聖書交読 詩編130編(旧約p973)
司)1:【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
会)2:主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
司)3:主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
会)4:しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
司)5:わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。
会)6:わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。
司)7:イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。
全)8:主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。
聖書朗読 ローマ8章6~11節(新約p284)
6:肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
7:なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8:肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
9:神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
10:キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
11:もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
説教 「私には無理です」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
イースターも近づき、本日は復活をテーマとした御言葉も見られる箇所が開かれています。聖書日課の使徒書の箇所です。
そもそも、四旬節の期間とは言え、主の日はキリストの復活を祝う小イースターのようなものです。元はと言えば、四旬節に主日は含まれておりません。復活がテーマの御言葉が読まれて何の不思議もないのです。
それでは今日の聖書朗読の箇所をご一緒に辿ってまいりましょう。その前に、まずこのローマの信徒への手紙8章の位置ですが、5章から始まる、キリストの救いの恵みの確かさを伝える部分の中にあります。特にこの8章は、その中でも聖霊による永遠の命について述べている箇所となっています。10節の引用符付きの“霊”を含め、どれも「霊」は聖霊のことを指しています。9節では、その霊は「神の霊」、またそのあとですぐ「キリストの霊」と言い換えられていますが、それぞれ「神の聖霊」、また「キリストの聖霊」ということで、表現を変えているだけで同じ聖霊なる神を指しています。
この部分の構成としては、まずはその聖霊の思いに対立する肉の思いについて、6節で「肉の思いは死であ」ると定義されたうえで、7,8節で詳しく説明されています。
その中で、パウロは自身を「律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3章6節)と定義しながらも、「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです」(7節)と断言しています。単に「神の律法に従っていない」という状態であるだけでなく、そもそも「従うことなど不可能」なのだ、と明らかにしているのです。これはあたかも、神の律法に従うことなど、「私では無理だ」と言っているかのようです。あれだけ律法に対して真面目に取り組んでいたパウロで無理だったのなら、私たちも、神様の律法に従いえない、従うのが不可能だ、と言うのは確かです。
そうであるなら、私たちはどのような定めにあったのでしょうか。私たちに残されていたのは「死」でしかなかったのです。「肉の思いは死である」と言われているゆえんです。それなのに、今は「霊の思いは命と平和」である、とまで言っていただいています。受難のイエス様が私たちの身代わりになって十字架で命を投げ打ってくださったので、ありがたいことに私たちは死から命に移され、聖霊の思いによって守られて、命と平和にあずかる者となったのです。その「命と平和」とは永遠の命であり、神様との平和にほかなりません。
そればかりか、なおもキリストは聖霊として私たちのうちに宿っていてくださる、とあります。
「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義
によって命となっています。」(10節)
更に、
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(11節)
と書かれている通りです。キリストが私たちのうちにおられるとは、聖霊の姿で私たちのうちに住んでいてくださることです。そうであるなら、体は罪の誘惑に絶え間なくさらされ、その支配に負けてしまうような、ある意味で思い通りにならない、死んだような状態であろうとも、うちにおられる聖霊はキリストが勝ち取られた神の義によって、私たちにとっては命そのものとなっていてくださる、命の光を照り輝かせていてくださるのだ、ということなのです。更に言い換えられて、このキリストの聖なる霊は「イエスを死者の中から復活させた方の聖なる霊」である、と三位一体の神学の枠組みの中で語られています。「イエスを死者の中から復活させた方」とは、全能の父なる神様のことです。古代における教会の信仰箇条で「聖霊は父と子から発せられる」とありますから、このように聖霊は父なる神の聖なる霊なのであり、また同時に、子なるキリストの聖なる霊でもあるのです。
そして、この聖なる霊は、もうすでに私たちの体は罪によって死んでいることが明らかにされており、また改めて「あなたがたの死ぬはずの体」とまで言われているのだけれども、わたしたちの内に宿って、私たちを生かしていて下さるのです。
このように、私たちの体が所詮死ぬべきものに過ぎないことについて、私たちの人生の困難と合わせ、少し考えてみましょう。最近、ドラマでこんなやりとりがなされているのを見ました。昭和生まれの服のデザイナーは、「人生が楽しいだけで済むはずがない」と言い切ります。平成生まれで令和に羽ばたく天才デザイナー、こちらがヒロインなのですが、人生楽しむために生まれてきた、といったようなことを言うので、そのように言っているのです。時代の違いを感じるとともに、私が常々疑問に思う「楽しむ事至上主義」に対して昭和のデザイナーが異議を申し立てているとも言えるので、たいへん印象に残りました。
本当は誰しも、人生が楽しいことだけでないことはわかっている。人生楽しむのだ、と言い張るヒロインも、自分が急に人気デザイナーに上り詰めたことによってあまりにも忙しくなり、デザインするのが苦痛になってしまった、という辛いところを通ったからこそ、あえてそう言っている、という面もあるのでしょう。だからこそ、令和の時代においては、楽しむことが大事と主張されるようになる、とも言えるわけです。
このように、人生が楽しいことだけでないことは、「肉の思いは死である」ということの内容に近いのではないかと思います。自分の人生なのに、思うようにならない。理想はある程度あるけれども、それに到達したためしがないか、あるいはある程度妥協して、理想通り生きていると思い込もうとしたか、というところでしかない。時には思い通りにならない体を持て余して、いつまでも生きていたいという思いとは裏腹に、ヨブのように自分の人生を呪ってみる。私たちはその現実の中で、自分の力ではそこから脱却できない、「私では無理」と告白しつつ、聖霊としてキリストが内に住んでくださることを通して、死に打ち勝ち、幸いの中を歩んでいくのです。
お祈りいたしましょう。
全能の神様。
御子イエス・キリストは大祭司として来られ、
その血をもって至聖所に入り、
ただひとたび永遠の贖いを全うされました。
どうかご自身を神様にささげられたキリストの血によって、
私たちの良心を死に至る行いからきよめ、
あなたに仕えさせてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・本日は青年会主催の聖書研究会があります。内容は詩編です。
・今年の合同婦人会は5月11日、場所は母の家ベテルで、講師はオリンピックメダリストの岡本依子牧師です。
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