない、ということになります。


また、私たち日本人には少し難しい「イエス・キリストの名」ということについてですが、これは「説教しているペトロを含む使徒たちの言葉と行動の基礎となるイエス様の力の象徴」と捉えてみてはいかがでしょうか。そのような大きな力によって、私たちは洗礼を受ける、ということなのです。


せっかくですから、39節以降も1節ずつ見てまいりましょう。39節を改めて読んでみます。


「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」


マルコの福音書の最後を読むと、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」と16章16節にありまして、和を大事とする日本人には、どうもこのような言い方は波風立てる気がしてしっくりこない、他の人にも紹介しにくい、というところがあるかもしれません。なぜごく初期のクリスチャンの集まりではこれを自信を持って言えたのか、ということを考えます。そんなことを言ったら気を悪くする人がいるかも、と思わなかったわけですね。それは、誰でも主が招いてくださると信じていたからではないでしょうか。ここで「主が招いてくださる者ならだれにでもこの約束は与えられている」というペトロの考え方が示されていますが、この背後には、「主は誰のことでも招いてくださるはずだ」、という信頼があったと考えられます。あえて、「主がお招きにならない人がいるのでは」と想定する必要はないわけです。そういった意味では、「主が招いてくださるかどうか、それが条件だ」などと考える必要はなかった。ここで言われている「遠くにいるすべての人」、異邦人のことだと思われますが、彼らも招かれていたわけです。その土台にあるのは、今年のみことばにもあるように、「主の絶えない慈しみと尽きない憐れみ」です。また、今年はそれに続く御言葉にも注目しよう、ということになっていますので、「その恵みは朝ごとに新しい」ということも合わせて心に覚えましょう。それほどまでに恵み豊かな方であるから、主は確かにすべての人を招いておられる。だから、安心して、招かれた人は洗礼を受けて救われるのだ、と主張するのです。


40節には、「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた」とあり、ペトロの説教がもっと続いていたことが示されています。「邪悪なこの時代」と言われていますが、この「邪悪な」という言葉は「曲がっている。不公平である」という意味の言葉です。「時代」は「世界」という言葉に置き換えることも可能です。私たちは神様のつくられた大切な世界に生きているのであり、そこが神様と出会う大事な場とされているのですから、あまり価値判断として「悪」と断じないでおいた方がいいのでは、とも思います。ともかく、曲がった世の中、そこには不公平もはびこっているのですが、そこから救い出されるよう、ペトロは言葉を尽くして、人々のかたわらに立って、熱心に勧めたのです。


読むたびに驚くのが、最後の41節でしょう。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」という御言葉です。ただ、「三千人ほどが仲間に加わった」と書いてあることに対して、「同じことが起こらなければならない」と受け止めるのはどうなのでしょうか。「教会には人が来なければならない、戻って来なければならない」と迫るのではなく、もともと洗礼にはそれだけの力があるのだ、ということを私たちに伝えたい、というのが、この御言葉の真意だったのではないでしょうか。私たちが、人が来ない、人が戻ってこないと嘆き、イライラし、責め合うことを神様は望んでおられないし、そんな雰囲気がある教会には誰も来たくない、というものではないでしょうか。洗礼にはこのぐらいの力があるんだから、それを信じて安心して、もっと任せなさい、というのが神様の思いなのです。だいたい、この仲間に加わった3000人のうち、何人残ったか、ということは書かれていません。それは神様の領域だからです。恐らく、その中の多くが迫害の中で信仰から離れていったと思われます。しかし、それでペトロの働きは無駄であった、と評価することはできません。それは、水の上にパンを投げるような働きであるかもしれません。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」とコヘレトの言葉11章 1節にある通りです。しかし、この御言葉の後半には、「月日がたってから、それを見いだすだろう」とあるのが希望です。


もともと、結果が残りにくいのが日本宣教である、という面があります。考えてみれば、イエス様の宣教も、離れていく人は多かったのです。やはり大事なことは、人ではなく救ってくださるイエス様の方を見つめていく、ということなのです。


イエス様を十字架につけてしまった張本人である私たち。しかし、私たちは糾弾されるわけでもなく、イエス様を主とし、メシア、キリストとして信じる新しい歩みに導かれ、悔い改めて洗礼を受けて、大いなる赦しの中で、生かされています。そのことは、いくら感謝しても足りないほどの恵みです。


お祈りしましょう。

私たちが十字架につけてしまったイエス様を復活させられた神様。

あなたの全能の御名を賛美します。

あなたは、このイエス様を、

私たちの主であり救い主であるとしてお示しになられました。

私たちのしてしまったことの大きさを痛感するとともに、

その私たちを赦して、生かしていてくださる恵みの大きさもまた感じます。

洗礼を受けて新たに生きている私たちに、

道を示してくださり、

また常に、絶大なる洗礼の力を思い起こさせてくださり、

この曲がった世を生き抜く力をお与えください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン


【報告】

・イースター献金をおささげしましょう。

・4月29日宮嶋裕子さん講演会プレ集会、5月11日合同婦人会(ゲスト・岡本依子牧師、場所・母の家ベテル)、6月11日音楽発表会と、行事が続きますので、その祝福のために祈りましょう。


閲覧数:15回1件のコメント

1件のコメント


Taniguchi Maki
2023年4月23日

世界を作った主なる神様とイエス様をイコールでつなぐというペテロのお話で、これまで疑問に思っていた「三位一体」や「十字架による私の罪の赦し」が、すうっと受け入れられました。旧約での罪を罰する神様から、罪を赦す神様へ。アダムとエバに皮の服を着せた神と、人となって私たちの罪を黄泉に引きずり下ろしてくださった神が重なりました。信仰を持つということに対する不安や疑念が消え去るとても大切な日になりました。ありがとうございました。

いいね!
bottom of page