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執筆者の写真明裕 橘内

2023年4月16日  復活節第二主日礼拝


司)1:【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。

会)2:主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」

司)3:この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。

会)4:「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」

司)5:主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。

会)6:測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。

司)7:わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。

会)8:わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。

司)9:わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。

会)10:あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず

全)11:命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。



聖書朗読 使徒2章22~32節(新約p215)

22:イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。

23:このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。

24:しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

25:ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。

26:だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。

27:あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。

28:あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

29:兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。

30:ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。

31:そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。

32:神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。


説教 「何事も聞くことから始まる」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


復活節を記念して、しばらく使徒言行録を開いていきたいと思います。本日の箇所は、ペトロの説教の一部です。1節ずつ振り返ってまいりましょう。


まず22節ですが、彼は「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」と呼びかけました。それから語られていることは、直接聴衆の心に訴えるような部分もあるものの、旧約聖書の詩編16編からの引用があり、正直なところ、これを耳で聞いただけで理解できたのだろうか、とも思ってしまうような内容です。しかし、あくまでペトロは「聞く」ことを人々に要求しました。それはのちに、パウロによって「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10章17節)と明らかにされたことと共通しています。今日は「何事も聞くことから始まる」というテーマですが、まさに信仰は聞くことから始まるのです。旧約の時代もまた、神の民には御言葉を「聞く」ということが求められていました。有名な「聞け、イスラエルよ」(申命記6章4節)で始まる御言葉にそのことはよく表わされています。


続いて読んでいきますと、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」と語られています。まずイエス様が父なる神様から遣わされた特別な存在であること、それは「奇跡と、不思議な業と、しるし」によって証明されるのだ、と告げます。そしてそれを、既にあなたがたは知っている、と念を押しています。


次の23節では、「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」と述べて、イエス様の復活の前提である、その死について触れています。しかしそれは、単に事実を述べた、ということをはるかに超えています。イエス様の死について考える上で重要な側面、それが「神のお定めになった計画によるものだ」ということが明確にされている一方で、それで人間の責任が問われなくなるのではなく、「あなたがたはイエス様を十字架につけて殺してしまったのだ」とまで迫ります。ここが、先ほど触れた、ペトロの説教の中で聴衆の心に直接訴えかける部分です。これがあるために、のちにはユダヤ人をキリスト殺しとして憎み、差別するという間違ったことも起こってきました。しかし、ペトロは「聞きなさい」と聴衆に要求して、そのようなことを伝えようとしたのではありません。ある特定の民族、ということではなく、この御言葉を聞く者皆が、私こそイエス様をその罪によって十字架につけてしまったのだ、と認識するように、とのことだったのです。そのあたり、バッハはよく理解していたようで、マタイ受難曲などには、そのような「この私こそがイエス様を十字架につけたのだ」という信仰がよく表れていると言われます。


そのように、復活の前提としてのイエス様の死が鋭く描かれたのち、24節には「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」とあって、私たちが先週お祝いした、喜びの復活のメッセージが語られます。ここで語られているのは、死の苦しみとは何か、それは死というものに支配されていることなのだ、ということです。イエス様にそれはあまりにも似つかわしくない。それどころか、イエス様は神様の御計画通り、人類すべての罪を背負って、それを全部打ち滅ぼすために死の世界まで引きずり下ろしてきたわけですから、言ってみれば正しいことをしているわけです。そのような方が、死という苦しみを与えるものに支配されたままでいいはずがない。ここでは、イエス様の死からの復活は必然であった、と主張されていることになります。


このように、この部分の文脈はキリストの復活についてとなっており、ペトロが「聞いてください」と言ったのは、復活のこと、ということにもなります。ペトロは詩編16編を引用し、それを「ダビデは、イエスについてこう言っています」(25節)と、詩編をキリストについて書かれたものとして紹介しています。具体的には、主が「朽ち果てるままにしておかれない」という「聖なる者」(27節)、あるいはその前の「わたし」(25節以降)も含めて、ここに示されているのはキリストであるとして、その復活が力強く証しされており、初代の信徒の集まりが、何よりも復活を強調していたことが伺われます。ただ、先ほども申し上げました通り、この辺りは詩編の引用の理解が簡単ではなく、少し詳しく見ていきたいと思います。


ではまず25節を振り返ってみましょう。


「ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。」


ここから、詩編16編の引用が始まります。この詩編16編ですが、復活を暗示する詩編として、復活祭、イースターにも読まれることがあります。この部分は8節からの引用です。そちらをご紹介します。


「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません」


本日は、この詩編が、旧約聖書のギリシア語訳から引用されたのだろうか、ということや、引用されたときに、例えば「揺らぐことがありません」から「決して動揺しない」に変わっているのはなぜなのか、といったことについては、気になりますけれども、時間の関係上触れないでおきます。この部分に関して、ペトロははっきりと、「これはダビデがイエス様について言っていることなのだ」と述べています。それはどういう意味なのか。ここには、「わたし」と「主」が出てきます。このどちらかがイエス様である、という意味で、「ダビデがイエス様について言っている」という意味なのか。そうすると、まず「わたし」がダビデ、そして福音書を見るとペトロがイエス様を「主」と呼んでいるところがありますから、「主」がイエス様、という見方もできます。あるいは、ダビデがイエス様について言っている、というのはそういう意味ではない、この「わたし」こそイエス様なのだ、という大胆な読み方もできるでしょう。その場合は、「主」はそのまま、旧約聖書で描かれる主なる神様、三位一体の枠内で言うならば父なる神様、ということになります。


続く26節も、この読み方で読み進めることができます。


「だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。」


十字架に向かっていく中で、ますます人間の弱さや苦しみを知ることとなり、ご自身に対する無理解も相まって、イエス様の心の中には「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26章39節)と思わず願い出てしまうような暗い思いも湧き出る中で、父なる神様に祈り、近づくときに、心に喜びが戻り、いずれ十字架で死を迎えるであろう体も生きるかのようである、というイエス様の胸のうちです。


解釈が2つに分かれるのが27節で、「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない」とあるのを、一般的には「わたしの魂」と「あなたの聖なる者」を別々の存在と捉え、前半はダビデ、後半をイエス様、と取るのが通例のようです。しかし、先ほど来、大胆に25節から「わたし」をイエス様、として一貫して読んでいます。それは、ここに用いられている「並行法」という技法の解釈にも通じます。ここでは、前半の「陰府に捨てておかず」と後半の「朽ち果てるままにしておかれない」が、用語を変えているだけで同じ内容を示し、共通しています。その場合、それぞれの主語となる「わたしの魂」それから「あなたの聖なる者」は、大抵同じ存在なのです。わざわざ前半の主語をダビデ、後半を別の存在、と分ける必要はないし、そのようにしている例はあまり多くありません。むしろ、両方とも同じ存在であり、そのひとりの存在が、陰府に捨てておかれることがなく、また、朽ち果てるままにしておかれないのだ、ということなのです。そして、「わたしの魂」と言っているのも「あなたの聖なる者」もイエス様であり、ここでは共通してイエス様の復活を示している、と解釈した方がより自然でしょう。


28節でも、「あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」と、復活のイエス様の喜びが暗示されています。


詩編の引用はここまでとなり、29節から再びペトロの説教のことばになります。「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます」と、詩編16編で復活を経験するのはあくまでイエス様であり、ダビデではないことが念押しされています。


続いて30節で、「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました」と、ダビデを預言者としているのはペトロの独自の解釈です。ただ、それも旧約聖書に基づくもので、サムエル記下の7章12,13節あたりがもとになっています。もっとも、こちらはダビデの側近、ナタンの預言ということになっています。


31節では、ダビデが預言者であったからこそ、「そして、キリストの復活について前もって知り、」と述べ、そののち「彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない」と、再び詩編からの引用をしています。


最後、32節ですが、本日の箇所のまとめであるかのような箇所で、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」と言われています。まさにこのイエス様の復活のことをペトロはイスラエルの人々に聞いてほしい、と願ったのです。そして、まさにそれを聞いた人々のうちには、信仰が形作られ始めたのです。


ここには、私たちが心に留めておくべき、正確な表現が見られます。それは、「神はこのイエスを復活させられたのです」というところに見られます。先ほどの、「このイエス様をあなたがたは十字架につけて殺してしまった」という表現と合わせて、私たちはキリストを殺したのだし、そのキリストを、神が「復活させられた」、すなわち「復活させた」、というのが、実は私たちが覚えておくべき、正確な表現、あるいは基本の表現なのだ、ということです。これが、ごく初期の信仰の共同体での言い方だったのです。あえて大胆に言うと、キリストが自分で「復活した」のではない、ということです。もちろん新約聖書を読むと、そのような表現はあるのですが、ペトロの受け止め方はまた違っていて、このようにも言うことができたわけです。


このところから学ぶのは、とかく現代「目からの情報」に頼る面があるので、聖書朗読を始め、「耳で聞く」ということを取り戻す、ということもあると思います。つい朗読を耳で聞くだけでは不安で、聖書を開いて目で追ってしまう、ということになりがちなので、聖書朗読を聞くとき、それは説教の中で紹介される様々な聖書の箇所の御言葉も含め、とにかく聖書を開かずに聞くに徹する、ということもあってよいと思います。CDやインターネットなどを通して聖書の朗読を聞く、ということも、また違った印象につながります。そして、今日の御言葉の中で聞くべき大事なポイントは、キリストの復活でした。そして、私たちにその復活の証人になってほしい、という神様の御心がはっきり表れていました。このように何よりも復活を強調する信仰は、私たち自身の将来の復活への希望につながります。死で終わるのではないのです。そして、自らが確信を持つだけでなく、聞くことで信仰を内にいただいた私たちは、それを表に表し、他者に伝えながら、生きていくのです。


お祈りしましょう。

全能の父なる神様、あなたはわたしたちを罪から救うため、独りの御子を死に渡し、また義とするためによみがえらせてくださいました。どうか悪意とよこしまのパン種を除き、常にまことの信仰と清い行いをもってあなたに仕えさせてください。主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。



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