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執筆者の写真明裕 橘内

2023年3月5日  四旬節第二主日礼拝

聖書交読  詩編121編(旧約p968)

司)1:【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。

会)2:わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

司)3:どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。

会)4:見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。

司)5:主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

会)6:昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。

司)7:主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。

会)8:あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。



聖書朗読 ヨハネ3章1~17節(新約p167)

1:さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。

2:ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

3:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

4:ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

5:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

6:肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

7:『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。

8:風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

9:するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

10:イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

11:はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。

12:わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

13:天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。

14:そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。

15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。


説教  「降りてきてくださった神様」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン



四旬節にその受難を深く思う私たちの救い主、イエス様の特徴は何でしょうか。本日の福音書のみことばに「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」(13節)とあるように、それは「私たちのために降りて来てくださった方」ということです。


私たち人間は、いくらあがいでも天に上ることはできません。また、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」(12節)とイエス様がおっしゃるように、地上のことすらすべて悟ることのできない私たちです。その私たちに代わって、神様の方が私たちの方へと歩みより、それどころか天の高い所から自ら降りて来てくださった。それが、私たちの救い主です。そこまでして、私たちのすぐ近くまで来て下さり、ご自身を現してくださいました。


この方は同時に、私たちを救うために「上げられた」方でもあります。ここでは、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」と民数記21章の救助の出来事が引き合いに出されています。出エジプトの奇跡の後、イスラエルの民は荒れ野を旅しますが、途中でパンも水もなくてがまんができなくなり、ついに神様とモーセに不平を言います。


「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」(民数記/ 21章 5節)


これが神の民の言葉でした。その結果、


「主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た」(6節)


という、言ってみれば神罰が起こります。これに直面して民は悔い改め、祈りを求められてモーセが主に祈ると、


主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(8節)


とのみことばがあり、最後には、


「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(9節)


という癒やしが起こり、民は助けを得ます。このように、荒れ野でモーセが青銅で作られた蛇を掲げる、すなわち上に上げることで助かった、命を得た、と言われるように、イエス様も上げられて、私たち人間を救ってくださったことを暗示していますが、これは十字架のことを指しています。それによって、


15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。


という恵みが実現しました。その背後には、


16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。


という、救い主イエス様を送られた父なる神様の愛がありました。


ここでもうひとつ、イエス様の特徴として挙げられているのは、地上のことも知り、天のことも知っておられる、ということです。ある意味で天と地のつながりづくりをしてくださった方とも言うことができるでしょう。


イエス様は十字架にかかられ、私たちのための救いを成し遂げてくださいました。それが神様に喜ばれ、天に帰って行かれますが、このように天のことも知り、私たちのもとに降りて来られることによって地上のことも知っておられる方が救い主であるとはたいへん意味深いことです。


天と地、これらの片方しか知らない、ということでは、救い主としてはそれこそ片手落ち、不十分、ということも言えるのではないでしょうか。今朝の福音書は、ファリサイ派に属し、議員でもあり、教師とも呼ばれるニコデモという人物とイエス様の対話で成り立っていますが、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」などと言いながらも、イエス様の「人は新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」という言葉の意味がわからない。最終的には、先程もご紹介したように、イエス様によって、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」と、地上のことにも天上のことにも悟りのない人間の姿を暴露されています。それからくらべたら、地上のことか、あるいは天上のこと、どちらかでも知っていたら、それですでに人間を越えている、とも言えるわけです。


しかし、地上のことしかわからないのであれば、天上においてどれほど神様のみこころが実現し、神様の栄光が現れているか、知る由もない。逆に、こちらがイエス様にとっては有り得そうですが、天上のことしか知らない、というのでは、地上でどのような人間たちの日々の暮らしがあり、どこで人々が悩み、どこでささやかでも喜びを感じるのか、ということをついぞ知らぬまま、ということになるわけです。人を救う、と言う方が、それではまさに先程も申し上げたように、片手落ちと言わざるを得ません。


その点、私たちの救い主、イエス様は、その道が最終的に受難の道であったとしても、私たちのところにわざわざ降りてこられ、私たち人間の歩みをつぶさにご覧になり、具体的には、先週福音書から見たことですが、空腹というものを体験された。それが人間にどんな苦しみをもたらし、そこからどんな誘惑に遭うのか、ということを、実体験してくださり、地上がどのような世界か、ということを身を持って知らされたのがイエス様です。そして、それだけでなく、海に溺れた者が同じように溺れた者を救うことはできず、救助のために海に入っても、必ず何らかの方法で陸とつながった者が溺れた者を救うことができるように、人々の救いのために地上には来るものの、天上の世界とつながりを持つイエス様だからこそ、私たちを救うことができる。イエス様は私たちのそばに来られながらも、なお私たちをはるかに超えた方であるからです。


昨日とある旅番組で、天草のキリシタン博物館が出てきて、踏み絵の説明がなされていました。恥ずかしながら昨日始めて知ったのですが、説明によると、当時の潜伏キリシタンは

処罰されるので踏み絵を踏んだ、しかし帰ってきて足を水で洗い、その水を飲み干して悔い改めた、というのです。当時のキリシタンの信仰の有りようを知らされました。その背後にいて、人々に寄り添い、踏み絵を踏むことがどんなに心痛むものかよくわかっておられ、その現実の只中で彼らを支え、導かれ、そして赦されたのがイエス様でした。そしてそれだけでなく、天上とのつながりを持つお方として、彼らを救い、天上の世界まで引き上げることができたのもまたイエス様でした。この四旬節、私たちはこのようなイエス様とともに過ごすのです。この御方が、両手を開き、聖餐式の恵みへと、私たちを招いておられます。


お祈りいたしましょう。

全能の神様、

私たちには自らを助ける力のないことをあなたは知っておられます。

どうか外は体を損なうすべての災いを防ぎ、

内は魂を襲う様々な誘惑や悪い思いを除いてください。

私たちのためにすぐそばまで降りてきてくださったイエス様の恵みを、

常に覚えさせてください。

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン


【報告】

・本日昼食会、部会、役員会があります。

・来週の礼拝は、御影教会も園田伝道所も説教者は馬渕神学生です。




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